十二節、煙雨
荒尚が件の場所に到着した時には、既に手遅れだと一目で判る様相だった。
「──荒尚さん!」
ミカが荒尚の姿を目に捉えて悲痛に叫ぶと、怪物と怪物に捕らえられた彩は荒尚の方を向いた。
怪物は無数の眼をギョロつかせ、荒尚の腰に据えた短刀を見ると、絶叫と共に廊下の窓を突き破る。
霧に満ちた庭は、地面に敷き詰められた白石と相まって、白一面の景色であった。
「あら、たか……さん」
怪物の触手口に捕らえられた彩が、苦しげに口を開く。
だがその続きを語ることはできなかった。
皮膚を突き破りそうな程に、彩の喉を肩を胸を何かが脈動する。
すると彼女は、まるで陸に上げられた魚のように、口を開くことしかできないのだ。
それでも彼女は、伝えようと必死に口を動かす。
あの化物が出てきたのが、ミキの遺体のあった部屋だという事を。
そして最後に涙を瞳から溢れさせながら微笑むと、ただ一言。
──殺して下さい。
そう、口を動かしたのだ。
荒尚の真っ白だった視界が、紅く染まっていく。
頭が熱に魘され、動機が激しくなる。
何時の間にか彼は短刀を抜き放つと、前傾姿勢を取っていた。
空いた手を地面に付いたその姿は、まるで四足獣のよう。
──殺せ。殺せ、殺せ、殺せ、殺せ──ッ!
声が頭に響き渡る。反響し、やがてその声が一つなのか、それとも二つなのか、それすらも分からなくなっていく。終いには、それが狼の群れのように思えてくる。
荒尚は呑み込まれる寸前だった。
赤い視界の中、彩が再び口を動かすのが見えた瞬間、荒尚は正気に戻った。
──ミカをお願いします。
呼吸すらも辛い状態で、彼女はたった一人残った親友の心配をしたのだ。
そしてそれを頼まれたのは、自分自身なのだ。
荒尚は、すうっとした清涼な風が、頭を吹き抜けたかのような感覚を覚えた。
──成った! 汝は主と成った!
声が響く。歓喜とも呪いとも思われる声が。
異変に気付いたのか、怪物が醜怪な掛け声を上げ、翼を広げた。
まるで薄く剥いだ人の皮膚のような翅を羽ばたかせ、捕らえた彩を──"自らの同族"を大事そうに抱えながら上空へ飛び立った。
──主よ。名を呼べ!
──高き者を墜とす、彼の名を!
「階梯と成れ、『千疋狼』」
言い放つなり、荒尚は地面を蹴った。
僅かに浮き上がった彼は、あろうことか更に中空を蹴ろうとする。
人は空を飛べない。ましてや、跳ぶこともできない。
それは自然の摂理。超えられない壁というものである。
そう、普通ならば。
淡い燐光が荒尚の足元へ集うと、光は狼を象った。
その背を蹴り、荒尚は更に上へと跳ぶ。
階段の如く、狼は更に積み上がっていった。
荒尚を高き者の元へ運ぼうと。
逃げようとしていた怪物に、影がかかった。
見上げた怪物は、頭上に自ら我が"逃れようとしていた者"の姿を見つけ、悲鳴を上げた。
其の者は金の瞳を輝かせると、自らの牙を振り上げる。
牙は怪物の頭に突き立つと、瞬時に命を奪った。
怪物は力を失い、堕ちていく。
即座に彩を抱きとめると、荒尚は堕ちていく怪物を見届けた。
そして、狼を蹴り降りていくのだった。
彩を抱えて降りてきた荒尚は、廊下に集まった面々に向けて。
「女将さんは居るか⁉」と叫ぶ。
集まった面々の中から女将さんを見つけた荒尚は、血の気を失い幾分か軽くなった彩を廊下に横たえた。
「これは……」
一言、女将さんが呟くと番頭はミカを連れて、廊下の奥へと引っ込んでいった。
見てわかる程に、虫は彼女の体を侵食していた。
「貴方達も、彼女についていてあげて?」
久美と斗真に言い放つと、彼女達は手を合わせて立ち去っていった。
彩は微かに目を開けると、ぼやけた視界の中に荒尚がいるのを確認して、口を開き始めた。
声は既に出るようにはなっていたが、口に耳を近づけなければ聞こえないほどに微かな声しか出せなかった。
「みかを、おねがいします」
「ああ、必ず守る。絶対にだ」
ひゅーひゅー、と彩は音を立てて笑う。
まるで彼女の中が空っぽになったせいで、風が音を奏でているようだった。
「ありがと……う、ございます。
………………わたしは、もやしてください」
「……なんでだ」
「あのむしが、わたしのなかから、でてくる……んです。
もやさ……なきゃ、だめなんです……うぅ……」
音は益々酷くなっていく。
ぼろぼろと涙を溢す姿を見て、荒尚は「判った」と了承する。
ホッとした顔をして、彩は体の力を抜いた。
そして更に顔をくしゃくしゃに歪め、泣き始めた。
嫌だ、嫌だよぅ──。
何度も、何度も。しゃくり上げる度に、空風の音は酷くなっていく。
やがて一際大きな音をたてて、彼女は力尽きた。
穏やかとは程遠い顔で、体を侵されながら死んでいったのだ。
「荒尚さん……」
「…………わかっています。
俺が燃やします」
──すみませんが、灯油を持ってきてくれませんか。
そう女将に頼むと、荒尚は彩を抱き上げて中庭に出ていく。
雨は珍しく止んでいた。
荒尚はそっと、白石の上に彼女を横たえる。
「あの娘は呼びますか?」
灯油を手渡す際に、女将が問い掛けてくる。
荒尚は「頼みます」と短く告げ、彩の体に灯油を振りかけた。
「荒尚さん」
声に振り向けば、後ろには全員が集まっていた。
その中から真っ赤に目を腫らしたミカの姿を見つけると、荒尚は番頭からライターを受け取った。
そして、彩の遺体に火をつけた。
火はあっという間に広がると、彼女の体を黒く染めていく。
虫が苦しげに身を攀じるのを見て、ミカは耐えきれず泣いた。
いつしか、煙るような雨が降り出す。
荒尚は空の彼方、煙の行く先を見つめ続けるのだった。




