第7話 キタカガミ
俺の予想通り、アリスのマンションを出たのはちょうど23時だった。
自転車をこぎ、アップダウンの砂利道を、ライトの光を頼りに進んでいく。
初めてこの道を深夜走った時は、恐怖でどうになりそうだった。
背後に気配を感じたり、獰猛な獣の鳴き声や、人の囁き声といった幻聴すら耳にした気がした。
今ではもう慣れ、心臓の鼓動も落ち着いたもので、恐怖もほとんど感じない。
俺は普段通り風呂に入った後、キッチンの後片づけや洗濯などを終わらせ、帰ろうとした。
常々、我が物顔で、好き勝手振る舞っているアリスだが、帰る折になると、いつも目を伏せ、寂しそうに、
「もう帰るの?」と呟く。
「ああ、姉貴がうるさいからな」
いつものやり取りだが、俯き、小さく「そう」と呟くアリスを見ると、心なしか帰ることに後ろ髪を引かれる思いになる。だが、ビッチな姉の嫉妬に満ちた暴言を考えると、家に帰らない生活が今以上に続くと、いつか包丁で刺されかねない。
アリスには、「また今度、泊まるから」と言うのが、俺の精一杯だった。
「いつ?」
「さあ……」
アリスのマンションに続く砂利道を抜け、街灯煌めく繁華街を抜け、自宅帰宅した時、部屋の明かりが見えなかったことから、まだ姉が帰ってきていないのだと思った。
玄関を開け、家に入ると、空気は静まり返っており、酒の香りも漂っていない。俺の推測は間違っていなかったのだと確信する。
俺の住んでいる家は1DKの一階建ての平屋。家賃は4万円(光熱費、共益費、除く)。
俺はダイニングキッチンを通り抜け、狭い寝室に入った。
二段ベッドに、テーブル、箪笥、本棚、姉のお気に入りの人形などが所狭しと置かれたこの部屋は、姉弟二人が寝起きするには小さすぎる。
俺は電気をつけ、スクールバックを、壁際に置き、寝間着であるジャージに着替えた。
そして、台所に行き、歯磨きをする。
ダイニングキッチンに入ってきた時、姉の夕食として持て帰ってきた、タッパーに詰めたスパゲティーなどを皿に盛り、夕食の準備をする。
あと三十分、帰って来るのを待とう。
俺は歯磨きを終え、ダイニングキッチンの、テーブルを囲んだ二席しかない椅子の一つに腰をかけていた。
外からタクシーの排気音が聞こえた。
どうやら帰ってきたらしい。0時だった。今日はいつもよりも帰りが遅かった。
引き戸がガラガラッと開き、姉はドスンと上がり框で尻もちをつき、靴をなんとか脱ぎ、ふらつく足で、ダイニングキッチンに入ってきた。
片腕にブランド物のバックをかけ、細く長い脚をもつらせながら、歩いて来た。
「たらいま~」
ろれつが回らない舌で、俺にそう言った時、姉の膝は力が抜け、その場でペタンと座り込んでしまった。
俺はすぐさま、用意しておいたボールを姉に渡す。
いつものことだ。
数秒後、姉の口から、奇妙な色合いの液体が吐き出された。
嘔吐。つまりはゲボ。
「飲みすぎだよ。全く」
「ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ……」姉は苦しそうに咳き込む。「しょうがないでしょ、アマちゃん。仕事なんだから……」
俺の姉―――北 カガミはお酒を飲む仕事をしている。客を摂待をして、お酒を飲む仕事である。
「弱いんだからさ。どうにかならないのか?」
姉のカガミは、胃の中のものをすべて吐き出し、俺に汚物であふれたボールを渡す。
かなりの悪臭を放っていた。
「別に、お酒は嫌いじゃないし、好きだから、私は全然かまわないのよ」
カガミは俺の言葉の真意に気が付いていない。いつものことだ。
俺はカガミの汚物を、玄関脇にあるトイレに行って流す。
俺は姉との二人暮らしをしている。両親は物心ついたときにはもういなかった。カガミは生活のために通っていた高校を中退し、今の仕事についた―――らしい。
俺には両親との記憶はない。
ダイニングキッチンに戻ると、カガミは床の上で躰を折るようにして、寝ていた。
一定のリズムで胸を上下させ、気持ちよさそうに寝ている。
「アマちゃん……好き……」
どんな夢を見ているんだよと思いながら、俺は頭を掻き、
「しょうがないな……」と呟く。
いつものことだ。
俺は姉を抱きかかえ、寝室に連れてゆく。カガミのベッドは二段ベッドの上で、俺のベッドは下だが、さすがにカガミを上のベッドに持ち上げるのも面倒なので、俺の下のベッドにカガミを寝かせた。
そして、俺がキッチンに置いておいたカガミのために用意した夕食を、冷蔵庫に入れに行こうとした時、突然、カガミに腕を引かれ、ベッドに無理やり押し倒された。
カガミは俺の体に抱き付き、俺の頭を優しく撫でる。
ぐ、ぐるしい。
「う~~~~ん、気持ちいいよ~~~~、一緒に寝よ」
どうやら嘘寝をしていたらしい。毎度カガミの演技には騙される。それに、嘘寝だと何となく勘付いてはいても、ほっておけない自分の性格が少しばかり憎かった。
一定のリズムで呼吸する姉の口からは、微かにお酒の香りがした。さらに、ほんのり香水の香りもする。
カガミの俺の体に巻き付いた腕の力が弱まった。どうやら本当に寝たらしい。
お風呂に入ることなく、またパジャマに着替えることなく、カガミは寝てしまった。これまた、毎度のことだ。
寝室の薄明かりは、剥げた畳を照らしていた。
カガミはしばしば俺のことを好きだと言う。俺はそれが嫌で嫌でしょうがなかった。俺は母親のことを知らない。この感情は、年頃の男の子が母親に対するのと同じ反抗期特有の感情なのかもしれないが、どうも生理的に受け付けなかった。
もしかしたら、似通ったDNAしているがために、本能的に拒絶しているのかもしれない。
まさに生物学的拒絶。
俺はカガミの腕からゆっくりと逃れ、ベッドから這い出る。
地響きに続き、轟音が響いてくる。家は軋み、箪笥やテーブル、ベッドをグラグラと揺れる。
窓から外を覗くと、星の煌びやかな光に交じり、無数の赤い光を発するB423戦闘機の一団が、ゆっくりと北上してゆく光景が飛び込んできた。
俺は戦闘機が放つ赤い光を見ながら思う。
支配のぞみか……アリスはどうやって友達になるつもりなんだろうか、と。