十三節、出立
夜の帳が狂った町に降り、一先ずの安息が訪れた時のことである。
荒尚は、夢を見ていた。
場所はやはり、旅館の廊下。霧に満ち、歪んだ、あの場所であった。
「またお前らか」
「御無体なことを申されるな主殿」
「そうで御座います。我等は既に貴方様に服従を誓い申したでしょう?」
霧に二対の瞳を確認した途端言い放った荒尚に対して、巨狼は穏やかな口調で返した。
思わず、誰だこいつら、と言った目を荒尚が向けてしまうのも、しようが無く思える。
「我等『忌獣十二振』が一振り、幾星霜の中、待ち望んでおりましたぞ」
「然り然り。あの狐めが当てになりませんなぁ、と思っていましたが、存外やるものですね」
「狐って、権兵衛さんのことか?」
「ああ、あの男はそう名乗っておりましたな」
「あの男が持つのも、十二振が一つ、『狐』でありますよ」
──なるほど。
呆然と呟きながら荒尚は、今あの男はどこに居るのだろう、と思いを巡らした。
すると、それを察したのか。
「大方、母の下でございましょう」
「奴は何時もそうでありますからな」
「……『母』?」
意外そうな顔──あくまで荒尚から見た限り──をして、マガミとオオグチは呟く。
「知らないのですか?」
「何だその、『母』ってのは」
「奴らの母体ですよ」
「狂わされた霧に歪められた母体。それが『母』ですぞ」
こんな重要なことも知らせず消えやがって、と荒尚は心中で吐き捨てるが、思えばそんな暇を与えず出かけたのも自分であると気付く。が、やはり言おうと思えば言えた、と腹立たしい気持ちになるのだった。
「──まあ、今は休みなされ主殿」
「目が覚めても、貴方様は霧の中でございます」
──貴方様が刀を持つ限り、我等は力を貸しましょうぞ。
霧にぼやけながらマガミとオオグチは言い捨て、消えていった。
やがて旅館は霧に溶けていき──。
目が覚めれば、そこは自らの寝室だった。
窓を見れば、薄暗いが確かに朝である。
布団から立ち上がると、荒尚は枕元に置いた短刀を握りしめた。
今日は、久美と斗真を外に送り届ける日である。
昨日あんなことがあったが、二人は中止や延期にしようとは言い出さなかった。
──ただ待つことはできない。
──助けを呼びたいんだ。
強く言い切った斗真の瞳には、もはや最初の頃のような軽薄な色は無かった。
ミカの足は、処置はしたがやはり医者に見せなければ危ない状態だ。
誰かが、助けを呼ばなければいけないのだ。
これはバトンだ。
これを繋げなければ、約束は守れない。
荒尚は準備を済ませると、短刀を腰に差し、勢い良く部屋を出ていった。
◆
──車を使おう。
そう言い出したのは、斗真だった。
「あなたまだ路上にすら出てないじゃない」
「霧の中を進むのは意外と難しいぞ?」
「うぐっ。い、いや俺が運転するわけじゃないよ。荒尚さんは、確かもう免許持ってるんですよね?」
「ああ、なるほど」
事実、荒尚は特殊免許のためこの合宿に来ていた。
普通自動車の免許だけなら三年前に取ったばかりである。
「わざわざ歩く必要なんて無いじゃないですか?
この霧なら他の車もいないでしょうし、多少乱暴な運転をしても大丈夫だと思うんですよ」
一理ある、と荒尚は思った。
実際、奇襲をされようが、鉄板一枚でも間に隔てられていれば被害は抑えられるはずだ。
「…………荒尚さんが戦っている時、誰が運転するんですか」
──あっ。
荒尚と斗真が、ほぼ同時に間の抜けた声を発した。
「いやその時は、その時だよ」
「まあ、一応習ってるんだよな?この際、走れればいいさ」
先を考えないこととし、一先ずの移動手段が決まった。
「準備はいいか?」
荒尚は短刀だけを持ち、身軽な格好で問い掛ける。
それに対し、久美と斗真は静かに頷いた。
二人もまた、身軽な格好だ。
バックパックに、携帯と財布。それに水筒や軽食などを詰めていた。
車は、女将さんが貸してくれるとのことだった。
山麓に女将さんの知り合いが住む家があるらしく、その車を貸してもらえることになったのだ。
何時もそこの家主は家に鍵をかけることが無く、車の鍵の場所さえ分かれば、誰でも車を使うことができるのだ。
「私は車を使いませんし、そもそも、もう使う人が居ないかもしれませんからね」と女将さんは、寂しげに呟いていた。
三人は旅館を出ると、注意しながら山を降りていく。
道なりに進んで行くと、立派な家が見えてきた。
表札には「中田」と書いてある。
荒尚が女将さんから聞いていた名前と一致していた。
「二人は車のところで待っててくれ」
荒尚は言って、家へと向かっていった。
聞いていた鍵の場所は、玄関を入ってすぐ。横の棚に置かれた花瓶の底に隠されているという。
戸をゆっくりと開けると、家の中は霧に満ちていた。
荒尚は一度だけ手を合わせると、花瓶の下から鍵を抜き取り、車庫に向かった。
音を立てないように、鍵穴に鍵を挿して開けると、三人は乗り込んだ。
「……おまえら、運転コースはなんだ?」
「MTっす」
「…………ATですけど」
──いざという時、斗真頼んだぞ。
即座に斗真は後部座席から降りると、助手席へ乗り込んだ。
それをにこやかに眺めていた久美は一言。
──エンストしたらわかってるでしょうね? と言い放ち、斗真を戦慄させた。
そうして三人を乗せた車は、霧の中を進んでいった。




