65. 不眠なる者共
真っ白な上質紙の束に描かれているのは、同じく製法を知り得ない色とりどりの鉛筆によって描かれた、人であり天使であり悪魔であり、また景色であり建物である。
そこには懐かしきイルテリアの楽団による演奏風景もあれば、最新の頁にて直近の成果である、イルテリアの白宮が描かれていた。それは最近作者が熱心に取り組んでいたものであり、それに違わぬ出来と言えた。
「まるで切り出した様ね」
作者たるビガロの絵の才能は勿論であるが、この場合それに限った事ではなく、それをこの場所で可能としている、その「記憶力」にも由来する。絵の才能と一括りにしがちではあるが、そこには「技術」「目」「記憶力」様々な要素があり、それら無くしてビガロの絵は成し得ない。
ラトリスは、未だ心地良さそうに寝息を立てる当の友人を見やると、そうして胸につかえた重たい物を僅かばかり和らげていた。そうでもしなければ、余計な事を思い出し、朝から気が滅入ってしまう。
実際それは、ラトリスにかつてない影響を与えていた。それの所為でラトリスは寝所に入ったものの、寝ずに朝を迎える羽目にまでなっている。
「どうかなさいましたか?」
「きゃっ」
それは唐突に窓の外に現れた、逆さまのベヘルドであった。
「はっはっ! 驚いたかお姫さん?」
「はい、胸がドキドキしています」
「恋する乙女の様な感想、ありがとうございます」
「え?」
ベヘルドの他愛のない応答に、ラトリスの笑顔は僅かにぎこちなさを含んだ。それは思わず出てしまった動揺であり困惑であった。しかし発端の驚楽の悪魔に他意はなく、その事に気付いた様子もなかった。
「ところで——」
ベヘルドが続ける様に話し始めると、ラトリスは直ぐに心を落ち着けた。それは皇女としての経験からくる特技であり、人と対峙したならば、それがどの様な場面であろうと立場を意識し、相応しい物であろうとするというもの。それは寧ろ、相手が在ればこそ適う平常心であり、今はそれがありがたかった。
この場合、相手は人ならざる悪魔ではあるが……
「——ビガロちゃんはどうですか?」
ベヘルドの目線を追うと、そこでは未だ寝息を立てているビガロ。大丈夫とはどういった事なのか?
「いや何か城の兵士連中が騒がしく駆け回ってたんで聞いてみたら、他の連中がどうしたって起きないんだとか」
「起きない? そうなのですか?」
椅子に腰掛けたままに瞼を閉じていたイヴァラ、その体が不意にその均衡を崩すと、椅子から倒れた。
「イヴァラ、大丈夫ですか?」
駆け寄るラトリスに対して反応は無く、その瞼は未だ閉じたままであり、顔を寄せれば聞こえてくるのは微かな寝息……イヴァラは寝ていた。
通常椅子から落ちれば誰であろうと直ぐに目を覚ます。尚且つイヴァラに至っては修練を積んだ騎士であり、些細な事でも即座に覚醒し対応する術も心得ている。
ラトリスは、ベヘルドが眺める部屋の中を横断し、別室で眠るニーナを揺する。が、やはり起きる様子は無い。
「これは一体……」
深刻になるラトリスとは対照的に、ベヘルドは部屋に降りると、鼻唄混じりにスケッチブックをめくっていく。この状況下において驚楽の悪魔は謎の上機嫌であった。
「本当に起きないみたいだな」
「もしかして、原因が判っているのですか?」
「いや……ただまぁ、悪魔だろうなぁ」
ベヘルドの余裕の素振りに、ラトリスはもしやと問い掛けたが、返ってきたのは興味がない様子ばかりであった。
そんな最中……
「ふぁ〜あ!」
「あれ?」
呑気にも伸びを伴って起きたのは……
「あ、おはようございます」
ビガロであった。
「……例外も居るのか?」
首をひねるベヘルドを他所に、ラトリスは寝台へと駆け寄るとビガロの頬を撫でた。
「どうしたんですか?」
「ん〜ビガロちゃんは魔除けの加護でも持ってるのか?」
「何ですか? それ?」
「魔物とか悪魔の特殊な影響を受け難い才能みたいな物だな。異能持ちに多くてさ、その最たる勇者なんかはだからこそ厄介なんだよ」
「おお! 私にもその才能が!?」
「ん〜でもビガロちゃんは、そんな風には見えないしなぁ……」
「いえ、私はツイてるので、もしかしたらもしかしなくも有りませんよ」
懐疑的なベヘルドに、ビガロは鼻息も荒く返した。
「ベヘルドさんはこの件を伝えに来て下さったのですか?」
ラトリスが訪問の理由を訊ねると、ベヘルドは思い出した様にして再び笑顔を浮かべた。
「いや実は、マガツの頼まれた事のついでに寄ったんですよ」
「その頼まれ事が、機嫌が良い理由なのですか?」
「いや、それに関しては怠いんだけど……まぁ報酬と言うべきか、今後の展望を少し聞きましてね」
それはラトリスやビガロには想像も付かない事であろう事は察せられた。さらにこの段階ではまだまだ遠い先の話であるらしい。
しかしそれを聞いたベヘルドは、怠いと言うお使いすらも、非常に機嫌良さそうに取り組んでいる様子……
「マガツならばそれを成し遂げる。いや、是非とも遂げてくれ」
二人を置き去りに、ベヘルドは拳を握りしめ、一人頷くのであった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ヴィランは兵士達の報告を受け、現状を把握しつつあった。
夜番から交代の時間になっても起きない兵士達を皮切りに、仮眠を取っていた筈のドールマンや皇帝、その他文官達に至るまで、一度眠りに就くと彼等は目覚めては来なかった。そしてそれは時間の経過と共に、帝城に限った事ではなく、帝都【ベルーガ】においても同様である事が伝えられた。
流石に帝国領土全域という事は考え難いが、【ベルーガ】は帝国の要であり皇帝陛下の在わす場所……事態は深刻の上塗りである。
「これは明らかに悪魔の仕業であると考えられる。しかしその上で、【嫉妬】がこの様な手段を執るとは考え難い。であればおそらくは、大天使の告げた【憤怒】側である可能性が高いだろう。……『存続か滅亡』と言ったが、端から滅亡を前提に不戦勝でも宣言するつもりだろうか?」
卓を囲む一団の中において、ヴィランがその様に口にする。それに対し、同席する者達からも様々な声が上がる。
「大天使が居るならば事態をどうにか出来ぬのでしょうか?」
「大罪魔王を相手に天界側まで出張って来ては、それこそ【聖魔大戦】の再来、イルテリアの二の舞となるぞ。私はこの帝国の地に、両者が揃っているというだけでも生きた心地がせん」
「左様。我々は我々の力で、この事態を乗り越えねばならない」
「うむ。仮に天界側が動くのであれば、それはもはや荒地と化した帝都の跡地であり、我々の手を離れている頃だろう」
「む、そう恐ろしい事を仰るな」
「我々は、前提となる【嫉妬】との間に決闘というルールを設ける事が出来た。【憤怒】も話の上では、それに則っている筈」
「【嫉妬】はその気質故に約定を反故にする様な事はすまい。しかし【憤怒】は……そもそも奴等の真の狙いは何だ?」
「真の狙いなどあるものか、身に余る欲望を振り撒いているだけだ。【憤怒】であるならば我等の激情を煽って愉悦に浸っているのであろう」
「激情を煽る為に一国を滅亡に追いやると? 馬鹿げている!」
「悪魔の価値観など、人たる我等の知る所ではない」
「しかし、ただでさえ連合に人員を割いている最中、時間迄もが明日と差し迫っている。猶予さえあれば神聖国や魔導国に……」
「無いものねだりをしていても仕方がないでしょう」
「その通り、先ずは寝ている者達の保護を優先すべきだ。防衛設備がある場所に集めてだな……」
「だからその保護に動く人員、防衛にあたる人員がないと言っている。それに何処に集めようと言うのだ?」
「むむ……司祭は眠りに落ちていないらしく、ならば天界による教会の加護は有効なのだと考えたのだが」
「またしても天界などと……何の為の【大陸会議】であったか」
「思い違いをしているぞ、これは与するのでは無く利用なのだ。我々は非力故にその領域の力を存分に利用せねばならない。それこそ【大陸会議】では、既に残虐王が悪魔を配下にし、その力を利用していると宣ったでは無いか」
「落ち着け! ……リベルタスの王については今は関係ない。それに力を利用するのと、それそのものを使うのとでは話が変わってくる。それから、我々も明日を控えいずれは睡眠を取らねばならない。その上で教会が『継続睡眠』に有効なのであれば、そこを利用する事も考えよう」
「……ヴィラン殿がそう仰るならば」
「う、うむ。そうですな」
「しかし、一体どうしたものか……」
【憤怒】側に関する情報は殆どなく、また【嫉妬】との試合を明日に控えた現状。徹夜組で構成された場は、焦りと混乱を極めていた。
そんな折、部屋の扉が開かれる。それは端正な顔立ちと物静かな印象を伴った騎士、第一師団ファランクス隊のダキムであった。
「貴殿、目を覚ましたのか!? では皆は!?」
「残念ながら未だ……」
ダキムは夢の悪魔『グリム』について伝えた。
そこでは、皇帝ヴェルフリードを始め帝都【ベルーガ】を中心とした周辺の住人達が、今尚『夢』に捕らわれており、そしてそれが、賭け金を吊り上げた故の逃走を許さない人質であり、保険であると告げられた。
その上で【嫉妬】との対戦に向け、代表者たる自身とサイラスなる者が解放された事を告げた。
「……成る程。そのグリムなる悪魔は貴殿の目から見てどうだった?」
「信用出来ません」
ダキムは老獪を思い浮かべながら、静かな口調で以って返答した。
「そうか」
ヴィランは瞑目する。ダキムの返答は、決闘の如何に限らず、人質の解放が保証されている訳では無いと察せられるものであった。
であれば、おそらくこのダキムやサイラスが解放されたのも、【嫉妬】側に対する措置であり、帝国側に対しての配慮では無い。
解放せずに人質を持ったまま、悪魔はどうするつもりか……ヴィランの脳裏に、再び『予言』が想起される。それは最悪の結果。
「それから、陛下から『対天魔武装』を使用する様にとの事です」
ダキムが報告すると、幾人かが呟いた。
「天魔の高位がいる場に持ち出すのは時期尚早ではないか? 我々の手の内を晒す事に……」
「最早そうも言ってられる段では無い。故にこれを最終的な運用試験と捉えれば良い」
ヴィランはその瞳を開いた。
「これは陛下の下した決定である。……ダキム、了承した」
そして続け様、ある人物達に正面を向けた。
「さて……ウルガス殿、リンキンス殿」
それまで黙って様子を見ていた先人達へ、その場の視線が注がれた。
「……隠居の身なのだがな。まぁ仕方がない」
柳にも似た剣老は、顎を撫でさすり呟いた。一方で、明朗に毒づく賢者も自らの頭を撫でる。
「やれやれ、こんな爺を使わにゃならんとは、困ったものじゃな。……つまりはその元凶を見つけて出来うればどうにかしろと言う事じゃな?」
「はい。此方に保護に動ける人員は無く、また何処ぞに潜む相手に対し防衛力もありません。事態を打開するには先ず『グリム』なる悪魔を対応し、皆を『夢』から覚ます必要があります」
「その『グリム』なる悪魔を見つけたとて、【憤怒】が共にあった場合、流石にどうにもならんと思うんじゃが。それにお主の聞いた話では【憤怒】側は三人おったんじゃろ?」
それはヴィランが大天使から【憤怒】の存在を告げられた際に、同時に齎された情報であった。
「はい。ですので取り敢えずはその姿を捕捉し動向を窺っていただきたい」
「その上で可能であれば……と言う事か」
「これはお二人にしか頼めません」
ヴィランが頭を下げると、他の者達も同様に倣った。
「お主からそうまで言われれば、まぁ悪い気はせんな……」
剣老に続き、賢者もその任を承った。
「して、奴には伝えるのか?」
リンキンスがそう訊ねると、ヴィランはそれが誰を指し示すのかを直ぐに理解した。そして壁にある窓の方を見やる。
「【嫉妬】との決闘に関しても、此方としては手を借りている状態。その上でこれを伝える事は、更なる助力を求める行為であり、些か気が引けますね。私が招いた客人でもありますし。……ですが、この場は恥を忍んで協力を求めたく思います」
あらぬ方向を見つめたままに、そう口にしたヴィラン。リンキンスも同様にして視線を向けると、壁の向こうの微かな気配に「成る程」と納得するのであった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「滅亡には、この地に居る我々も含まれるのだ。大いに働かせてもらおう」
マガツは壁を背に、それをコツコツと叩いた。中ではヴィランがそれを以って了承と受け取るだろう。
「と言っても、既にベヘルドを走らせているのだがな」
マガツは、驚楽の悪魔を走らせるに至った小さな『小石』を見やり、その様に呟いた。それは、とある伝手から入手した貴重な物であり、後の展望への切っ掛けでもある。
マガツはそれが、『目の良い誰か』に見つかってしまわぬ様に再び懐へとしまった。
「【憤怒】側のもう一つの不気味な気配はどの様な悪魔か……」
マガツとしてはグリムよりも其方を気に掛けていた。その理由は、他の悪魔とは異なる違和感を含んだ気配。
「……まぁどの様な者であろうと、ベヘルドの逃げ足ならば問題はない」
故にベヘルドが向かったのは、其方の捜索であり、つまりは帝国側とは役割の分担が適っていた。
「……ふむ。……そうか? ならば少し整理するとしよう。
【憤怒】帝国内にて潜伏「賭けに便乗」
大罪魔王→おそらくルミリエールと牽制?
グリムの対応←剣老、賢者
不気味な気配←ベヘルド
【嫉妬】闘技場にて待機「拠点の奪取」
大罪魔王←マガツ「彫刻の返還」
眼帯の男←ダキム
ギョロ目←ヴィラン
モドバイ←サイラス「コケにされた」
ゴスロリ→モドバイの背中
鉄鬼兵団→闘技場へ向け移動中
【帝国】連合に軍を派遣中であり現状手薄
帝国の住人→グリムの夢「人質、保険」
ゲシュルト混成軍→鉄鬼兵団、ヴァモヴァモ等と共に移動中
……という事だ」
マガツは頭の中で簡単におさらいをした。
「ところで、彼等の言う『対天魔武装』とは一体何だ? ……分からないという事か? ……ふむ。つまり『黒の法たる悪魔の力』と『白の法たる天使の力』を武具に宿した物であると……」
マガツは相変わらずの独り言により、勝手に納得すると、完結していく。
「それらに呼応するならば、それは『解放を求めたる人間の力』と言ったところか。……条件? ……可能なのか?」
マガツは僅かに驚きを見せると、直ぐに薄気味悪い笑顔を浮かべ歩き出した。
「物は試し、早速行くとしよう」
その僅かの後、目覚めるなり一人深刻ぶった顔で状況に浸っていたサイラス。彼は不意に現れたマガツによって、街へと連れ出される事となった。
「立場に酔っている場合では無いぞ」
「ち、違う! 馬鹿な事を言うな!」
ちょっと文がごちゃごちゃしちゃってるので、後々整理するかもしれません。