九節、喪う人
──すみません。
霧の満ちた寮の中に、彩の声が虚ろに響いた。
「……返事が、ないな」
「そんな……、ミキ! ミキ! 居ないの⁉」
ミカが叫ぶが、まるで声が霧に飲み込まれたかのように返事はなかった。
「その『ミキ』って娘の部屋はわかるか?」
「はい。たしか……、『八号室』のはずです」
荒尚は土足で上がると、右に曲がり部屋を確認する。
目を凝らすと、扉には一と書いてある。
奥には部屋が続いていて、数えると突き当りの部屋が『八号室』だとわかった。
荒尚は彩とミカを残すか迷ったが、連れて行くことにする。
自然と摺り足に成りながら廊下を進んでいき、八号室の扉をそっと開いた。
「……扉は開いているものなのか?」
「オートロックと聞きました。カードを壁にある機械に差し込むと、電気が使えるようになるらしいです」
荒尚はこんこんっと、扉を叩いた。返答は静寂のみだ。
彩の心中に諦観が、じわじわと染み込み始めた。
「……入るぞ」
──キィ。と音が鳴る。
入ってすぐ横にはユニットバスがあり、奥には曇硝子の引き窓。その手前に机とベットが、向かい合うように並んでいた。
扉の隣の壁には、カードを差し込む穴があり、そこに鍵がついたカードが差し込んである。
机の上には何も置かれていない。
だが正反対に、床には物が散らばっている。
彩が小声で、「きれい好きな娘なのに」と呟いた。
そこ以外、何も変哲の無い部屋だった。
"霧で淀んでいる以外は"。
荒尚はゆっくりと奥に行くと、ベットの上を見た。
其処には干乾びたような、しかし霧で微かに湿っている怪死体が横たわっている。
お下げにした髪に、小さな花飾りのついたゴムをしていた。
彩とミカはふらりと歩み寄ると、わっと声を上げるとベットに縋り付く。
溢れた涙が、干乾びた皮膚にボタボタと落ちた。
だがどんなに涙を落とそうと、少女が元に戻ることはもうない。
荒尚は一歩後へ下がると、机に腰掛け視線を落とした。
泣き止むのを待とうと、思っていた。
──ベッドの下から、気色の悪い乳白色の触手が顔を覗かせるまでは。
「下がれ!」
荒尚は二人の襟を掴むと、勢い良く後へ引っ張った。
しかし、遅かったのだ。
触手はミカの足に引っ付くと、何かを入れた。
それはミカの足へ入り込むと、血管のように這いずりながら上へと登っていく。
線虫のような何かが、皮膚を突き破らんと蠢くのを見て、ミカは引き裂かれるような悲鳴を上げた。
荒尚は触手を切り落とす。
しかし、触手の先から赤黒い蚯蚓の様な虫が足に入り込むのを見て、荒尚は既に手遅れなのだと悟った。
唯一の解決策は、"足を切り落とす"こと。
迷っている暇は、無かった。
「彩! 落としたら直ぐに、このベルトで縛れ!」
荒尚は床に落ちていたベルトを掴んで彩に渡すと、ミカの頬を掴んで自らに向けさせた。
「今から足を切り落とす。絶対に死なせはしない。俺を信じろ」
そして有無を言わせず、膝の上を切り落とした。
唖然としていた彩だったが、荒尚の怒声に慌てて傷口を縛り始める。
しかし既に荒尚は少女達に背を向け、ベッドを睨んでいた。
やがてソレは、ゆっくりと姿を現す。
それを言うなれば、肉の虫だった。
全身は乳白色で、全体的な姿はさながら蝿のように丸く。
まるで長い触手は、蝶の持つ口のようであった。
鉤爪の付いた六本の足は、虫のように節がありながら乳白色の肌を持っていて。
顔の両方に付いた大きな目には、小粒の葡萄の房のように目がついていた。
その怪物は触手の切断面から赤い血を流し、豚のような金切り声で泣いていた。
一際大きな声で鳴くと、怪物は野太い触手を薙ぎ払う。
然し──。
「──遅い。既に間合だ」
触手を寸断され、返した刃を頭の根本に突き立てられると、怪物は部屋に染みつくような悲鳴を上げる。
やがてそれは弱々しくなり、沈黙した。
血を吸わした時の高揚感が、今は何故か煩わしい。
女一人守れず、更にはこんな時でも血に酔う自分が、酷く糞ったれに思える。
荒尚は怪物から短刀を引き抜くと、床に落ちていたミカの足を急いで窓から投げ捨てた。
足は既に血を吸い尽くされ、断面から蚯蚓が蠕動していたからだ。
「……すまない」
荒尚は短刀を鞘に収めると、外を見つめたまま言った。
「いえ、アレしかなかったのはわかっています」
苦しそうに、ミカは言う。
「それに無理言ってついてきたのは、私達の方ですから」
「……そうか」
荒尚は呟き、向き直ると。
「帰ろうか。ミカは彩の肩を借りて歩いてくれ。
俺は、彼女をおぶって行くよ」
荒尚はベッドに横たわる少女を持ち上げた。
驚くほど軽く、彼女の中には何も残っていないことが判った。
全てを吸い取られてしまったのだと。
荒尚達は寮を出て、霧の中を進む。
ふと振り返れば、寮はより一層濃くなった霧に隠れ、すっかりと見えなくなっていた。
ふと雨が土砂降りになり、雨足が強くなっていく。
荒尚は黙って、フードを被って進む。
その後ろを一つの傘を指した二人の少女が、足を引き摺るようについていくのだった。