死神は……?
二話目です。
くっそ長いです。
「みっちゃーん、こっちに生三つね」
「はい!」
体育会系の美津香は、すでにその場所に慣れていた。キッチンという裏方で働きながら、社会常識を教わって行く。
もともと良いところの出だったから、そうほころびもなかったが、一般常識がとんと欠けていることに美津香を拾ったレイノが驚いてしまった。
「全く、履歴書もなしにお仕事くださいって言ってたの?信じられないわぁっ!」
丁寧に教えられながら、美津香が履歴書を一から書き上げると、レイノはバチっとウインクをする。
「お化粧も、ちゃあんとしなきゃね」
「え、いや、ええっ……」
レイノがささっとメイクをすると、その顔つきがガラリと変わる。
「裏方だからって気を抜いちゃあダメよ。次に働けるところ決まったら、教えなさい」
「うん……」
「スーツも持っていないのでしょう?だったら、スーツのお金は貸してあげるからね」
「ぁい……」
しょっちゅうこうやって感動させられていた美津香は仕事が決まり、初任給をもらった後にすぐ彼女にお金を返しに行った。そして、その店のママにお礼を言って回ったりして、そのバーの裏方をやめた。
とはいえ繋がりが切れたわけではなく、細かい手紙のやり取りはしっかりしていた。
そして、19から勤めだした会社に馴染んできて、23になった時に、彼はその会社にやってきた。
羽々木 直羽。25の、彼女と何も変わらない年の人間が、社にやってきたのだ。
無論、年寄りに案内させるのではなく、若い女性である美津香がその役を任されることになった。
「ええ!?マジで……じゃないです。ええと、本当ですか……?」
「うん、まあ、そう悪い話じゃないよ。うん」
社長は頷いていて、彼女はこてんと首をかしげる。理由は、一日も経たないうちに判明した。
「この後に飲みに行かないか?」
「つ、謹んでお受けいたします」
注がれるままに飲み進めていたら、いつもは全く酔わないはずの酒に頭がぐらりと揺れて、いつの間にか知らない部屋にいた。
「こ、こは……、あ、い、いやあああああああっ!?」
「目が覚めたか」
開口一番、彼は美津香に手を差し伸べる。
「なかなか良かったが俺は既婚者なんだ。愛人にならないか?」
その言葉を理解した瞬間、処女が散らされたこととその言葉にカッと頭に血がのぼって、思い切りその顔を殴っていた。
そして、怒りと吐き気の収まらぬ中彼女は定刻通り会社にたどり着き、そのままその日は帰った。それから、気づいたら夜が明けていた。その頃には頭がすっかり冷えてきて、怒りが収まっていた。代わりに嫌悪感と吐き気だけが湧き出して、震えが止まらなかった。
どうしてなんだっけ、と彼女は周囲を見回して、それからチャイムが鳴っていることに気づいた。
「今回の話は、なかったことに」
そう言われて手渡された封筒に視線を落とす。ドアが閉まる。
何も、わからなかった。
一週間ほど経って、ようやく正気を取り戻した後に、急激に足元が真っ暗になったような気がした。社長はおそらく、今回のことを知っていた。知っていて、会社のために自分を差し出したのだ。
そう思ったら一気に怖くなり、レイノの家の前に来ていた。
「あら?どうしたのっ、みっちゃん!?」
全てを話した抜け殻のような彼女に、レイノは食べ物を摂らせる。
「食べて。食べなきゃダメよ。恨むにも、憎むにも、悲しむにも、パワーが必要なのよ。食べなきゃやってらんないわ」
卵のおかゆを口に入れて、初めてそこで泣きじゃくった。
その後にピルを処方してもらい、それからしばらくは時々襲い来る吐き気に耐えつつも、仕事に精を出していた。
しかし、ある時吐き気に耐えられずに、彼女は病院に向かった。
そこで、妊娠していると告げられた。
普通はお腹が大きくなってもおかしくないが、彼女は腹筋のせいで膨張率が小さくわかりにくかったこと。PTSDのせいで起きている吐き気とわかりづらかったこと。
堕ろすにはすでに時が経っていた。
「……どう、しよう」
この子を産まなくてはならない。
この子を育てなくてはならない。
施設に入れるなんてできない。
でも本当に、愛すことができる?
あんな男の子供を、愛するなんて。
「……産んで、それから……決めよう」
産休育休を取って、その間は慰謝料で生活する。性別がわかってからは自分の好きな言葉、『仁義』から取って、仁義とつけた。
出産の時はあまりの痛みに絶望したけれど、そのくしゃくしゃの手に涙がこぼれた。
嬉しいと思った。
子供を育て始めると、その現実の厳しさに愕然とした。
眠い。
しかし、やらなきゃならない。
復職と同時に保育園を探したけれど、入園ができない。それに認知だっていつかは必要になる。
その男の会社に向かった時、門前払いされそうになったが、そこで彼女に金を届けた秘書が彼女に気づいて出てきた。
「ピルは」
腕の中にいる赤ん坊を見て、彼が言う。
「……とても思いつく精神状況にありませんでしたので」
「そうですか」
秘書が社長室の扉を開けると、中から声が聞こえてきた。
「いつもノックしろって……誰だ?」
「あなたが無理やり合意に持ち込もうとして失敗した人ですよ。それで、子供が生まれたそうです」
「……はあ?こ、子供が?」
「そうです。ですから、それにつきまして認知していただきたいんです」
「……認知だけ?」
「はい」
それからしばらくして、彼女は驚愕した。なぜか自分の部屋が勝手に引き払われて、勝手に新しい住居に決められていたからだ。
「どういう……ことだよ」
呆然としているところに、くだんの男が現れて、うっすらと笑んだ。
「僕の子供が住むなら、『いいところ』で、『いい学歴』で育てなければならない」
「勝手なことを——」
「……あの小さい会社は、いつでも潰せる」
覚悟しておくことだな。
どうしよう。
社長のことは二度と信用できなくなったけれど、あの会社の仲間がいなくなったら。
それに、もしあの会社を辞めさせられたら、次のアテなんてあるわけがない。
気づけば、小さい紅葉のような手が、ペチペチと彼女を叩いていた。
「まんま……」
「そうか……そうだよなあ……私、お母さんなんだもんな……うぅ、うっ……うわああ
——」
この子のためなら、要求を飲んでもいい。学歴が高くなければ生きていきにくいというのも、ちゃんとわかる。
だから、私がこれからいかなる不幸を被ろうと、この子だけは幸せにしたい。
五歳になった頃には、もう手伝いをするようになった。最初に包丁をもたせた時は戦々恐々としながらそばで見守っていたけれど、料理の腕は確実にこの子の方が良い。
その事実に愕然としながらも、味噌汁を飲む。
「おいしい」
「きょうはね、かつおとこんぶのあわせだし」
料理の本を片手に、仁義はすごく成長している。小学校になったら、通わなければいけないお金持ちの学校。そこでこの子はうまくやっていけるのだろうか。
「……どうしたの?おかあさん」
「なんでもない。なんでもないけど……嬉しい」
「ないてるとかなしいって」
「大丈夫。お母さん強いから、悲しい時は泣かないぞ。これは嬉しい涙なんだ」
「そっか」
その脇をくすぐりながら、美津香は微笑んだ。
しばらく経って、仁義が変なものが見えると相談してきた。
「なんか、あちこちに、いっぱい」
背筋が凍った。
「……そ、そっか、ごめんな。母さんにはちょっと、わからないや……」
夜行の血縁に出る体質。けれど、それをどうにかできる兄達には、連絡は取れない。どうしよう、と呟いても、凡人の身である自分にはどうしようもなかった。
定期的に送る手紙に認めて、それでダメなら諦めるしかない。
「いい、仁義。そういうの見えるとかって、あんまり言うなよ」
「……なんで?」
「そうだなあ、ああいうのは見られるのを嫌うんだ。もしそれ知ったら、お友達はどうなると思う?」
「……そっか」
「そう」
けれど、あの男の娘が同じ学年にいると知って、戦慄した。
二学年からいじめは始まった。執拗な悪口に、教師に連絡しても見て見ぬ振りをされた。
「おたく、二号さんなんでしょう?彼らに文句を言う前に自分の私生活を改めたらいかがです?」
怒りではちきれそうだった。その精神がガタガタになって、壊れてしまいそうだった。
もういっそ暴れてしまいたかった。
けれど、子供が、仁義がいる。
それだけで、どうしようもなく、動けなくなった。
「ごめんね。母さん弱くて、ごめん」
「…………俺、全然気にしてないよ。母さんは強いじゃないか」
プロレスラーより、と最後につけた蛇足にプロレス技をかけにかかる。
「うわ!?ギブ!ギブ!!」
「へーっへっへっ」
ぎゅっと抱きしめると、華奢な肉体に痛々しい痣が見える。生活の根っこが抑えられているから、迂闊に動けない。この子のために、どうにかできる望みなんて、ないかもしれない。
それでも。
「お母さん、仁義のためなら全部あげるよ」
「自分のぶんも残しといて」
「仁義は優しいなー」
今の時間は、とても楽しい。
中学に上がった辺りだったろうか。
なんだか、気分が悪い。食べても痩せるし、食欲もない。
「……どうしたの?こんなに残して」
「ん?ちょっとダイエットしよっかな、なんてね」
「今のままでも十分じゃないか」
「やだー、うちの息子かわい〜!」
ぎゅうう、と抱きしめる。骨の感触が強くなってきた体が大きく見えるのは、決してこの子が成長しただけじゃないだろう。
半月ほどした頃に、どうしようもなくだるくなって、それでも職場に行こうと起き上がった時だった。
「……はい。少し体調が悪くて、はい、それでは」
ガチャン、と受話器を置く音がした。心臓が凍りついた。
「仁義!?」
「母さん。今日は、職場にいけないって連絡しておいた。俺も学校休むから、一緒に行こう、病院」
「……っ、わ、わかった」
そこで、衝撃的なことを聞かされた。
ガンだ。
乳がん。
それに、ステージ4、生存率は半分弱。
「治療費も、いくらかは当然、かかります」
治療費。
お金。
やれるものは全部仁義の貯金に回してきた。
それも大した額じゃない。残しておいてやらなきゃいけない。
自分に使える金なんて、そう残っているはずもない。
退職金も、中小企業のいち事務職じゃたかが知れてるし、生活だってある。
どうしよう。
どうしたら、いいんだろう。
「お子さんには、ショックのないように伝えた方がいいと思いますよ。たった一人のご家族なんでしょう?」
「む、無理、そんなこと言えるわけが——」
でも、言わなければ、いけない。
「よろしければ、私から伝えましょう」
「……はい」
仁義は、部屋に入ってくると、話をじっと黙って聞いて、瞑目した。
「わかりました」
「……仁義?」
「治療費のことは、俺の方でなんとかします」
「……なんとか、って……お前それがどう言うことか、わかって、」
「母さんが死ぬより頭下げた方が楽だろう」
「……仁義」
その晩のことだった。
仁義はずぶ濡れで帰ってきて、それから一つのビニール袋を大切そうに取り出した。
「……仁義?どうした?」
「母さんは寝てていいですよ。明日、職場に言いに行かなきゃいけないんでしょう?」
外の稲妻の目を灼くような光が、美津香の子供を照らす。
見たことのないような恐ろしい笑みだった。
見たことがないほどに穏やかな笑みだった。
「ひと……よ、し?」
「ちょっと時間かかるかも知れないけど、よろしくお願いします、母さん」
だから、今はおやすみなさい。
その次の日から、こまめにアレコレとやって、落書きだらけにされた教科書やノートを整理していた。
「なにこれ……」
「大丈夫です」
そう言って、あちこちに痣ができているのを写真に撮った後治療しながら、彼は笑う。
この時点で、耐えきれなくなっていた。
そして、半月も経たずに、彼はお金を携えて帰ってきた。しかも、かなり莫大な額を。
「ほら、これで入院できるよ。大丈夫」
「ひ、仁義、これどうしたの?」
「母さんはなにも心配することないよ。ただ、小二の頃からずうっといじめてきたって言質を取って、訴えるって言っただけ。集団暴行で刑事告訴のできる案件だったよ。示談金をいっぱいもらえたし」
まあ、新聞社にもう漏れてしまっていたけど、と呟いた。
数日前の名門校のスキャンダルとニュースで言っていたのを聞き流した気がする。
強くめまいがした。
「だから母さんは、治療に専念して。俺の一生ぶんの慰謝料剥いできたからさ。だから、俺のために生きてね」
「……仁義っ……」
やるせなかった。
己はどうしようもない役立たずだと思った。生きていていいのだろうかとも思った。
けれど、この子がそう言うのなら……。
しかし、現実は残酷だった。
治療が効きにくい。
放射線治療と薬物療法を合わせても強烈な吐き気と口の中の口内炎の酷さに、絶叫しそうになる。身体中にむくみができて、どんどん食べられなくなる。じわじわと身体中にカテーテルがくっついて、一人で動くことさえままならなくなった。
精神が不安定になって、自制が効かなくなって怒鳴ることもあった。
それでも穏やかに彼は笑ったまま、「大丈夫だよ」と言い聞かせ続けた。
治療は功を奏さず、そのまま彼女は亡くなった。
「……仁義ちゃん」
「レイノさん」
きちんと喪服を着て、化粧はほとんどせずに彼女はそこに立っていた。
「……君のこれ。いつまで持っていればいいのかしら」
「……俺が死んだら処分してください。新聞社に送るなりなんなり」
「ふふ、面白いことを言うわね。全く君は、いい男——」
自然と涙が溢れ出して、止まらなかった。その背中を叩くごつい手のひらに、慟哭する。
けれど、妖は関係なしにやってくる。仁義がレイノと会ったのは、それ以来一度もなく、それからは手紙でやり取りをしていた。
携帯電話は持たない主義なのよ、と言っていたからだ。
彼女は俺のことを心配していたが、問題がないことだけを伝えて、彼女を遠ざけていた。
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「ま、いくつか推測で語りましたが、遺品の日記から察するにこんな感じですね」
「そう、か……。すげえ、大変だったな」
よしよし、と頭を撫でられる。細い指が行き来する感触が心地よい。
「よーし、俺もヨシヨシしちゃう」
「死神さん」
「なーにー」
「すり抜けてます」
それでも、その指先が暖かいと思うのは、気のせいではないと思う。
けれど、まだ母親の霊が食われたことと、俺の友人のことは、言えなかった。
悪いことをした人間が懲らしめられたのではなく、俺のせいで普通の人が死んでしまったから。
俺は、卑怯なやつだ。
最後の『沈黙』。




