十節、微睡みの霧
「あの子達は寝てます」
「酷い顔だった。休ませたほうがいいさ」
席に座るなり、女将と番頭が話し始めた。
時は既に夕方を越していて、すっかり暗くなっている。
帰ってきてから既に時が経っていた。
女将は荒尚達を見て、ただ微かに唇を震わせた後、何事も無かったように。
──身体が冷えていますね
そう言って、微笑を浮かべた。
少女達は疲れきったのか、すぐ寝てから未だに起きない。
荒尚は寝る気も起きず、ぼうっと客間から庭を眺めていた。
そこには、少女二人と権兵衛を除く全員が集まっていた。
「……夜中になっても霧が晴れないなんて、今思うと異常ですね」
女が、外を眺めながら呟いた。
「後悔してるんで?」番頭が女に言った。
「ええ、まあ」
「そりゃ驚きだね。人の心はすっかり捨てたもんだと思ってたよ」
荒尚が吐き捨てるように言う。
女は自らの膝を見つめたまま、退廃的に笑う。
「いえ事実、捨ててたのでしょう。あの時は」
「今では戻ってきたって?」
「さあ? それを言ったところで、詮無きことでしょう?」
ふと女将が立ち上がり、部屋を出て行く。
それっきり会話は無くなり、部屋は重苦しい雰囲気となった。
暫くして、静かに戸が開いた。
「皆さんで、飲みますか?」
戻ってきた女将が、盆に瓶と杯を載せて帰ってきたのだ。
「おや女将さん。それはとっておきの酒じゃあないか」
「生徒さんには飲ませないで下さいって、言われてるんですけどね。
もう関係なくなっちゃいましたから」
悲しげに笑う女将を見て、荒尚はことなげに言い放った。
「俺もいただこう」
「私も貰おうかしら。あなたもどう?」
「お、俺か? 俺は未成年だし……」
「こんな状況だ。躊躇うだけ損ってもんだよ」
周りに言い含められ、軽薄そうな若者も杯を手にとった。
乾杯の一言は酷く明るかったが、一言飲んでからは静かな酒盛りとなった。
ちびちびと酒を飲みながら、荒尚は訪ねる。
「…………女将さん達は、どうするんだ?」
「あたしらですか?」
番頭は何故か驚いた顔をして、女将の方を向いた。
女将はそれを見て笑うと。
「私達は、旅館を開くだけですよ。
だってそれ以外に、何ができますか?」
「そりゃ確かにちげえねえや!」
荒尚は笑い合う二人を見て、馬鹿な質問だったと思った。
この人達はずっとここに居るんだと、心に決めている人達なのだ。
事実、彼らが旅館以外にいる所など、想像もできない。
荒尚は笑うと、隣に目を向けて。
「あんたらは……、えーと」
「そういえば、名乗ってませんでしたね」
女は薄っすらと頬を染め、隣の男の肩を叩く。
男は急いで向き直ると、荒尚、女将、番頭と順繰りに見て。
「私は『中遠久美』と申します」「『斗真』だ」と言った。
「これからどうする?」
荒尚は確認のため問いかけた。
二人は向き合うと、一杯飲んでから言った。
「私は出たいと思っています」
「俺もだ、です」
久美は言ってから、物憂げな顔をすると。
「でも、終わりが来るまで此処にずっと居るのもいい。と思うときもあります」
それに続いて。
「外が恐いのもあるんですけど、だけど、ゆったりとしたこの時間が、夢のような休暇に思えてくる時があるっす」
──"夏休み"みたいな。
斗真は酒の水面を眺めながら呟いた。
荒尚は無言で自分の杯に、一杯なみなみと注ぐと、一息に飲み干して、席を立った。
「酔いが回ってちまったみたいだ。俺はもう、寝るよ」
荒尚が出ていった後も、宴は続く。それは余りに静かに、粛々と更けていった。




