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狂霧の町  作者: 九田無
2/16

二節、銘と名



 青年は唖然と立ち尽くしていた。

 ふと青年は顔を下ろし、掌の物を見つめた。


 ──綺麗だ。と青年は思った。

 白鞘は枯れた趣を漂わせ、何処か退廃的なモノの様に青年の目に写った。柄に施された飾りは、まるで狼の尾であるかの様に豊かな毛を蓄えている。

 そして、その鞘には彫り物があった。それは表裏に渡るもので、三匹の狼が戯れている絵であった。鞘の端には、「大神」と彫られ、朱に色付けされているのだった。


 不意に見惚れる青年の背中を、悪寒が走った。それはゾゾゾと這い、青年に悍気を立たせる。

 青年は、勢い良く振り向いた。しかし、その先は霧がかった、朧気な植生林が静かに佇むだけであった。


 ──気のせいか。青年は呟くと、再び帰路へつく。

 青年が霧に消えると、静寂と共に霧がかき乱れ、ゆらりと流れていく。真っ白な幕のような霧に、巨大な影が浮かんだ──。



 青年は腰ベルトに短刀を挟み──手で持つのは流石に駄目だと思ったからである──、隠すと宿屋に帰った。

 戸を開けて入るなり、青年を怒鳴り声が襲った。目を白黒させながら周りを見ると、声の主はすぐに見つかった。主はフロントに詰め寄り、顔を赤くさせている中年男性だ。


「だから! もう帰ると言っているんだ!」

「ですが、この霧では危険ですし、警察の方からも山越えは控えるようにと──」

「私がいつ帰ろうと、私の勝手だろう!?」


 その言葉で観念したのか、フロントはチェックアウトを済ますと、頭を下げて男を見送る。

 男は足音荒く歩き、玄関に立っていた青年の方へ向かった。


 ──それも、男性が帰るのならば当然のことではあったが。


 男は少し頭の寂しい男であった。太っていると言うほどではないが、脂肪がのった体は重そうである。

 青年が無遠慮に見すぎたせいか、男は半ば睨むような目で青年を見た。

 しかし失礼に思ったのだろう、荒々しく頭を下げると、男は外へ出ていった。


「おかえりなさいませ」

「あの人、どうかしたんですか?」


 青年は振り返らず、フロントへ尋ねた。


「はい。あのお客様は元もとはもっと早く帰る予定であったのですが、この天気でしょう? 延びてしまって。

 ですが、仕事があったらしく……」


 青年は納得した風に頭を振ると、何も言わずに部屋へと戻っていった。

 戻る間中、青年は妙な感じを覚えた。眉間がチリチリとする様な、妙なざわめきであった。首を傾げる青年は、辺りを見回し、何かに気づいた様子を見せると、自分の腰へと目をやった。ざわめきの正体は、腰に指してあった短刀であったからだ。


 ──業ありのものなのか。青年はのんびりと思ったが、やがてそうも言っていられなくなった。

 異変は出かける前に聞いた劣情誘う声の元、あの女の部屋の前からだった。

 部屋に通り掛かった瞬間、声が消えたのだ。まるで館に霧が満ちたかの様に。雪が穏やかに降る真冬の深夜の如き静けさで──。


 すると、腰の刀が震えるのを感じた。やがて、それは唸り声の様相に変わっていき、狼の吠える声へと成った。

 その時には、青年の視界は平静の時とは、まるで変わっていた。床や壁、柱は歪み、色はくすんだものへと変わっている。視界には靄がかかり、それは渦巻き、流れに流れ、二体の狼へと変態を遂げた。

 しかし、青年はただ無感動な目をして、先へと進んでいった。

 しかし、青年は同時に悟ってもいた。


 ──このまま歩こうとも、部屋へは辿り着けないであろうと。


 しかしそれでも、青年は進んでいく。

 ただ、人のすきにされてたまるかと言う信念が故に。

 しかしそれは、意志と言うには堅く、粘着的で、執拗なモノであった。妄執と言っても過言ではない程に。

 

 やがて青年の目の前で、霧に朱い蛍火が灯った。ユラユラと揺れる朧気な灯りは、燐光を零しながら霧が形作る狼の瞳へと収まった。


 狼が問う。

 しかし青年は「その口から吐き出されるは、霧か、それとも人外の吐息か?」と的はずれな事をぼんやりと考えていた。


 ──汝、名を告げよ。

 ──汝、名を名乗らん。然して、牙を授からん。

 ──されば、汝、狼とならん。


 それは幻であった。夢のようなものでもあった。平時ならば、一笑に付すような。そんな馬鹿馬鹿しいものであった。

 しかし、青年は熱に浮かされていた。原因は何なのか、それすら定かでは無い、突如起こった高熱である。その熱は青年の頭を沸騰させていた。

 だから、答えてしまうのは、やむを得ない事であった。


「──荒尚あらたか


 ──なお荒く。そのような意が込められた名を、彼の親がどう思いつけたのか。それを知る術はもう無い。青年の両親は、彼が成人する少し前に、この世を去ったからだ。


 しかし、超常のモノ──刀に取り憑きし聖狼──は名を聞いて、ニタリと嗤う。


 ──我が名は、「マガミ」

 ──我が名は、「オオグチ」


 そう告げ、ユラリと消えていく。霧は晴れ、歪みは戻り、青年の目の前は平静の通りとなった。

 霧に呆けていた頭が冴えていき、青年は尋常ならざる思いを抱いた。


 しかし──しかし、腰の短刀を手放す気には、なれないのだった。



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