三節、紅に染まる霧
不可解な出来事から一夜明け、青年──荒尚は自室の布団から身を起こした。相変わらず外は霧が立ち込め、雨雲のせいで薄暗かった。
──これは、また休みかな。
荒尚がそう思うのと、枕元にあった携帯電話が鳴り始めるのは、ほぼ同時の事であった。
寝起きの耳に着信音が響くのか、眉を顰めながら荒尚は携帯を手に取る。
「もしもし?」
返事はなかった。怪訝そうに、荒尚はもう一度繰り返す。
「……もしもし?」
「すみま……せん。荒尚さんでしょう、か?」
「……ええ、そうですけど」
息絶え絶え、とでもいうように電話をかけてきた女性は、言葉を途切れさせ、息が荒かった。いつもと明らかに違う様子であったが為に、荒尚はなお一層怪訝に思う。
「あの、大丈夫ですか?」
「はい、だいじょう、ぶ……で、でです」
呂律が回らなくなったと同時に、ベコベコと何かの中身を吸い取った際に容器が変形する音のようなものが、電話先から聞こえてきた。
「あの本当に」
「──あひ、あひゃぁあああああっ!」
金切り声に荒尚が受話器から耳を離す、しかし、耳から離そうとも聞こえる程に、女性の絶頂に似た声は大きかった。
それと同時に、ベコベコという奇妙な音もより一層強くなるのだった。
──なんなんだ。
荒尚が独りゴチた瞬間、べキュ、と鈍い音を立てて、電話は沈黙した。暫く待っても、静寂が破られる事はなく、やがて耳鳴りがし始めた。
荒尚は諦め、通話を終了する。そしてハンガーにかけてあったパーカーを、黙って羽織るのだった。
◆
霧は一層濃くなり、まるで雲海の中に居るかのようだった。その霧の海を泳ぐは、果して人か、それとも──。
荒尚はたとえ視界がどんなに悪化していようと、全く動じず足先を進める。雨は再び強くなっていた。荒尚の靴が泥に半ば埋まり始める。
青年は舌打ちをするが、どうしようもならないと悟ったのか、不機嫌ながらも黙々と進んでいった。
町はいつにも増して静かだった。霧が音を呑み込み、そのまま消してしまったかの様に。常なら一度は見るはずの、朧気な車の明かりも見ることは無かった。
その代わり、すれ違った男が蒼白い煙草の火を灯しながら歩くのを見た。
この霧の中、よく葉が湿気らないものだと思いながら荒尚は歩く。
霧によって変わりのない無感動な風景が続き、青年はまるで終わりの無い道をゆく気がした。しかし、歩き続ける他なかった。止まっても、何もならないのだから。
教習所は県央線の隣にあり、道の反対には険しい岩が崖のようになっていた。後ろには一級河川──と言っても、緑に淀んだ水ばかりである──が、そして左右を田んぼや畑に覆われた、完全な田舎町の教習所だった。
その教習所は、今霧に覆われていた。平地に位置するおかげなのか、霧は若干薄くなり、ほんの少しだが目が効くようになっていた。
──しかし、教習所だけは、霧に覆われていた。真っ白な霧にである。濃密な霧が何かを覆い隠すように教習所を囲み、その白淡な霧は綺麗な白には見えず、むしろ昏く見えた。
荒尚は少し怯んだ。しかし彼は向かっていった。彼は人に呆れられる程、酷く頑固な男だったからだ。
霧はどうやら壁のように周りを囲っていただけで、教習所の中は──それでも霧が立ち込めていたが──まあまあ見通しの良いものだった。
荒尚は受付に向かう。そこで受付の女性が、いつも電話をしていたからだ。
向かう途中、荒尚はまたしてもチリチリとしたものを感じた。あの皮膚がひりつく感覚を。
人の気配は無い。しかし、だからこそ──。
荒尚は腰から、短刀をいつでも引き抜けるよう構えた。ここに危険はない。普通に考えれば、それが正解のはずである。
受付には、一人しか居なかった。人影は霧越しであったから、朧気な影しか荒尚の目には映らなかった。恐らくは目的の女性であろう影は、執務机に伏せていた。
──やはり何かあったか。
荒尚が小さく、声にならないような声で呟いた。しかし、何故か荒尚に動揺はなかった。荒尚は不思議に思ったが、それよりは目の前の出来事を優先した。
荒尚が近づくに連れ、異様な光景が目に入った。目の前に伏せた女は、枯れた潅木のように細かったのである。服越しにも、それが判る程に。霧で薄っすらと艶がかっているにも関わらず、まるで水気が感じられない。
まるでミイラだ。荒尚は呆然と思った。
しかし、何よりも異様なのは、その頭であった。頭は長年干し続けた干し柿と思うほどに萎んでいて、所々に無理な縮小による裂傷が刻まれていた。そこで荒尚は、電話で聞こえたあの不可解な音が、何で立てられていたのかをようやく悟った。
ぐらり、と荒尚の視界が歪む。しかし荒尚の頭は、不思議に思う程に冷静で、落ち着いていた。
──一体誰が……? いや、それよりも……コレをやった奴が此処に。
そう思った瞬間、荒尚は勢い良く身を伏せた。荒尚の頭上を細長いホースの様なモノが勢い良くしなり、机に乗っていた小物を薙ぎ倒しながら窓硝子を割った。
荒尚は既に、腰から獲物を抜いていた。躊躇いもなく、迷いもなかった。あくまで自然に、当然だと言わんばかりに。
刃が煌めいた。その輝きは霧に遮られていようとも尚鋭い光だった。それは戻ろうとしていた謎のホース状のモノを切り裂き、謎の生物から悲鳴を上げさせた。
荒尚の頭に声が響いた。それはあの夢幻で出逢った、大狼の声と同じだった。
曰く、「『マガミ』の牙は、間合であるならば、必ず捉える」
荒尚は、無意識に嗤う。それは獰猛な、獣の笑みであった。
しかし霧の中からは、何かの気配はもはや感じられなかった。ただ、霧が虚空の如き静寂を孕んでいた。
「……逃げたか?」
舌打ちと共に荒尚が呟く。立ち上がり、飛んできた方を睨むが、ただ霧の壁がのっぺりと佇むだけだった。
教習所の中は、最早濃霧に満ちていた。
顔を俯け、再び舌打ちをする。その時、掌の短刀に目が行った。短刀は血を吸っていた。その刃に付いた異形の血を、刀身がズルズルと啜っていた。
しかし、悍けさは感じない。寧ろ胸中を満たすは、ただ、ただ歓喜。荒尚は自らが変わったのを解っていたが、不思議と気味悪く感じることはなかった。
ここはもう、正気のまま生き残れる場所とは違うのだと、心の中で何かが警告していたからだった。
荒尚は吸い終わったのを見て、短刀を鞘に納めた。此処にもはや興味はなかった。
──血を吸えるやつもいやしねえしな。
荒尚は口角を歪め、呟いた。
荒尚にとって、顔なじみの受付嬢の顔は、もはやなんの感慨も無いただの肉となっていた。
荒尚が外へと出た。教習所の周囲を囲む霧は散開していたが、町を覆う霧は消えていなかった。
空を覆う黒雲が、眼下の白を不敵に眺めていた。