二節、銘と名
青年は唖然と立ち尽くしていた。
ふと青年は顔を下ろし、掌の物を見つめた。
──綺麗だ。と青年は思った。
白鞘は枯れた趣を漂わせ、何処か退廃的なモノの様に青年の目に写った。柄に施された飾りは、まるで狼の尾であるかの様に豊かな毛を蓄えている。
そして、その鞘には彫り物があった。それは表裏に渡るもので、三匹の狼が戯れている絵であった。鞘の端には、「大神」と彫られ、朱に色付けされているのだった。
不意に見惚れる青年の背中を、悪寒が走った。それはゾゾゾと這い、青年に悍気を立たせる。
青年は、勢い良く振り向いた。しかし、その先は霧がかった、朧気な植生林が静かに佇むだけであった。
──気のせいか。青年は呟くと、再び帰路へつく。
青年が霧に消えると、静寂と共に霧がかき乱れ、ゆらりと流れていく。真っ白な幕のような霧に、巨大な影が浮かんだ──。
◆
青年は腰ベルトに短刀を挟み──手で持つのは流石に駄目だと思ったからである──、隠すと宿屋に帰った。
戸を開けて入るなり、青年を怒鳴り声が襲った。目を白黒させながら周りを見ると、声の主はすぐに見つかった。主はフロントに詰め寄り、顔を赤くさせている中年男性だ。
「だから! もう帰ると言っているんだ!」
「ですが、この霧では危険ですし、警察の方からも山越えは控えるようにと──」
「私がいつ帰ろうと、私の勝手だろう!?」
その言葉で観念したのか、フロントはチェックアウトを済ますと、頭を下げて男を見送る。
男は足音荒く歩き、玄関に立っていた青年の方へ向かった。
──それも、男性が帰るのならば当然のことではあったが。
男は少し頭の寂しい男であった。太っていると言うほどではないが、脂肪がのった体は重そうである。
青年が無遠慮に見すぎたせいか、男は半ば睨むような目で青年を見た。
しかし失礼に思ったのだろう、荒々しく頭を下げると、男は外へ出ていった。
「おかえりなさいませ」
「あの人、どうかしたんですか?」
青年は振り返らず、フロントへ尋ねた。
「はい。あのお客様は元もとはもっと早く帰る予定であったのですが、この天気でしょう? 延びてしまって。
ですが、仕事があったらしく……」
青年は納得した風に頭を振ると、何も言わずに部屋へと戻っていった。
戻る間中、青年は妙な感じを覚えた。眉間がチリチリとする様な、妙なざわめきであった。首を傾げる青年は、辺りを見回し、何かに気づいた様子を見せると、自分の腰へと目をやった。ざわめきの正体は、腰に指してあった短刀であったからだ。
──業ありのものなのか。青年はのんびりと思ったが、やがてそうも言っていられなくなった。
異変は出かける前に聞いた劣情誘う声の元、あの女の部屋の前からだった。
部屋に通り掛かった瞬間、声が消えたのだ。まるで館に霧が満ちたかの様に。雪が穏やかに降る真冬の深夜の如き静けさで──。
すると、腰の刀が震えるのを感じた。やがて、それは唸り声の様相に変わっていき、狼の吠える声へと成った。
その時には、青年の視界は平静の時とは、まるで変わっていた。床や壁、柱は歪み、色はくすんだものへと変わっている。視界には靄がかかり、それは渦巻き、流れに流れ、二体の狼へと変態を遂げた。
しかし、青年はただ無感動な目をして、先へと進んでいった。
しかし、青年は同時に悟ってもいた。
──このまま歩こうとも、部屋へは辿り着けないであろうと。
しかしそれでも、青年は進んでいく。
ただ、人のすきにされてたまるかと言う信念が故に。
しかしそれは、意志と言うには堅く、粘着的で、執拗なモノであった。妄執と言っても過言ではない程に。
やがて青年の目の前で、霧に朱い蛍火が灯った。ユラユラと揺れる朧気な灯りは、燐光を零しながら霧が形作る狼の瞳へと収まった。
狼が問う。
しかし青年は「その口から吐き出されるは、霧か、それとも人外の吐息か?」と的はずれな事をぼんやりと考えていた。
──汝、名を告げよ。
──汝、名を名乗らん。然して、牙を授からん。
──されば、汝、狼とならん。
それは幻であった。夢のようなものでもあった。平時ならば、一笑に付すような。そんな馬鹿馬鹿しいものであった。
しかし、青年は熱に浮かされていた。原因は何なのか、それすら定かでは無い、突如起こった高熱である。その熱は青年の頭を沸騰させていた。
だから、答えてしまうのは、やむを得ない事であった。
「──荒尚」
──なお荒く。そのような意が込められた名を、彼の親がどう思いつけたのか。それを知る術はもう無い。青年の両親は、彼が成人する少し前に、この世を去ったからだ。
しかし、超常のモノ──刀に取り憑きし聖狼──は名を聞いて、ニタリと嗤う。
──我が名は、「マガミ」
──我が名は、「オオグチ」
そう告げ、ユラリと消えていく。霧は晴れ、歪みは戻り、青年の目の前は平静の通りとなった。
霧に呆けていた頭が冴えていき、青年は尋常ならざる思いを抱いた。
しかし──しかし、腰の短刀を手放す気には、なれないのだった。




