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第4話 シャープペンシル

 エレベーター音が高らかに響き、ドアが開いた。

 ここは、もうマンションの13階。

 開いた扉の向こう側には、暗い廊下が真っ直ぐ続いていた。同時に、異臭が漂ってきた。


「うはあ~~、帰ってきた、帰ってきた」


 アリスは両腕を上へと伸ばしながら、軽やかに廊下を歩いてゆく。

 アリスが通ると、明かりが一つ、また一つと灯っていった。

 長い廊下の左右にはいくつもドアがあり、このフロアすべてがどうやらアリスの所有物らしい。


 長い廊下をぬけると、一面ガラス張りの部屋が現れた。

 その部屋は、とてつもなく広いリビングダイニングキッチンの一室だった。この部屋だけでも、俺の家の何倍もの広さがあるかもしれない。それほどまでに広かった。

 部屋中央には巨大なC字型のソファーが置かれ、ふちには100インチはあろうかというくらい大きなテレビが置かれていた。


 だが、俺が目を見張ったのは、ガラス窓の向こう側に広がる、煌びやかな光を放つ日高町でもなく、夜空でもなく、部屋に据えられた高価な設備でもなかった。

 俺が視線を釘づけにしたのは、足の踏み場もないくらい散らかったゴミであった。


 フローリングの床が見えないくらいゴミが散らばっていた。法則性もなく、ただ乱雑に捨てられた、食品の袋、容器、ペットボトル、中途半端にゴミが入ったコンビニの袋、本、衣類、プリント類、布団、シーツ、機械の部品類、カーテン、動物人形、食器、食べかけの食料品(すでに変質して何かわからない)、とまあ目に映るものはほんの一部で、名前のわからないものが多数を占め、俺にはこの部屋がゴミ集積所か何かのように見えた。


「言葉による不安定な立場じゃあ、アマドも不安でしょ」

「何が?」

「《私に従う》って、契約についてよ」


 アリスは学生鞄をソファーに投げ捨て、床のゴミ山の中からA4サイズの紙を一枚拾い、ポケットに刺しこんだいたシャーペンシルで何かを書き始めた。


 何を書いているんだ?


 書き終えると、テーブルの上に散らかった本類を足でどけ、そのA4の紙を俺に見える形で置いた。


「じゃあ、この紙のどこにでもいいからサインして頂戴」

「サイン?」

「そうよ。契約よ。アマドが契約書にサインして契約を結べば、あなたの不安は消えると思うの。でも、もし契約を結ばなければ……」


 アリスはシャーペンシルを手の平でポンポンポンと叩き、不気味にぐふふふふ、と笑っている。

 俺にはそのシャーペンシルが銀色に輝くナイフのように見えた。


 ……選択肢はなしか。


 アリスの言う契約書には俺の知らない言語で何行も綴られていた。言語学が苦手な俺には部分的な単語意味くらいしかわからかった。アリスの子供の落書きのようなサインが、ふちのほうに書かれていた。

 俺も契約書のふちの方に小さく、また丁寧に『北アマド』と自分の名前を書いた。


 アリスは俺が名前を書き終えると、にこやかに笑い、「これでアマドは、私の王国の使用人になったわけね」


 アリスの言っている意味が分からなかった。


「ねえ、私の、私の使用人さん。まずは手始めに、私のこの汚い部屋を掃除してくれないかしら?」


 アリスはソファーに深々と腰かける。黒のタイツを足先だけを使って器用に脱ぎ、床に捨てる。

 白く艶やかな生足が顔を出す。


「どうして?」

「どうしてですって!! その理由は、この紙に書かれた契約だからよ!!」


 アリスは俺に契約書を見せつける。


「でも……」

「あ~~~~、もう、本当に鈍感ね。不安を消してあげるって言ったでしょ。あなたは私の下に仕えることで安心感を得たわけ。別にいいわよ。このままあなたを殺しても……だって、ここら一体は、この国の法律が及ばない私の私有地ですものね。この場所はいわば独立国と同じなの。だから、あなたを殺そうが、焼こうが、食べようが私の自由にできるってわけなの。その働かない頭でもこの意味がわかって?」


 まったく、分からなかった。


「で、どうするのよ、アマド。掃除をするの? しないの?」


 アリスは俺を威圧する。

 俺は深く考えなかった。

 掃除をするのには、慣れていた。もう十年以上、つまりは物心ついた時から、家の家事全般は俺がやっている。だから、掃除することなど俺にとって朝飯前だ。


 俺は床に散らばった本を拾い始めた。

 心理学入門、人の心をつかみ方、武術の心得、恋愛の秘訣、初めての料理――――と散らばった本のタイトルを見ているとアリスの心の内が見えてくるようだった。


「……意外と聞き分けがいいじゃない」


 拍子抜けしたように、アリスは肩を落とす。


「掃除は苦手じゃないからな……」

「そう……」


 俺は単純に嬉しかったのかもしれない。ナイフで脅迫をされ、何が書いてあるかわからない契約書にサインさせられ、掃除を強制させられているにもかかわらず、家族ではない誰かに必要とされていることを、ずっと望んでいたのかもしれない。


 ずっと一人だったから。

 孤独だったから。

 そして、ぼっちだったから。


「本当に聞き分けがいいのね。もっと抵抗すると思っていたわ」


 アリスの声は角が取れ、丸まっていた。


「……小さい時から、家事はずっとやってきたからな」


 俺は脱ぎ捨てられていたアリスのワンピースを畳む。

 アリスはソファーの上で膝を抱え、俺をじっと見つめていた。

 観察するように。

 また、覗き込むように。

 本を部屋のふちに積み上げ、ゴミを拾いだした時、俺はアリスの視線に気が付いた。


「何?」


 アリスは心なしか目が潤んでいた。


「べ、別になんでもないわ」

「そう……」


 ガラス張りの窓から見える日高町の夜景が、すごく綺麗だった。

 そして、

 アリスは小さく囁くように、聞こえるか聞こえないかくらい小さな小さな声で独り言を呟いていた。


「本当はこんな形でアマドと仲良くなろうと思ったわけじゃなかったのよ。でも、ちょっと行き過ぎちゃって――――」


 アリスは膝に顔をうずめ、ぼそぼそと呟いていた。

 それは本当に本当に小さな声だった。


 俺は床に散らばったゴミを拾い続けた。

 そして、アリスがその呟きを終えると、


「え? 何か言った?」と俺は訊き返した。

「んえ? べ、別に何でもないわよ」


 アリスはプイッと横を向いた。

 頬を赤らめ、口をすぼめ、恥ずかしそうな顔をしていた。


「あのさ、ゴミ袋どこにあるかな? 袋がないとどうしようもないんだけど」

「あっ、そ、そうよね」


 アリスはソファーから飛び降り、キッチンに小走りで走っていった。

 いつの間にか、制服を脱ぎ捨て、青のハーフシャツにパンツといった下着姿になっていた。その後ろ姿を見ていると、姉の家での生活を思い出した。


「厄介な仕事が増えてしまったよな」


 俺は独り言を呟く。

 掃除をしていると、やけに冷静になれた。何故、あれほどまで、アリスに対してびくびくしていたのか自分でもわからなかった。


 いや、掃除をしたためじゃない。

 アリスの消え入るような小さな独り言はちゃんと聞こえていた。

 俺は掃除に集中して、アリスの独り言を聞こえていないふりをしていたが、

 ちゃんと聞いていたんだ。


 胸がジーンと熱くなった。

 よくよく考えるとおかしな話だ。

 シャーペンシルをナイフだと思うなんて。


 そりゃあ、《アリスのいうところのナイフ》が何度も喉に当たったのに切れないわけだ。

 そうだよな。転校してきて不安だったんだよな。


 アリスの気持ちは痛いほどよくわかった。

 見知らぬ土地。

 転校生。

 一人ぼっち。

 ―――――――――孤独。


 俺は先ほどアリスが小さく、呟くように言った言葉を反芻した。

『本当はこんな形でアマドと仲良くなろうと思ったわけじゃなかったのよ。でも、ちょっと行き過ぎちゃって――――ちょっと脅すつもりだっただけなのよ。その方が、インパクトが強いから、仲良くなれると思ったの。でも調子に乗りすぎちゃって……ごめんなさい、アマド」


 まあ、確かにおかしな話だ。

 先ほど整理した本から俺への脅し文句を考え付いたのだろう。

 ヴァンパイアの歴史、殺人とは、脅迫の極意……。


 アリスの今まで語った言葉が俺の中で一本の線になっていた。

 ――すべては、俺と仲良くなるためについた嘘――


 怖い思いをしたが、アリスに対して、俺は感謝の気持ちを抱いていた。

 下着姿で躰の大きさほどあるゴミ袋を広げ、アリスが駆けてくる。


 床を見ると、穿き捨てられたパンツが目につく。

 ため息が零れる。


「なあ、これ全部掃除するのか?」

「もちろん全部よ。それにこの部屋だけじゃないんだからね」


 この部屋以外も汚しているのかよと俺は思った。


「嫌って言ってもダメよ。これは契約だもの。ちゃんと契約書にサインしたんだから、守ってよね」


 紙による契約がどれほどの効果を発揮するのかはわからなかったが、俺は両手を広げやれやれと首を振る。


「何よ」


 アリスは頬を膨らまして、俺を睨む。


「別に……」


 さて、どれだけの時間、掃除にかかることやら……とうんざりしながらも、

 俺の口元には笑みが浮かんでいた。


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