一節、人知れず満ちるモノ
酷い豪雨であった。真夏の昼間にも関わらず、空には曇天が塗り込まれ、灯りが必要な程に薄暗かった。
それを窓から見つめ、青年は重苦しい溜息をついた。そこはある宿屋の一室で、青年は免許の取得のため、合宿でこの宿屋に泊まっているのだった。
青年は暗い紺色のマウンテンパーカーを着込み、再び窓から外へ目を向けると、今度は先程よりも深く溜息をついた。
部屋から出ると、廊下の端から歩いてきた中居が、「お出かけですか」と訪ねてくる。青年は「ええ、まあ。少し教習所の方へ」と応えると、中居は苦笑いをし軽く頭を下げて去っていった。
青年が玄関の方へ向かっていると、横の部屋から微かな嬌声が聞こえてくる。部屋へ視線を向けると、そこは同じ教習所へ通う女の部屋であった。
親しくなった教習仲間でも連れ込んでいるのだろうか、青年はまだ年若い女の顔と、それとよく共に居る軽薄そうな男の顔を思い浮かべた。
教習生同士の部屋の訪問は禁止されていたが、馬鹿正直に守るものばかりではないのは、青年自身今までの人生で分かっていた。
男はすぐ視線を外すと、再び歩き出した。
教習を経て仲を縮める者は多かったが、青年はそうすることは無かった。
一人で来たというのもあるのかもしれないが、彼自身無口な質であり、何よりも大きかったのは、教習所の横にある寮ではなく、離れた宿屋に泊まっていることだった。
温泉が売りの旅館で、少し高い料金を払う代わりにこの旅館に泊まれるのだ。
有給を取って、態々取りに来るのだから少し贅沢をしたいと思い、青年はここに決めたのだった。
しかし宿屋の部屋は個室であり、他の寮のように同居人は居ない。
また、同じく旅館に泊まっている者も、先程の女一人と二人の少女だけであり、そこまで女好きでも無い──そもそも、必要以上に女に話しかけるのを、青年は好かなかった──青年には、これと言って接点もつくりようがない。
必然、孤独な教習生活となった。
玄関を通っていると、青年に番頭が声をかけてきた。
「傘は要らないんで?」
青年は頭の薄くなった番頭に目をやり、次いで傘立てを見た。傘立ての中には傘が二本しかなく、全て蝙蝠傘であった。
青年が開いた戸から外を見ると、丁度同じような傘を持った中年男性が、霧の向こうに消えていくのが見えた。
青年はふむ、と呟くと。
「いや、傘はいらないよ。雨具もあるしね」
青年は言うと、防水加工のされたスニーカー──ライニングの長い、足首までのもの──を乱暴に履くと、外へ出ていった。
外へ出ると、雨はそこまで強くない様であった。先程までの篠突くような雨は鳴りを潜め、今ではシトシトと糠雨が静かに降っていた。青年はパーカーのポケットに手を突っ込むと、黙って霧の向こうへと入っていくのだった。
歩いて暫くすると、青年は諦観を感じ始めていた。町は音もなく、真っ白な霧が充ち満ちている。
道に並ぶ民家の壁には、水滴が目に見えるほど張っていて、庭先の花の花弁はしとどに濡れそぼっている。
道の先から二つの眼のような光が微かに灯ったと思うと、それは徐行する自動車であり、再び霧の中へ消えていくのだった。
──こんなので、教習になるはずが無い。
青年は不機嫌そうに眉を顰め、またしても溜息をついた。この天気のせいで教習の中止は両手では数え切れない程になり、既に合宿の延長が決定していた。
青年は会社に電話した時のことを思い出し、苦々しく舌打ちをする。
予期せぬ休みが──青年にとっては休みなどでは無いのだが──延長した事により、青年の上役は電話越しでも判る程に不機嫌になったのだ。
自分のせいでは無いのに、と青年はその時の事を思い出し、拗ねたように足並みを激しくした。
案の定、訓練は中止であった。電話があったのだ。そもそも、常にこのような時には連絡がくるものである。
しかし、今回は妙に遅く、青年は自分で確かめようと思ったのであった。
別に殊勝な考えがあったわけではない。それにかこつけて、外に出たかったのだ。
退屈から、逃げ出したいだけであった。
青年はそのまま、近くの──あくまで今の位置からであり、寮や宿屋からすると遠い位置にあった──コンビニへ足を向ける。
コンビニで適当に物を買い込み、青年が帰路へつく時の事であった。
宿屋は山の中腹に在り、教習所の近辺にある寮と比べ、余りに不便すぎた。
更には宿屋は山の裏にあり、一度山道を通らなければ帰れないのだ。青年もそれに倣い、山道を歩いていた。
青年が異常を感じたのは、道の両脇が森に囲まれた。道程にして中程の所であった。枯れ木を折り、道無き道をゆく者の足音が聞こえてきたのだ。車の走行音さえ霧に包まれ消える中、その音は青年の耳にするりと入り込み、ハッキリと青年にその者の気配を感じさせた。
やがて霧の中から現れたのは、一人の男であった。
その男は、酷く奇妙な格好をしていた。膝丈まである長いダウンコートを羽織り、その下には黒の檜垣柄の着物を着ている。足は下駄で、薄汚れた足袋を履いていた。
頭にはカンカン帽を目深に被り、一本の槍を背負っている。その槍は白布で穂先が覆われていたが、その上からでも、刃が厚く野太い山刀のようなモノであると分かった。
「ん? オット、これは失敬」
男はそう言って、帽子をとると会釈した。青年は訝しく思いながらも、会釈を返す。
「霧が、濃いですね」
言う事もなく、青年はその場しのぎで口にした。
男はそれに対し、何ら気負った素振りを見せず、日常の最中であるように振る舞った。
「ああ、そうですね」
「異常気象でしょうか?」
「さあ、私はそう思いませんがね」
妙な口振りで、男は勿体ぶった様子で語る。
男は帽子のツバを弄ると。
「此処には、観光で?」
「いえ、免許の方を取りに来ました」
男は「ああ、なるほど」と呟き、唐突に。
「もし、貴方は化物を信じますか?」
「化物……? さあ、もしかしたら、いるかもしれませんね」
男は肩を震わせて笑うと、口に手をやり、立派な口髭を捻り始めた。それで初めて、青年は男の顔をハッキリ見たのであった。
男はまるで明治の紳士のような顔つきをしていて、整いながらも野太い眉毛と立派なカイゼル髭が印象的な男だった。
「これをあげましょう」
唐突に男が何かを差し伸べた。
男が手渡したのは、細身の短刀であった。白鞘で、柄に飾りが施されたものである。
「銘を『狼』と申します。私の毛色に合わないので、差し上げましょう」
男は言うなり、笑いながら霧へと消えていく。唖然とする青年に、霧の向こうから男が伝えるのであった。
「斬れ。魑魅魍魎であろうと、斬れれば何も変わりはせぬ」
同一人物とは思えぬ硬い口調で、男は告げた。そして下駄の音を響かせながら、男は消えていくのであった。