五節、狒殺陣
数分程そのままでいた荒尚の耳に、女の悲鳴が響いた。
女は後ろにいた旅館の客の一人だった。
既に力尽きた狒から刃を抜くと、獣臭い巨体は力無く倒れる。
それを見届け、荒尚は顔を上げ前を見た。
そして、荒尚は息を呑む。
霧に紛れるように狒、狒、狒。
奴等は一様に歪んだ笑みを顔に張り付かせ、宿屋を見つめていた。
「なんで、入ってこないんでしょうか……?」
客の一人が呟いた。
奇妙なことに狒達は見るばかりで、襲い掛かろうとはしないのである。
まるで、入れてくれるのを待つかのように。
ふと荒尚は思い出す。
門の前で立ち止まった中年男性に化けた狒は、フロントが呼んだ途端に襲いかかってきた。
呼ばれない限り、入ってこれないのだ。
「な、なんだよ。アイツラ入ってこれねえんじゃねえか!」
一先ずの安全は保証されたと悟り、明るい空気が一堂の中に広がる。
だがその中で、荒尚だけは唯一人門に向かっていった。
「何をしているんですか⁉」
少女が一人半ば悲鳴じみた声を上げたが、時既に遅く。荒尚は門の外へ、足を踏み出していた。
途端、上空から躍りかかるのは三匹の狒。
奴等はその野太い腕を、落下の勢いのまま振り下ろす。
霧が乱れ、水気の帯びた土が舞い上がり、誰もが荒尚の死を予感した。
だが紅い花を咲かしたのは、荒尚ではなく狒達だった。
降りてきたのは三匹だったが、振り下ろされた腕は二本。
空を舞った一本の腕は旅館の軒先に落ちた。
腕を亡くしたことを知り、狒が悲鳴を上げる頃には、既に残る二匹の狒は首に赤い一文字が刻まれていた。
その場から動かず、三匹の狒を封殺した荒尚を狒は爛々とした眼で見つめる。
静謐満ちる幻界で、ただ霧が揺蕩った。
それが破られたのは、僅か数秒後の事であった。
狒達による我武者羅な猪突猛進を荒尚は、清流の如くすり抜ける。
掴みかかる指を、殴り掛かる腕を断ち切り、次々と撫で切りにしていく。
まるで白壁の如き霧の中、飛沫上がるは鮮やかな血。
幽玄的な光景の中、一人戦う男はまるで舞うかのように美しかった。
やがて闘いは終わり、荒尚以外立つものはいなくなる。
凄惨な紅白の中に佇む荒尚に、後ろから男が一人霧の中から現れた。
男は朗らかに。
──君に任せて正解だったな。と、目を細めて笑った。