死神は帰宅しますか?
海の日の存在を忘れていた。
「ごほっ……」
どるるのふわふわが俺のひたいの上に乗っている。
くっそ、あんだけ怪我してびしょびしょになりゃそれは風邪もひくだろうよ。
「へくちっ」
俺の近くでは甲斐甲斐しく世話をしている高田がニッコニコで座っている。
なんでお前あんだけ濡れたのに怪我してねぇんだよ。ふざけんな。あとかわいい。
「……生きてるわね、しぶといんじゃない」
「…………誰?」
俺のぽかんとした声に、ツッコミが見事に入る。
「坂町みずなよ!!一層ポンコツになってない!?この男」
「まあ、手を握って離さないくらいにはおかしくなってるな!」
「ああ、そう……道理であんたが楽しそうなはずよ。ほら、十秒メシでおなじみのアレ、買ってきてくれたわよ。陸塞が」
頭の横に何かが落ちる。高田が俺を助け起こして、吸い飲みで何度か口に湯冷ましを流し込む。
「……うー」
「これも飲んで」
ゼリーが喉の奥に全て消えると、高田の手が俺の頭を優しく撫でる。
「なんか食ってからじゃねーと薬飲めねーからな」
薬を口の中に入れて、そのまま飲み干す。
「……紅……ありがと」
「エヘヘヘヘ、かまやしねぇよ」
だらしなく蕩けきった笑顔でニヨニヨしている。ふと周りを見ると、片付けられた布団と荷物だけがあった。
「あれ、みんなは」
「ああ、昨日すげえ雨だったろ?それで、修学旅行返上で総出で掃除してんだよ。死神さんは、ほらあそこ。あそこでスタンバってる」
「そっかあ」
頭がうまく回らない。
「まだ寝てていいよ」
その手をぎゅっと握って、俺はまどろみの中に落ちて行った。
「…………く、寝過ぎよ」
「いいだろ?かわいいじゃん」
「まあいいけどね。病人だし」
俺の意識がぐんと浮上する。思考がクリアになっていて、俺はぱちっと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、高田の顔と、不機嫌そうなみずなの顔。
「おはようございます高田」
「あれ?おはよう仁義。体は大丈夫なのか?」
「ええ、すっかり。……今日はいつです?」
「お前が寝込んでから半日も経ってねーよ。熱は……なさそうだな」
俺が体を起こすと、ほとんど温度差のないその額が押し当てられる。
俺はハッとして、その体を引き寄せ、ペタペタと触る。
「ほぁ!?」
「怪我は!?」
「してねぇよ!うわっ、ちょっ、」
「……そうですか」
そのままぎゅっと抱きしめていると、みずなの微妙な顔と目が合った。
「いちゃつかないでくれる?」
絶対零度の視線にめげることなく俺が高田の肩に首をもたせかけていると、死神さんが現れた。
「そろそろ真面目に話をするから、ちょっといいか?」
「あ、はい。死神さんが真面目な話をするなんて、明日は聖槍でも降ってきそうですね」
「そんな伝説級の武器ポンポン降らすほど俺って不真面目に見えるの!?」
「見えます」
「見えるぞ」
「見えるわね」
「酷くない!?」
こほん、と死神さんが咳払いをする。
「よし、じゃあまず色々と判明してること。ニギ、お前、もう神になれる」
間違いなくな、と付け加えられて俺は首を傾げた。
「あ、はい?」
「うんまあ、そういうリアクションにはなるだろうな、とか思ってましたよー……で、昨日俺がいなかったのは、ヨリと、オロチに捕まってた」
「オロチ?」
「ああ、素盞嗚尊だと長いだろ。あいつオロチって自称してる」
「……その、オロチがどうして?」
死神さんと割と仲が良さげにしていた記憶があるのだが。
「そろそろ高天原に帰りたくなったみてぇだ。あのクズ……」
ぎり、と食いしばられた歯が音を立てた。
「それで、いなかったわけですか」
「ああ。あと、妖怪の騒ぎの方は、夜行のが出て始末してるらしい。寺院の結界の張り直しの方も含めてな」
結界が壊されているなんて、と俺は肩を震わせる。
「まあ、相手は神だ、それくらい可能だろうな。最大の問題は、お前が神になれるってところなんだけどな」
「え?」
「俺は死神でいることを選んで、妻子を失った。お前のこの世界への未練を断ち切るために、恋人も、友人も、消されるかもしれないんだよ」
事の重大さは、予想以上に深刻だった。
俺のために他の何かが消されるなんて。
「ま、いざとなれば俺が消えてでも何とかしてやらぁ」
愕然としている俺にニヤリと笑う死神さん。
なんでこう言う時だけ異様に頼りがいあるヤツに見えるのかがとても不思議なところではある。
「消えてでもとか言わないでくださいよ。せっかくこの間助けたばかりなのに……苦労が水の泡じゃないですか」
「は、ガキが偉そうに自分の命なんかかけてんじゃねーよ。高々十年ちょい生きただけで、絶望知り尽くした気になってるなんて、アホくさくて涙が出らァ」
どん底を知っているから、ずっと一人でいた。
どん底を味わった目の前の死神のことを、俺はまだ知らない。
「…………だから、死んだっていいとか、考えんなよ」
外から、人の声が聞こえてきた。笑い声と、それから作業をしている声が。
それは覆せない何かを待っている俺たちとは、まるで正反対の希望を持ったそれであり。
軽口を叩くくらいには、俺に余裕をくれる。
「死神さんこそ、ガラじゃないですよ?壊すしか能がないんですから、せいぜい普通に状況くらいぶっ壊してくださいよ」
「お、言うなお前」
ニヤリと笑った死神さんは、俺の肩に手をかけて、そのまますり抜けた。
背中にぞわっとした悪寒が走る。
「やめてくださいよ透過して遊ぶの……」
「わざとじゃねえって!?」
そうしているうちに何事もなく一夜が明けて、俺たちは新幹線に乗って帰宅することとなった。
しばらく帰っていなかった自宅は、酷く閉め切った空気で淀んでいて、盛り塩も効果が薄れている。それをもう一度設置し直す。
掃除も終えて、飯も作って、洗濯もした。
いつも通りの変わらない日常。
「……高々、十年ちょい、ですか」
死神さんが、消えることをどうも思わないなんて、そんなことはないだろう。
美味しそうに飯を頬張って、おかわりと叫んで、お菓子盗もうとして俺に見つかって、俺との手合わせで手加減失敗してそそくさと練習しに行ったり、絶妙にツッコミ入れたりして。
俺だったら、絶対死にたくねぇだろうな。
「…………やっぱり、無理ですよね」
俺だけがいなくなれば済む話。
それに他の者を巻き込むなんて、俺にはできない。
だったら、俺はもう消えることを選ぶ。
いつも通りの日常だけれど、終わりはもうすぐそこに見えている。
「……夜行、おかわり!」
「はいはい」
俺がご飯をよそって、高田に手渡す。
明日は休日、明後日からはまた学校。
そういえば、伊藤先生の結婚式もあったんだよな。彼氏と喧嘩しそうだけど、まああの二人なら上手くやれるだろ。
山田と竹下の漫才ネタ、見ときゃよかったかも。……案外いいとこまで行くかもな、準決勝くらいは。
陸塞はそろそろ真面目にみずなとキスの一度でもしたのか?本当に腹立たしいほどヘタレなんだよな。背中押して崖の下に突き落としやりたいくらい。
杏葉の出るドラマが今度やるとか言ってたな。高田も見たいと言って騒いでたし。
高田は、俺がいなくなったら、どうすんだろうな。
どうしようもないか。
けれど、幸せに生きて欲しい。
幸せに。
隣でずっと、その姿を見たかった。
「……あれ?仁義まだ寝てなかったのか?」
ひょいと顔を出した高田に、俺は力なく笑った。
「大丈夫か?」
震える手でその顔を引き寄せて、唇を重ねる。体温が、全然違う。
「……冷たい」
そう言って、彼女はもう一度俺に口付けた。
涙がじわじわと溢れ出してくる。
死にたくない。
けれど、それ以上に死んでほしくなかった。
「大丈夫だよ」
ぎゅっと抱きしめる腕は、苦しいほどに力強い。
「寒い……」
「うん。俺がそばにいてやるから、寒くないよ」
十二時の、鐘が鳴った。
空間が、ぎしりと歪む。俺は涙を拭って、高田と一緒に真っ白な空間の中に立っていた。
死神さんが、その両手を地面に打ち付けられたまま、俺を見ていた。
捕まりやすすぎるだろお前。何回捕まってんだよ。
妙におかしくなってきて、ヘラッと笑いが漏れる。
真っ白な空間の中に、人の輪郭が現れる。黒髪をした美しい男が、黒地に銀糸で縫取りをされた着物をまとって立っている。
その横には、白い髭を腹あたりまで伸ばした老爺が、黄色い服を着て杖をつき、よろよろと立っている。
そのいずれからも、比べるのがバカバカしくなるほどの神気を感じた。吐き気を催すような、強くなった今でさえ怖いほどの神気を。
「お主が、神に至る道を開いたものか」
「八十禍津日神と、八束水臣津野命を屠っております」
「そうか。……なれば、高天原に連れて行くぞ」
死神さんが、力を振り絞って叫ぶ。
「殺すなら殺せ!テメェらにこいつを連れて行かせるくらいなら……」
俺はもう、迷わなかった。
一歩進み出ると、死神さんの目が俺を捉えた。まさか、と言いたげな顔をしている。
まあ、そうだな。そのまさかだよ。
「——わかりました。神になります」
二人があっけにとられたように口を大きく開ける。俺は静かに笑った。
「そうか」
二柱の神が、今までのおぞましい神気から一転、穏やかな気配をたたえた。
「では、そこな女はもういらぬな」
俺の耳に、そんな言葉が聞こえた。
衝撃の一言。
誠に勝手ながら、次の連載は明後日になりそうです。
少々迷っております……。




