四節、霧に溺れた狒
霧に満ちた森を一人の男が歩いていた。
濃紺の着物にダウンコートを羽織った、どこかちぐはぐな印象を感じさせる男だ。
男は、一本の槍を携えていた。
刃が重く、厚く、荒々しさと不精さが、刀身から滲み出るような槍であった。
男は抜き身の槍を持ち、山を歩く。
不意に男は、足を止めた。
「…………猿めが」
呟いたと同時に、木々を騒がせながら一人の男が降り立った。
虚ろな顔したスーツ姿の男で、年はまだ若い。
就職活動中の学生と言う言葉がしっくりくる男だった。
スーツの男はフラフラと男に近寄っていく。
それに対し男は、何ら躊躇いもなく、スーツの男に槍を振るった。
瞬間、スーツの男の姿が消え、その後ろに巨大な猿がいた。
醜悪な顔をした猿である。
嘲笑と傲慢な悪意を表情筋に馴染みこませ、それを醜悪な形に歪ませたかのような顔であった。
白い毛並みは清廉潔白には程遠く、悪徳と不快さを感じさせる。
それは霧の白に、とても似ていた。
猿は距離を詰めると、男へと極端に長い腕──肩から足首程の──を間髪入れずに放つ。
遠心力と人外の膂力によって放たれる拳は、人の身では受けることが敵わないであろうモノ。
しかしそれを受けることは、男には造作も無いことであった。
地面に足を沈み込ませながらも彼は、猿の拳を槍の柄で防いでみせる。
鍛えられた腕が、隆々と盛り上がっていた。
「甘いよ『小僧』」
放たれるは、目にも止まらぬ妙技。その一撃は猿の顔を潰し、刹那の間には胸に横一文字が刻まれていた。
猿は力を失い、胸から分かたれ、地面に落ちる。
そして再び、森は静けさを取り戻す──事はなかった。
猿には仲間がいたのだ。
霧の向こうから、四方八方に点在していたらしく、その騒音は男が顔を顰めさせる程。
しかし予想に反し、猿はどこかへと逃げ去っていく。
やがて騒音は鳴りを潜め、猿は枝伝いに消えた。
男は猿の去った方を、じっと見ていた。
そこは男にとって、少しばかり覚えのある所だったからだ。
「まあ、彼ならば大丈夫だろう」
男はふっと視線を逸らすと、猿が去った方向へ歩きだした。手に持つ刃を鞘に収めることなく。
◆
荒尚は宿に戻っていた。
教習所での興奮は鳴りを潜め、今では何時ものように眉間に不機嫌そうな皺が刻まれていた。
ちょうど荒尚が門をくぐった時、フロントが宿から出てきた。
「どうかしたんですか?」
「いや、前に出ていったお客さんいたでしょう?」
荒尚は前に見た中年の姿を思い出し、黙って頷いた。
「あの人がね。何か戻ってくるらしくて。
何か様子がおかしかったですし、もしかしたら怪我でもしたのかもしれないですね」
そこまで話して、フロントは荒尚の後ろに手を振ると、「猿川さーん」と叫んだ。
荒尚が後ろへ振り返ると、あの中年男性がフラフラと歩いてくるところだった。
中年男性──猿川は、不意に門の目の前で足を止める。
フロントは怪訝そうに頭を傾げると猿川の顔を見て、「よっぽど怖い思いをしたのかしら」と呟き。
「猿川さーん! 入ってきていいんですよー!」と言った。
瞬間、猿川の姿が消える。
再び、荒尚の眉間をあの感覚が襲う。荒尚は素早く短刀を抜き、フロントの襟を掴み後ろへ引っ張ると、彼女の前方で振るった。
すると白い毛並みの猿──狒の悲鳴が響き渡り、フロントの顔を赤く染める。
フロントは惚けたような顔をしたかと思うと、ゆっくりと気を失い真後ろへ倒れた。
それに視線を向けることなく、荒尚は目の前を睨みつけていた。
そこには切断された腕を握りしめ、眼に怒りを湛えた狒が荒尚を睨んでいるのだった。
──一体今の声は⁉
そんな声と共に、宿から続々と人が出てくる。彼らは真っ赤な血溜まりに倒れたフロントと、刀を構えた荒尚、更に彼の目の前にいる狒を見て、絶句するのであった。
「な、なによこれ」
「ミカ! アレ猿なの⁉」
「あ、あんな猿、いるわけないよ」
騒ぐ人々を見て、狒は醜悪に笑うと。
──ギッ、ギャアアアアアア。
と山間に轟くような叫び声を上げた。
叫んだ拍子に喉元を晒した狒を見て、荒尚は教習所で聞いた"声"を思い出した。
『マガミ』の牙は、間合であるならば──。
「──必ず、捉える!」
叫んだ瞬間、荒尚は奇妙な感覚を覚えた。
狙う狒の首元へ、全てが収束していくような奇妙な感覚。
自らの周りを狼が囲み、その全てが自分で。また自分が、その全てであるかのような。
その感覚は、一瞬で酔が覚めるかのように消えた。
すると次の瞬間、目の前には、狒の喉仏がある。
荒尚は本能のまま刀を振るうと、醜い断末魔と共に、血が吹き出した。
荒尚は刃を抜き取ることはせず、突き立て続けた。彼は刃が血を吸うことを知っていたからである。
牙を突き立てたまま、荒尚は笑っていた。