爪先の声
「貴子お姉さん、お姉さんは恋ってした事ある?」
「恋?」
唐突に優太は、幼気な眼差しを向けながら尋ねてきた。その純然たる双眸が私の心を貫いて、瞼の裏に熱い過去を蘇らせる。
「そうね……昔のお話だけど、気になるならしてあげよっか?」
「うん!」
まだ恋とは何かも知らない無垢な少年に、私は思い出を紡がずにはいられなかった。
◇
私が子どもの頃、と言っても十五歳くらいのませてくる年頃に、近所の公園で度々サーカスのような劇団が開かれる事があった。
田舎産まれ、田舎育ちの私には、遊園地にでも行くかのような気分で、そのサーカス団が来る度に端金を握り締めて遊びに行っていた。
園内にはたくさんのコーナーがあった。各々には、ピエロに扮した愉快な見た目の男性から、セクシーな格好をした艶美な女性までが華々しく芸を見せていて、ギャラリーでごった返していた。
どれも近くで見ようとすると、お金を投じなければいけなかったため、私は遠目から目を輝かせて見ていたのだが、そんな煌びやかな園内に一棟、ひっそりと佇む平屋があった。
「寄ってらっしゃい見てらっしゃい! ここは世にも奇妙な、腕だけで生活ができてしまう男が笑かしてくれますよ!」
表で宣伝をする男がいたため、どうやらここもお客を呼んでいるようだったが、あいにく人気が少なく寂れていた。
逆に私は気になって、そこに立ち寄ったのだった。
「お、今日初のお客さん。こんばんは」
中はまるで家畜でも飼っているかのように乱雑に藁が重ねてある舞台だけ。その舞台に、ニコニコと笑む男がいた。
「こ、こんばんは」
「あはは、そんなに緊張しなくていいよ。僕はピエロだ。君には笑って帰ってほしいな」
すると彼はその藁から腕の力だけで飛び降り、腕だけで着地した。
「えっ!?」
そこで初めて、お兄さんの様子に気付いた。藁に座っていたからか、足元が見えなかったからだ。
脚がない。それも両方。しかもふとももの付け根辺りから。
当時まだ知識に乏しかった私には分からなかったが、いわゆるここは見世物小屋であった。『普通』の人間ができない『異常』な事を、『異常』な人間がやって見せてお金を取る。
人権も尊厳もない、最悪の家屋。
しかし彼は私を最初に笑顔で迎え入れた。
「あぁ、ごめんね驚かせてしまって。僕は産まれつき脚が無いんだ。でも、その代わりとても力持ちなんだよ」
相変わらず明るい表情は崩さず、その両腕だけで私の元に歩いてきた。
正直少し気持ち悪いと思ったが、あまりに懇切丁寧な対応をされた私はたじろぐ事はしなかった。
「君、名前は?」
「た、貴子です」
「そうか、貴子ちゃんか! 貴い子、良い名前だね」
「お兄さんは?」
「武文だ。名前の通り、すごく強いよ」
剽軽な笑いを見せながら晒した力こぶは、本当にすごかった。
「それじゃ、今日はこの腕がどれだけ力持ちなのかを見せてあげよう」
するとお兄さんは座っている状態が腕の力だけで逆立ちした。そのまま藁に飛び乗ったり、軽快な足運びならぬ腕運びで踊ったりと、とても腕力で動いているとは思えないステップを刻んだ。
「す、すごーい! まるで足があるみたい!」
「あはは。人間も昔は手もついて歩いていたんだよ。そりゃ鍛えればこれくらいできるさ」
「私もできるかな!?」
「う、うーん……まぁ貴子ちゃんは細身だから、腕だけ鍛えれば負荷が少ないしできるかもしれないね」
「じゃあ私に教えて!」
とても、とても純粋な好奇心だった。ただただお兄さんをすごいと思い、ただただ羨ましかった。特に何か特技があるというわけではない私には、そのお兄さんの動きが輝いて見えた。
それからというもの、私はそのサーカス団が来る度に足繁く通った。だいたい二週間に一度の頻度で開かれるため、たっぷり鍛える時間はあった。
「ほら見て! 逆立ちで歩けるようになった!」
「おーすごいね……本当にそこまでできるようになるなんて」
「んふふー、お兄さんのおかげだよ!」
天地が逆さまになった状態でお兄さんを見る。私を見るその目はとても優しくて温かかったが、どこか憂いのようなものを帯びていた。
なんというか、悲しげで、寂しげな。
でも私にはその眼差しすら愛おしくて、胸が締め付けられた。
どうやらお兄さんの見世物小屋は人気がないらしく、私が行った時にお客さんが入っていた事はあまりない。あってもその奇妙な姿に泣いてしまう子どもや、気味悪がる大人ばかりで、稼ぎという意味では不評のようだった。
「み、見て見て……この体勢でお話も……」
「わっ、すごいけど無理しないでいいよ!」
私はお兄さんが話す時、いつも取っている体勢を真似した。上半身は真っ直ぐにして腕を棒にして体を支える。しかし私には足があったため、体をくの字にしていなければならなかった。
「貴子ちゃんには足があるからね。その体勢をやるには、腹筋も使って形を維持しなきゃならない。女の子には特に難しいんじゃないかな」
「じ、じゃあ頑張る!」
「え? 何を?」
「今度からは腹筋も鍛える!」
「……貴子ちゃん……」
力なく呟くお兄さんの目には、さらに寂しさが宿っていた。いや、最早無念にも近い諦観すら見えた。
さらに一月半経った頃には、私は本当にその姿勢を維持できるようになっていた。およそ半年近く通った成果は、見た目にも色濃く出ていて、十五の少女にしては不釣り合いな上半身になっていたのだ。
「……貴子ちゃん。どうしてだい?」
「えっ? 何が?」
「そんなに、何で、頑張ってくれるんだい? 見れば分かると思うけど、僕のコーナーは人気がないんだ。なのに何で……」
私は同じ目線になったお兄さんに尋ねられた。また、力のない寂しそうな目だ。
「だってお兄さんすごいし優しいしかっこいいんだもん! 私はお客さんいないから独り占めできて嬉しいよ!」
この時は自覚していなかったが、私は確実に彼に恋をしていた。彼のやる事なす事全てがかっこよく見えたから。
お兄さんは真っ直ぐに答えた私から目を逸らし、そっぽを向きながら少し微笑んだ。
「はは、すごいとは何回も言われたけど、かっこいいと言われたのは初めてだよ。貴子ちゃん、次はその体勢から逆立ちにもっていく練習をしよっか」
「ホント!? もちろん!」
あまり積極的に私に芸を教えようとしてなかった彼が、枷を外したように初めてその日、私にコツをたくさん伝授した。
しかしその次の開園日、彼の小屋は開かれなかった。
いつも彼が担当する小屋の中には、生きた蛇を食べるという悍ましい芸を見せる女の人がいて、大盛況だった。
「あ、あのっ……腕で歩くお兄さんってどこにいるんですか?」
「んん? 彼はクビだよ、お客が君しか取れなかったからな! さ、お金を払わないならどいたどいた! さー寄ってらっしゃい見てらっしゃい!」
小屋の前で呼び込みをするおじさんには冷たく突き返されてしまった。あまり話さないが、いつもお兄さんの元に通っていたため顔馴染みではあった。
それでもお役御免とばかりにお兄さんを切ったようだった。
しかしこれから芸を教えてくれるとお兄さんは約束してくれた。それに考えたくはないが、一人で生きていくには辛い身体だ、と自分でも分かっている。
きっとどこかにいるはずだ、と子どもながらに希望を捨てず前向きに信じながら、私は休憩室と家を兼ねているらしい大型車が何台も停まっている駐車場に向かった。
巡回するスタッフに見つかってはいけない気がした私は、忍び足でスタッフの網を掻い潜る。幸いサーカスが大盛り上がりで、巡回というよりは物を取りに戻ったりする人間だけだった。
「うっ……え?」
私はそこでサーカス団、見世物小屋の現実を見た。開けたトラックの中から漏れ出す腐臭。その悪臭の原因は、乱雑に荷台に詰め込まれた人間だったモノ達。
いや、中には息があるモノもいるかもしれない。しかし死体の放つニオイとグロテスクな光景は、私に踵を返させるには十分だった。
まさか、このゴミ扱いされた人達の中に、お兄さんがいるはずない。
私はその一台目のトラックから離れ、他のトラックを開いた。
しかしどれも同じような光景ばかり。全てのトラックがという訳ではないが、檻の中に閉じ込められた芸者らしき人が開ける度に出てきて、皆が皆奇形で、私を見ると決まって助けてくれと乞うてきた。
頭がおかしくなりそうだった。こんな環境だったらむしろお兄さんがいないでほしい。
「た、貴子ちゃん……?」
しかし願えば裏切られるのがお決まりの現実というもの。最後から二番目のトラックに、彼が収容される檻を見つけた。
その姿は無残なものだった。いつもニコニコと私に微笑みかける端正なその顔は泥に塗れたように黒ずんで、髪も纏まりなくボサボサ、服は着てても分からないようなボロ切れで、変わらないのは足がなくとも歩む姿だけだった。
「お、お兄さん……」
「な、何でこんな所に……早く逃げるんだ!」
「ッ……やだ! 私はお兄さんを助けに来たんだもん!」
初めて彼の言う事に逆らったかもしれない。私はその檻をロックする錠を解除すべく、鍵をひたすらに探した。
意外にも探すまでもなく、積み上げられた箱の上にその鍵はあった。しかしリングに通された鍵は何本も同じ形状で、どれがそれか分からずに解錠に手間取った。
「ッ……ダメだ、早くしないと看守が見回りに来る。諦めないと!」
「諦めない! また芸を教えてくれるんでしょ!?」
興奮状態に近かった私には、何を言われても効かなかった。耳を傾けない私に観念したのか、そのうちお兄さんは頑張れとエールを送るようになった。
ようやく合った鍵で開けて、お兄さんを連れ出す。本当にご飯を食べているのかと疑う華奢な肩を押しながら、トラックから飛び降りた。
「あ! 何をしている!」
しかしお兄さんの言う通り遅かった。看守がちょうど向こうの方に姿を現したのだ。普通遠目から見れば分からないかもしれないが、お兄さんの直立のシルエットは特殊すぎる。すぐに脱走が気付かれた。
「逃げるしかない!」
「こ、こっち近道!」
ここは私の地元だ。地の利は絶対に私にある。
小さい頃から通り慣れた裏道を使って園内から抜け出した。しかし追い掛けてくる大人にはさすがのお兄さんも勝てない。
どんなに道を選んでも後ろに付いて回って、距離が縮んでいく。
「動くな! 撃つぞ!」
ついには一本道で真後ろまで来た。振り向くと追い掛けてきている男達の手には拳銃が握られていた。
初めて見る脅威に足が竦む。彼らからしたら商売道具でしかないのだろうが、だからこそ殺してでも取り返そうとするわけだ。
「ちっ……仕方ないな」
「!? 伏せるんだ貴子ちゃん!」
「キャッ!?」
ガクンと足が曲がって私は膝から躓き、転んだ。それと同時に聞いた事のないけたたましくて短い爆発音が響いた。
運動会で似た音を聞いた事がある。銃声だ。
私は真正面から倒れ込んだが、どうにも痛みが来ない。どうしてだろう、躱したのだろうか、と思って後ろを見ると、
「やっと捕まえた」
「馬鹿野郎! 殺しちまったら意味ないだろ!」
胸元が赤く滲むボロ切れを纏ったお兄さんを、ゴミ袋でも持ち上げるように乱雑に片手で拾い上げる男達の姿があった。
「ったく……こいつの芸ができんの、こいつしかいねぇんだぞ」
「でも弱ってたし、大して客も取れねぇしいらなくないか?」
「……貴子ちゃん……逃げ、るんだ……」
商売道具を自ら壊してしまった男達が口論する中、掠れた声でお兄さんがそう言った。
その時私を射抜いた眼光を、私は死ぬまで忘れない。いつも悲しそうな目をしていたが、絶対に泣く事はなかったお兄さんが、申し訳なさそうに私を見て涙を流していたから。
◇
「……そのお兄さんは死んじゃったの?」
「うん……」
「お姉さんは?」
「私はある条件で許してもらえたの」
「条件ってー?」
「それはね――」
「――おーい、帰るぞー」
「あ、お父さん! ごめんね、行かなくちゃ」
「ううん、いいよ。またね、優太君」
「またね! 貴子お姉さん!」
迎えに来た優太君のお父さんは、私に精一杯の愛想笑いを浮かべながら、箱の中に銭を落とした。
「すごいんだよお父さん! 貴子お姉ちゃんって、足がなくても歩けるんだ!」
小屋を出ていく優太君の後ろ姿は、とても輝いていた。
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