02. 奇術師マガツ
【ウズの大森林】と呼ばれる深い森。其処には様々な生物が生息しており、中には悪魔の血脈を持つとされる「魔獣」と呼ばれる種も存在する。
その魔獣の大半に見られる特徴としては、非常に気性が荒く獰猛であり、知性が無いとまでは言わないが、自制が効かずと言った物。それは悪魔にさえも襲い掛かるとされている。
そんな魔獣が生息する【ウズの大森林】では、過去様々な者達が消息を絶っている。探検家に商人に傭兵等。目的こそ「貴重な素材」であったり「新たな道」の開拓であったりと様々であったが、結局のところ森における変化は無く、おそらくはその“肥やし”と成り果てたと見られる。
つまりはその様な危険な森の奥深くで、仮にも呑気に薫り高い紅茶を啜る様な事があったならば、それは先ず間違いなく魔獣を引き寄せるという事である。
「で、でかいの、で、出ました!」
「その様だな」
猪の大親分、もしくはその変異体とでも呼ぶべき巨大な獣。一目で判別のつくそれが、突然森の中から姿を見せた。その眼は血走り呼吸は荒い……
「だ、大丈夫なんでしょうか」
「問題ない。この檻は凄く堅い」
「で、でも、鼻息とか凄いし、身体も牙もとても大きいです! ひっくり返されたりしないでしょうか?」
女が慌てた様子で尋ねると、彫刻家でもあり“奇術師マガツ”でもある男は「ふむ」と一つ呟き、魔獣の側へ進み出す。
「あ、危ないですよ!」
マガツは女の注告を無視し、そのまま檻たる鉄柵の隙間を抜ける。
「俺が奇術師とも呼ばれる由縁、お前に見せておこう。んー……女」
そう言えば名を聞いていない……などと考えながら、マガツは檻の外を進み巨大な魔獣の目の前に立った。女は驚愕と混乱と絶望を以って硬直する。
だが当の魔獣は何故かその動向を見送った。それは男の余りの自然な様と独特な雰囲気ゆえであった。しかしそれも極僅かな間、魔獣は直ぐにその敵意を剥き出しに咆哮を上げる。
ブモォォォオオオ!!
強烈な鼻息やら吐息やらを叩きつけられたマガツは、その涼し気な表情を僅かに顰めた。
「強烈な獣臭だ」
空気を読まない呑気を口にしつつ、マガツは屈むなりその左手を地面に添えた。
だが最早魔獣は待たない。その強靭な四足で以って地面を蹴りつけると、初速で風を打つ轟音を鳴らし、今度は立ち上がろうとしているマガツへと肉薄する。
ブギィィィイイイ!!
しかしそれは正に目と鼻の先と言ったところで止まる。如何に暴れようともそこからの一歩が何故か踏み出せない……
そんな魔獣の疑問は、しかし端から見ている女にとっては明解であった。
突如として地面から突き出した物が、その巨体の真ん中を貫いている。そしてそれは、マガツが左手で以って地面から引っ張り上げる様にするのと同時に生まれた物であり、巨大な槍の穂先の様でもあった。
魔獣が前にも後ろにも動けず、最早暴れる事しか出来ずにいると、マガツは再び屈み今度はその両手を地につける。
すると魔獣を貫いた槍は更に延びてゆき、根本にはその槍を持つ手が現れ、終いには手の本体たる聖女と思しき彫像までが現れた。
聖女は槍に刺さった魔獣を、悲哀を孕んだ優しげな瞳で見つめている。
魔獣はこの穂先にあってもしばらく暴れていたが、それが森の木々の背丈を越えた辺りで静かになると、やがて動かなくなった。
「うむ、相容れぬ哀しき獣と慈悲深き聖女。生きるとは戦いであり、尊い犠牲の上に成り立っている」
結果として事を聖女の頭上で終えたマガツ。そこから魔獣の最期を眺めつつ感慨深げに呟いた。
程なくして聖女の頭上から、像の衣の皺に手を掛け辿り地に降りると、その彫像を周囲から見回り、それへと右手を当てた。すると幾分大雑把であった聖女像が見る間に削れ始め、それはやがて細部に至るまで綺麗に整えられた。
「うむ、既視感も無い。急造にしては中々の出来と言える。作品とは何も「いざ!」と構えて作られる物が全てではない」
再びの独り言である。
「ん? ……聖女は葛藤していたのだろう、魔獣をその手で殺めるという事に対して……聖女とはそういう者なのだ。まぁ俺の勝手なイメージではあるが……イメージ? この場合は先入観と言えるか……知らん、人間にも色々な者が居るのだ。中にはそういう者も居るだろう」
そんなマガツの元に可笑しな声が届く。それは覚束ない足取りで鉄柵に縋る女からであった。小刻みに震える指で以って魔獣と聖女像とを行ったり来たり「あの、あの、あの……」と繰り返している。
「ふむ、どうだったかな女よ」
「奇術……す、凄いと思いました」
「うむ、聖女はどうだ?」
「えと、素晴らしい作品だと思いますが、工程がよく分からなかったです」
「ふむ、まぁやり方なぞ人それぞれだ。真似しろなどとは言わん」
「は、はい、出来ません」
「うむ。俺は俺、お前はお前だ。故に全ては自由。何処で何の為に何をどの様にして作るか、自分にとっての価値と他人による評価。不変的な価値として一定の精度こそ求められるが、それが全てという訳でも無い。何を言いたいかと言うと……まぁ己を解放しろと言う事だ」
「か、解放ですか、成る程。縛られるなと言う事ですかね」
「そうだ。人間はそもそも経験を積むほどに、それ故に思考が縛られてゆく。つまりは自由を意識する位が丁度良かったりもする。視野を広げ、多角的な視点を……俺は常々そうありたいと願っている」
「カーマインでも至っていないのですか?」
「勿論だ。そもそもそれは至る様な事柄でも無い。常に抗い続けなければならない、謂わば戦いであるし、そうあるべきだとも考える」
「おぉ、素晴らしい。辿り着く事が正解では無く、向かう途上が、向かい続ける事こそが大事なのですね!」
ぐうぅう。
「……まぁ知らんがな」
言葉の熱とは裏腹に女から届けられたのは空腹音。マガツはふと考えるのが面倒になり、突然雑になった。
「すみません、そういえば昨晩からちゃんとした物を口にしてなくて……」
女が力無くへなへなと崩れ落ちる。それにマガツは「ふむ」とだけ呟くと、その周囲を見渡す。
「お前にブランチを馳走しよう」
そう言うと、マガツは近場に落ちていた石を幾つか見繕い拾った。
(……ん?)
マガツは檻の中に戻ると、テーブルの上におもむろに石を並べた。
女はまさかと思ったが、実際にそれが起こると、その表情を硬くした。
「あ、有難いのですが、どうやらカーマインと私は食に対しての価値観と言いますか、文化と言いますか、違う様なので……」
「くく、まぁ待て。俺もこの様な石をお前に食らわせようなどとは思っていない。面白そうではあるがな」
マガツは並べた石の一つを左手に取り、女の前に置くと告げる。
「これは皿だ」
マガツからテーブルに視線を戻すと、そこには白い陶器で出来た皿が置かれていた。女が再び硬直したのを見ると、別の石を取り皿の上に置く。
「これはパンだ」
「そ、それは石だと思います!」
「うむ、石だ。今はまだな……だがこれからパンになる、それはフワフワと柔らかい」
そう言ってマガツが手を引っ込めると、そこには白い断面を晒した平たいパンがあった。
女の混乱を余所にマガツは続ける。
「これは新鮮な葉物野菜だ」
「ま、魔術でしょうか?」
「いや、俺はそう言った物とは接点がない。そもそも見た事もなかった様に思う。つまりはこれもさっきの奇術と同様の技だ。しかし俺の技は手品では無い。明確な想像力を持って生み出される“異能”だ」
パンの上に置かれた葉物野菜は瑞々しく、その緑は極めて鮮やかであった。そこでマガツはふとその手を止めると、コートの内側を開いて見せる。
そこには様々な小瓶や小袋が下がっており、瓶などに関しては割れない様簡単に手を加えられている。そんな中から不思議な容器に収まった淡い色合いの物を取り出す。
「これは調味料たる“マヨネーズ”。携帯サイズだ」
「それは石では無いのですね」
「うむ、俺の異能は想像力を要する。つまりは味覚も同様なのだが、これが極めて難しい。野菜や穀物などよく口にする物は無意識の内に補完し、容易に再現出来るが、幾つも調味料を使った物や、複雑な工程を経た物は出来不出来がある。塩味単体の味付け位なら可能なのだが……であればと、調味料は個々に生み出し、その都度調整する事にしている」
言いつつマガツは葉物野菜の上にマヨネーズを掛けた。半透明の柔らかそうな容器に赤い蓋のしっかりとした作りであり、僅かに「カチッ」と開閉音を伴う……不思議な品であった。
「その容器もカーマインが作られたのですか?」
「俺にとってはこの容器も含めての“マヨネーズ”なのだろう。生み出した時点でこの様な形だった」
そして次にマヨネーズの上に肉の様な物が置かれた。それは切り身ではなく一手間加えられたと思しき物。表面でぷつぷつと小さく油が跳ね、直前まで鉄鍋で焼かれていたと思われる程の熱気。形を平たく整えられてはいるが、中々に肉厚であり食べ応えがありそうだ……
ぐぅうう。
再び女の腹が鳴り、口内に唾液が溢れてゆく。
「それは“ハンバーグ”だ。肉をミンチし下味を付け形を整えた肉料理。その内訳は……どうなのだろうな?」
マガツがコートから小瓶を二つ取り出して卓に置く。
「味付けは好みがある、細かくは自分で調整すると良い」
女は手に取りそれの蓋を取ると唸る。
「この無数の穴から調味料が出るのですね。これなら瓶から直接適量掛けられる。こんな単純な作りなのに、とても機能的ですね」
「うむ、先人は偉大であった」
「……カーマインは何者なのですか?」
女は思わず小瓶を振る楽しみの前に、味付けを蔑ろにしつつも、改めて沸き立つその疑問をマガツへと投げかける。
すると奇術師は、その若々しく整った顔立ちを歪んだ笑みへと変えた。
「……天邪鬼」
「あ、あまのじゃく? それは悪魔か何かでしょうか」
「……その様なものだった気がする。だが俺は悪魔では無いぞ? そいつは俺の事をその悪魔に例えたのだ。へそ曲がりであり、他の者の反対ばかりを選択する、いわゆる偏屈であると」
「な、成る程」
マガツはこれまたコートからマヨネーズと似た容器を取り出すと、肉の上に微量掛けた。その赤いソースをケチャップであると説明し、マヨネーズの横に並べた。
「くく、俺はこの調味料を鳥の揚げ物に掛けるのが好きなのだ。ケチャップのトマトの酸味と甘みが鳥の揚げ物の塩味と合い、更には冷やしたモノと熱々のそれの組み合わせが、また堪らないのだ。そしてケチャップは直接に掛けなければならない。何故なら……」
マガツは突然ハッとした表情を見せると、ケチャップに対する異常な昂ぶりを鎮めて見せた。
「……分かっている。うむ……次はチーズだ。そしてその上にスライスしたトマトとレタス。最後にまたパンで挟めば完成となる」
残った石を、それぞれ足早に食材に変化させると、ものの僅かで完成に至った。
先ほど紅茶の入っていたカップに、石を入れ手で覆うと、透明なガラスのコップに水が並々と注がれていた。コップの表面は結露により薄っすら白く、水がよく冷えていることが分かる。
いつの間にか、皿の横には白く清潔そうな布まで置かれていた。
「これは“ハンバーガー”だ。齧り付いて食うと良い。ソースや肉汁が溢れたら、その布を使え」
女はようやくといった様子に喉を鳴らすと、早速にその手を伸ばした。
昔は行なっていた食前の神への祈りも【聖魔大戦】以降は行なっていない。そもそもこの瞬間においては、単純に食欲が最優先されているだけでもあり、つまりはあまり関係ないとも言えるが……
口を開き齧り付く……直前、女はふと思い至り、恐る恐る尋ねる。
「カーマイン、此処まで来て何ですが、これは本当に食べられるのですよね?」
「くく、心配要らん。腹に収まってから石に戻るといった事もないぞ。物そのものが完全に変化しているのだ。お前が先程飲んだ紅茶や角砂糖も同様に作り出した物だぞ」
「そ、そうですか」
「ああ、ついでに言っておくと私の手は常に清潔だ。これらは汚れという概念の外にある。故に俺の手から供される物は清潔であるし、安心して良い」
空腹が女の思考を早々に納得させると、改めて両手でパンを挟み持ち上げる。至る所から旨味が伝って降りていく、マヨネーズ、ケチャップ、チーズ、肉汁、トマトの果汁。
なるべく一口に多くを含みたい、味わいたい。大きく開いた口でそれらを迎えに行く。
齧りとった其れ等は口の中で様々な食感と味を伝える。女は自ずと瞼を閉じていた。
「美味そうに食うではないか、相当に空いていたのだな。……月の変わり目に食っただろう……分かった、またいずれな」
マガツが独り言を言っている間に、女はそれを瞬く間に平らげていた。最後に水で流し込むと大きく息を吐く。
「ありがとうございました。これ程の美味久しく記憶にありません。城中でも此処まで満足感を得た記憶は無いように思います」
「空腹は最高の調味料とも言うからな。……ふむ、しかし城中という事は……女よ。お前は何処ぞの国の要人か?」
「いえ、滅相もありません。私は今は亡き皇国の宮廷画家で……そういえば名乗ってませんでしたね。私はビガロと申します。何もかも失ってしまった今、しがない旅の絵描きですが」
「気にするな、私も尋ねられない限りは、よく名乗り忘れる。ふむ、それにしても、イルテリアの人間であったか」
ビガロは何処か寂しげに微笑んだ。