七節、疑問
もはやその場は、食事の体をなしていなかった。
誰も箸を持とうとはせず、ただ黙って皿を見つめていた。
「…………脱出する方法は、あるんですか?」
女が一人、権兵衛に問いかけた。
髪が長く、線の細い女だ。けれど、瞳には強い光が灯っていて、気の強そうな印象を受ける。
荒尚は隣に座る軽薄そうな男を見て、あの時の女だと気付いた。
「町を出たいというのならば、普通に町を出ればいい。
隧道を抜けてしばらくすれば、霧がさっぱり晴れる所がある。そこが境界だよ」
「脱出を助けてもらう事は、できますか?」
権兵衛はじろりと女を見ると、紫煙を吐き出しざまに。
「その男を連れてか?」
煙管で軽薄そうな男を指すと、被虐と嘲りを混ぜ合わせて笑う。
「情けない。あまりに惰弱だ。
虫唾が走る。私が最も嫌う人種だよ」
「でも、貴方はあの人に刀を上げましたよね?」
「それが?」
「何かをくれと言っているわけじゃないんです。ただ送っていただければ、それでいいんです」
──言っておくが、私は博愛主義ではない。
男は煙管を灰皿に叩きつけると、きっぱり言い放った。
「あの刀をあげたのは酔狂だよ。刀が気に入りそうな若者を見つけたから、試しにくれてやっただけだからね」
「それが聞きたかったんです」
荒尚は話を遮って、権兵衛に問いかける。
「この刀は、何なんですか?」
「妖刀だよ」
権兵衛は再び煙管に火をつけると。
「君も見たと思うが、真神──まあこれは狼の古い御名だが……。それを元にした呪いを施してあるのさ。刀も振るわなきゃ魂が錆びる。それが妖刀となれば尚更だ」
「神様ならば、神剣という方が正しいんじゃないんですか?」
「古くは順わぬ神の一柱らしくてね。より獣性の強い呪を施したせいか、凶暴性が増していて、気に入らない主を喰い殺してしまうのだよ」
その言葉を聞き、荒尚は権兵衛を睨みつける。
刺すような視線を、挑発的な笑みを浮かべたまま権兵衛は受け止めた。
「安心してくれたまえ。何回もやってきているから、最近はあまり失敗しないんでね」
悪びれる様子のない権兵衛を荒尚は暫く睨み続けた。
飄々とそれを躱し、権兵衛は言い放つ。
「まあともかく、頼み事なら荒尚君にしたまえ」と。
その途端、部屋の視線全てが荒尚の方へと向き、彼は辟易としかけた。
その時、「それなら、貴方に頼みたい事があるんですが……」と声が上がった。
荒尚が声の方を向くと、二人の少女が肩を寄せ合いながら見ていた。
「……俺か?」
「うら若い乙女に頼まれては、否とは言えないな荒尚君」
「お爺ちゃんは黙ってましょうね?」
権兵衛を軽くあしらい、荒尚は少女を見る。
「頼み事ってのは?」
「あ、その前に。私は『阿野田彩』と言います」
「わ、私は、『母灘ミカ』です」
丁寧に頭を下げてくる彩とミカに、荒尚は頭を下げ返す。
「頼み事というのは……」
──寮に一人、友人がいるんです。
落ちきった暗い声で、彩は言った。
荒尚はあの霧に沈んだ教習所の傍らに建つ、古びた小さい寮を思い出した。
教習所からは霧に遮られ、見ることのできなかったちっぽけな寮を。
「様子を見てきてほしいと?」
「そうなんです……」
荒尚は悩む。
しかし、答はほぼ決まっていた。
むしろ刀に血を吸わせるいい口実ができたと言ってもいい。そう思っていた。
「言っちゃあなんだが、もう生きてないと思うぞ」
「──ッ! ……なんで、そう思うんですか?」
「昨日のことだが、教習所の中まで霧が満ちていた。あの様子じゃ、寮も期待はできねえぞ」
なにより、人の気配が彼処は余りに希薄だった。
霧しか無いのだ。
霧と霧の怪物しか、あそこには存在しないと思うほどに、何も感じなかった。
「それでも、見てきてもらえませんか?」
余りに真っ直ぐな彩の視線に、荒尚は困ったように顔を背けた。
少しでも可能性があるなら、縋りたいのだろう。
気持ちは分かるが、自分でも驚くほど共感できなかった。
──じぶんは、こんな薄情な人間だっただろうか?
ふと思ったが、どうでもいいことだと、思考の隅に追いやる。
「まあ、別にいいけどよ」
「その後でもいいので、私達を送ってもらえませんか?」
顔を向ければ、あの女が軽薄そうな男都と共に荒尚を見ていた。
頭に思い浮かぶのは、あの嬌声である。
顔を赤くなるのを感じながら顔を背けると。
「べつにいいけどよ」と荒尚は答えた。