六節、狂人
友好的な態度の男に対して、荒尚は刀を鞘に収めない。
「興奮しているのかね? まあ慣れてないうちは、血に酔うこともあるだろう」
──まあ、恥じることではないさ。
そう頷く男だったが、荒尚が一切答えないと。
「もしかしてだが、──呑まれているのかね?」と意外そうな顔で問いかけた。
男が呟いた瞬間、目にも止まらぬ速さで両者が動く。
そして荒尚だけが、遙か後方、旅館に集まる人々の元まで吹き飛ばされた。
横たわる血塗れの荒尚を遠回しに見つめる人々をいにも介さず、男は軽やかに近寄ると、荒尚の瞼を開く。
「ああ、やはり黄金になっているね」
男は膝を叩いて土を落としながら立ち上がると、固まる人々に。
「済まないが、風呂を貸しては貰えないかな。私もこの彼も、どうも汚れてしまっていてね」と笑いかけた。
◆
荒尚が目を覚まし、勢い良く身を起こすと、そこは旅館の一室だった。
「目が覚めたかね」
声のした窓辺に目を向けると、そこには椅子に座りながら煙管を燻らせた男がいた。
「あなたは……」
「うん。どうやら正気のようだ」
男は一人納得したように頷くと。
「来給え。話の続きは食事をしながらでもできるからね」
一人スタスタと部屋を出ていく男を見送ると、荒尚は慌てて布団から出て、後を追いかけていった。
男が向かったのは宴会用の広い客間で、そこには机が並べられており、その上には料理が載せてあった。
部屋には旅館に泊まる全ての人が居て、それぞれ様々に座り込んでいた。
人々は入ってきた男と荒尚を見て顔を引き攣らせたが、男はお構いなしに席に座ると、「君は座らないのかね」と荒尚に言った。
慌てて荒尚が席に着くと同時に、男は話し始めるのだった。
◆
──煙草を吸っていいかね?
男は了承を取ると、煙管に火をつける。
「この世界には、往々にして奇妙な事がある。それはわかるね?
まあ、これもその一つだよ」
煙を吐く男を見て、荒尚は霧の中に見かけた青火の煙管を吸った男を思い出した。
「不思議だってのはわかってるんだよ! 俺達が知りたいのは、あの化物がなんだってことだ!」
「そうはやるな」
男は軽薄気な見た目の男をあしらうと、再び煙管に口をつける。
「あの化物は、『百鬼』。或る男の落とし子だよ──」
──ある所に、二人の男がいた。
一人は学問に優れていて、いずれは官吏かと村で有名だった。
一人は体格に優れて武術の才もあり、数百年前に産まれれば立身のツテもあったろうと、村人に惜しまれていた。
真逆の男達だったが、仲は兄弟のように良く、何時も一緒にいた。
二人は幸せだった。
それが崩れたのは、その始まりを敢えて言及するなら、村に或る行商人が訪れた時だろう。
行商人は、怪しげな老婆だった。
薄汚れた白地のローブには様々な色の文様が描きこまれ、常にその顔を日に晒そうとはしなかった。
老婆は見に来た二人の男に、あるモノを渡した。
片方には、ある書物を。
片方には、ある瓶詰を。
そして次の日の朝、老婆は村から忽然と姿を消した。
その日から、破滅の序曲が始まったのだ。
学の男は怪しげな書物を読み耽った。鬼気迫る様子で、時折家から出てきた時の様子を見た村人は、その幽鬼じみた姿を見て、狂ったと噂した。
武の男は、常にその男の心配をしていた。
学の男と違い彼は、怪しげな瓶詰を不気味に思い、開けることは無かった。
武の男はある日、学の男の家を訪ねた。
部屋は薄暗く、至る所に怪しげな書物が散乱していた。
武の男は家に踏み入ると、学の男の名を叫んだ。だが返事はなく、仕方なく家に踏み入った。
学の男はすぐに見つかった。
奥の部屋で、暗闇の中何かを呟いていたのだ。
呼びかける男に対して、彼は言った。
──漸く、完成した。
武の男が疑問に思う間もなく、家に火が起こった。
その火に照らされた嘗ての友の姿を見て、男は息を飲んだ。
学の男の肌は死人のように青かったからだ。何よりその瞳は、青い月のように煌々と輝いていた。
学の男は狂ったように笑うと、武の男から瓶詰を奪い取り、炎の中に突き飛ばした。
──なんだこれは、只の蟲じゃあないか。
虫の力を以て、不死を得る。その姿のなんと蒙昧で、醜く、浅ましい。君にあげるよ。
学の男はそう言って、高らかに笑うと、炎の中に消えた。
武の男は、投げられた瓶の中から"蟲"を取り出し、自らの体に埋め込んだ。
なんとか友を止めねば。例え外道に身を落とそうとも。
その一心で。
虫が体に完全に馴染むまで、男は焼かれ続けた。死ねない地獄の中、男は五日焼かれ、村へ出た。
真の地獄はそこにあった。
村には数々の暴虐の跡が、漂う死臭と共に刻まれていた。
男の中に嘗ての友は亡くなり、殺すべき仇となった。
「──其れから、何年経ったかね。覚えてもいないが、ずっと追い続けている」
ふぅ、と煙を吐く男は、悲しげな瞳をしていた。
荒尚は、男に問う。
「名前は、男達の名前はなんていうんですか?」
「狂った男の名は、『亜沙右衛門』
蟲男は、そうだな……」
──『権兵衛』とでも呼んでくれ。
権兵衛は、紫煙を吐きながら笑った。