十一節、孵化
次の日の朝のことだった。
女将は楚々と普段通りの姿を見せていたが、番頭や斗真は二日酔いに唸っている。
そんな中、久美が荒尚に言った。
「私達は、この町を出ようと思っています」
女将や番頭は聞こえない振りをして、黙々と配膳していく。
反対に斗真は、佇まいを直して久美の隣へ座り直した。
「荒尚さんには、ついてきてもらえたらと、思ってるっす」
──改めて、お願いします。
斗真は深く頭を下げた。
荒尚は黙って外を見つめていたが、不意に口を開いた。
「安全は保証できないよ」
──実際、守れきれなかった。
自嘲の笑みで、荒尚は呟く。
斗真が困ったように眉を寄せたのを見て、荒尚はあえて声を立てて笑った。
「今日いきなりというわけにもいかないから。今日は準備といこうか」
そう言って、荒尚は席を立った。
女将の静止の声も聞かず、逃げるように部屋を去っていく。
部屋を出て、自室へと歩く荒尚の頭に声が響く。
反響するその声は、大きい鐘のような暴力性を持って、荒尚に呼びかける。
やがて目が霞始めた時、荒尚は声が誰なのか悟った。
其処は、霧に満ちていた。
見慣れた旅館であったが、壁も床も窓でさえもぼんやりと歪んでいる。
まるで世界が燻り狂うかのように。
「──力を求めるか」
霧に大きな眼が、二つ浮かぶのを見た途端、霧からあの巨狼が這い出てきた。
「黙れよ」
「悔いているのだろ?」
「何故求めん。それより、何故心を苛むんや?」
「己は我が眷属であろう?」
「血に狂え」
「喰らえ」
──狂え、喰らえ、狂え、喰らえ──。
「──うるせぇっ!」
「…………逃れんとするか、人の子よ」
──なればこそ、主に相応しい。
荒尚は顔を上げ、巨狼を睨みつける。
何時の間にか、狼は二匹三匹と増え、霧の中には無数の瞳が爛々と犇めいていた。
「──試練を下す」
「見事其れを乗り越えてみせよ」
「なれば契約はなされん」
──己を喰われんと、我を喰らわんとすれば、力は得られるであろう。
その言葉を最後に、霧は晴れていった。
後に残るのは、頭に疼く銅鐘のような頭痛だけであった。
◆
それは、漸く目覚めた。
醜悪な母によって生み出された怪物が、獲物に産み付けた幼体。
それは血を吸い、肉を貪り、成体へと変態する。
怪物でなければ、自然界に於いては自然なことであった。
事実、幼体を獲物に産み付け、育てる種も存在するのだから。
しかし、時には自然がある一種族に不都合を引き起こすように。
ここにも一つの不幸があった。
奴らが潜んでいた死体が、ある少女達の親友であった事。
そして、その死体に奴らが居ると思わずに、持ち帰ってきてしまった事。
それが、不幸の原因だった。
数体の兄弟との凄絶な共食いを経て、怪物は産声を上げる。
豚にも似た、悍けの立つような産声を。
怪物は自らの居た死体から抜け出すと、本能のまま駆け出す。
木製の戸口を体で押し開け、廊下へと転がり出た。
そして、目の前に居た──。
目の前に居た"二人の少女"を見て、歓声を上げた。
◆
真っ先に気づいたのは、荒尚だった。
狼にも似た過敏な嗅覚が、忘れること無い化物の匂いを感じ取ったのだ。
次いでまだ幼い悲鳴が聞こえてきた瞬間、荒尚は駆け出した。
荒尚の懐の中、短刀に憑く狼達は呟く。
不幸か、それとも幸か。試練の時、来たれり──と。




