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◇ ◆ ◇
「ハッ! ハッ!」
まだ陽の昇らない早朝。チカチカと星が存在を主張するように明滅する濃紺の空が、西から東へ移るに従い紺から藍、そして紫、やがて朱に代わるグラデーションがとても美しい。
清々しく澄んだ空気の中、小鳥のさえずりに混じり少々無粋な音が静かにこだまする。
ヒュッ! ブンッ! ブゥンッ!
近衛隊本部の鍛錬場で、成熟した成人男性よりもずいぶんと小柄なシルエットが、剣の代わりに4ミグル(2メートル)もある棒を振り切り、足運びと振り抜くタイミングを慎重に計る。
ブゥン・・ ブゥン・・と棒が風を切る低い音。全身をグッショリと濡らす汗。
手合わせの相手は実際にはいない架空の剣士・・かなりの大柄で強者だ。棒の重みに振り回され、腕が持っていかれた瞬間を狙い、長剣で躊躇いなく斬りかかってくる。
(カッ! カカッ! ガッ!)
互いの得物が交わるイメージに、ビリビリと腕に振動が伝わってくるような錯覚を覚える。息遣いも、体温も。本当はありもしないそれらを強く感じられるほどに。
「ハ・・ぅらあっ!」
体の大きな相手に力比べで勝ち目はない。腕だけで押し返せないのなら足を使えばいい。鼻先まで迫っていた敵の刃を、棒の端を蹴り上げた反動で軌道を反らし体勢を立て直させるより前にコチラから打ち込・・ッ!
(ガッ!)
「しまった!!」
棒先で相手のノドを突く寸前に、敵の剣が左斜め下から右上へと走り、今度はコチラの得物が弾かれ体がブレた――――――が、すぐに両足を踏ん張って腰を落とし、反対側の棒先で低い位置から敵の眉間めがけて一気に突き入れた。
「ふぅ~」
一試合終わらせて幻の対戦相手が消え去ると、卓也は棒を塀に立てかけ、汗で濡れそぼったシャツを脱ぎ捨てた。
ビシャッと石畳に叩きつけられた布地からは、ほのかに湯気が立ち上っている。
火照った素肌にひんやりと涼しい空気が気持ちいい。何度か深呼吸して息を整えると、冷たくなったシャツを拾い上げ、鍛錬場の脇にある井戸へ向かった。
「おう! 朝から精が出るじゃねーか」
井戸で水をくみ上げ、顔を洗い全身を拭っていると、覚えのありすぎる野太い声が聞こえてきた。首を巡らすと、鍛錬場のとなりに建つ倉庫からのんびりとした足取りの大男がやってくる。
国軍近衛隊の三番隊長・オーガンだ。
「おはようございます」
朝っぱらからどうして隊長がこんな所に? と内心首を傾げてるが、まずは基本の挨拶。しかし疑問が表情に表れていたらしく、彼はガハハと豪快に笑って卓也の頭をガシガシと撫でた。
「おっ前、わかりやすいな~」
「いでッ! 痛いッすよ!」
文句を言うと解放されたが、彼がここにいる訳をまだ聞いていない。
「どうしたんすか? こんな朝早く。まだ誰も来てないッすよ」
「ああ。わかってて来たんだよ。お前と少し話したくてな」
「オレと?」
何の話なのかさっぱり予想がつかず、再び首を傾げた。
とにかく裸のままでは風邪を引くから先に服を着ろと勧められ、卓也は倉庫の片隅に用意しておいた袋からシャツを取り出して身に着ける。空になった袋には、さっきついでに洗っておいたシャツと汗臭いタオルを突っ込み、オーガンの待つ外へ急いで戻った。
「おらよッ」
ポンと投げ渡されたのは小振りの水筒で、卓也は受け取ると礼を言って、遠慮なく中身を飲み干した。
柑橘系の香りがする水だった。
「ありがとうございます。・・で? オレに話って?」
先に歩き出したオーガンの後についていきながら、卓也は話がなんなのか訊ねてみる。今週の頭に卓也たち三人の、ボルへザーク領への『歪』の調査出向が決まってから、幾度かオーガンが卓也に何かを言いたげなことには気づいていたが、わざわざまだ誰もいない早朝にこうして訪ねてくるのだから、重要なことなのかもしれない。
卓也は父親のものよりもよほど大きな背中を見つめながら、彼が話し始めるのを待った。
「お前に一つ訊いておきたいことがあってな」
到着したのは、同じ近衛隊本部の敷地内にある、闘技場。訓練の模擬戦や年に数回行われる隊対抗強化試合に使われる場所だ。
周囲の地面よりもかなり低く掘り下げて造られている闘技場は円状で広く、グルリと客席のように石造りのひな壇で囲まれている。
オーガンは階段を下りて上から2段目の椅子(石?)に腰を下ろすと、その隣をペシペシと叩いた。
「・・・タクヤ。お前、なにを焦っている?」
オーガンの隣に座った卓也は、突然の問いに目をぱちくりとさせた。
焦っている? オレが?
「えっと、何も焦ってない・・」
「タクヤ」
静かに名を呼ばれて、言葉を遮られる。ジッと目を見られると居心地が悪く、タクヤはオーガンから視線を逸らした。
焦ってなんていない。なにも。ただ・・・
「ボルへザーク行きが関係しているか?」
「いえ! 違う! ・・・違い、ます。確かに5年前あそこでは、オレ、結局役立たずでしたけど。でもそん時の失敗をバネにすっげぇ頑張って、今、それなりに腕も上がってきてると思うし。・・侯爵とかミラにちゃんと挨拶できないまま帰って来ちゃったんで、それに対する後悔はちょっとだけあるけど・・」
生死にかかわる大ケガを負ったわりに、卓也は不思議とあの瞬間を恐怖に感じてはいなかった。
自身で流した血を見ていないせいか、はたまた次に気付いたときは千早の回復術によってケガはすっかり癒されていたからなのか、全くといって過言で無いほど、現実味が感じられない。
他人事のようにしか思えないのだ。
あの時、ミランダに襲い掛かる凶刃から守るため、咄嗟に彼女に覆いかぶさった卓也の左肩甲骨から右の腰骨まで、斜めに一直線、硬く尖った何かが一気に走った。
斬られたのだと自覚するのと同時に、耐え難い焼けるような痛みが襲ってきて、卓也の意識は瞬く間に朦朧とした霞に包まれていく。必死で遠ざかってゆく何かを繋ぎ止め、どうしても伝えなくてはならないことを呟くように発すると、言葉が届いたかどうかを確かめられないままブラックアウトした。
「結局は チハ に助けられちまった。そのうえ城に攻め入ろうとしていた敵も殆どアイツが倒したって聞かされて、正直、あの時は何も出来なかった自分が悔しくてたまらなかった」
地球では突っ走る卓也の後を、千早がゼィハァと追いかけてくるのだが、ここヴェクセリオでは反対に、どんどん力を発揮して先をゆく千早を、卓也が必死で追いかけている。
「5年前は確かに焦りもあったッすけど、今はもう全然。それどころか懐かしのボルヘザーク行きを楽しみにしてる」
卓也がキッパリ言い切ると、オーガンは卓也の瞳の奥に隠された本心を探るように覗き込んでいたが、フゥと息を吐き出し、バリバリと頭を掻いて苦笑した。
「おいおい。遊びに行くわけじゃあないんだぜ。・・・まあいいが。ん~じゃあお前の、その落ち着かせない何かの原因はなんだろうなー? やっぱりアレか? 治療院勤めのマリー」
「は?」
突然出てきたマリモの名前に、卓也はきょとんと目を点にする。頭上に浮かび上がるクウェスチョンマークに気がついたのか、オーガンもまた首を傾げた。
「違うのか? 俺はてっきり・・」
「いや! いやいやいやいや! ちょっと待って! 勝手に完結しないでくださいよ! ・・・えっと、マリモがどうしたって言うンすか?! つーか、何でアイツがここで出てくるのか、根本からして全っ然わかんねーんだけどッ!」
掻き付く勢いで身を乗り出すと、やや気圧されたオーガンは少しだけ後ろに身体を引いた。
「いや、あの・・だからな。・・・最近、治療院に若くて顔のいい男の魔術師が入って、マリーとずいぶん仲が良いと、ロドが騒いでいたモンでな。だからお前も気が気じゃないのかと・・」
「やめてくださいよ! オレとアイツはそんなんじゃないッす。・・つーかロドのヤツ、まだマリモのことが好きなンすね」
「・・・。懲りねーよな、アイツも」
ロドがマリモの大ファンだと言うことは、オーガン班全員・・いや、近衛隊のほぼ全体が知っているだろう。なぜなら、本人が人目もはばからず「好き」だと公言しているのと、以前にヤツが起こした騒動のせいだ。
ロドは治療院の真ん前で、肩膝をついて結婚してください! 返事をくれるまで何日でも通い続けます!・・てなことを公衆の面前で叫んだのだ。近衛に所属する貴族の子息が、異界の少女(外見は大人っぽくても、当時まだ10歳)相手にとち狂ったと、一時騒然となった。
「もう前みたいな騒ぎはゴメンだぞ。俺は」
直属の上司であるオーガンは上から注意を受けたらしい。当時を思い出し、ウンザリと吐き出す。それを聞いた卓也も同じく深いため息をついた。
「・・ま、ロドはともかく、オレは問題無しッす」
斜め上にある灰緑色の双眸をまっすぐに見つめながらキッパリ告げると、オーガンはその真意を読み取るように視線を合わせていたが、やがてふと目元を和らげると、そうかと言ってほんの少し笑った。
「悪かったな、変なことを訊いて。――――――さて、じきに朝飯だ。食いっぱぐれないうちに来いよ」
いつものようにグローブみたいな大きな手でワシワシと卓也の髪を掻き乱すと、オーガンは先に闘技場を後にした。
その後姿が見えなくなるまで見送った少年は、グシャグシャにされた髪を直しつつポツリと呟きをこぼした。
「焦ってる・・か」
誰もいない静かな闘技場で一人、年不相応に自嘲の笑みを浮かべた卓也は、いつの間にか明るくなった空を仰ぎ見、胸に溜め込んでいた息をゆっくりと吐き出した。
◇ ◆ ◇
本音を言うと、一瞬ドキッと心臓が鳴った。
オーガンの目は正確だ。卓也の中には確かに焦る気持ちがある。それはボルへザークでの出来事でもなければ、もちろんマリモのことでもない。
居ても立ってもいられずまだ暗い早朝から、やや過度な自主訓練に向かわせるほど卓也の頭の中を占領しているのは千早だ。
陽一朗や浩司とメシを食いながら話をしたのは、トリップした初日・・今週の初めだった。あれから数日、卓也はモヤモヤとした言い表しようのない気持ちでいる。
陽一朗も気がついていた、千早の危うさ。5年前、後先考えず全力で魔法を使い卓也を助けた行動は、一見すると大切な友人のために必死だったからだと言えるが、見方を変えてみると、自分の安全を放棄した無謀な行為であった。
この世界・・ヴェクセリオでは魔法はごく普通に、とても身近に存在している。それは不思議と、卓也たちの世界で多くの人々が接しているRPGゲームの中の設定とあまり変わらない。
日常生活から始まり、職種によって必要となる場合もあり、こちらの人々は古来より上手く魔法と共存し、そして次代へと繋ぎ続けてきた。もはや空気のごとくそこにあり、遺伝子レベルで浸透している。一部では特化する術種は血筋によって受け継がれるほどに。
魔法の威力は血脈、元から備わっている資質や鍛錬によって上がる熟練度で強弱が変わり、魔力の最大保有値も魔法を使うことで生じる衝撃や疲労に対する耐性を向上させることで、保持量を増やすことができる。
火や水、風、土、光や闇、空間さえも、自由・・とまではいかないもののそれなりに干渉できるが、体力(ゲームならHP)に限界があるよう、魔力(MP)にも限界がある。
よほどの例外を除けば、誰でも当然のように使える。だが、使うにも実は定期的に魔法庁への登録が必要なのだ。
数年に一度更新の通達があり、その都度みんな魔法庁へと赴く。検定項目は3つ。最大保有値、主に使用する法術、そのレベル。最後はリスクについての講習会。――――――早い話、地球での自動車免許の更新のようなものだ。
些か違う点を上げるのなら、下は幼年から上はよぼよぼのジィさんバァさんまで、年齢は関係ないということぐらいだろう。
かくいう五人組にも初めてトリップしてから2ヶ月ほどが経過した頃、当然検定の通知が来た。
その頃にはすでに魔法庁の師長・ログロワーズに目をつけられ、毎日のように庁舎に連行されていた千早はもちろん、自分の中に魔力の存在を薄っすらとはいえ感じ始めていたマリモ、当時身を置かせてもらっていた教会の菜園の手入れが楽しくて、魔法にまで興味が向かわない陽一朗、どうにかして帰る方法を見つけたいが、その取っ掛かりさえわからない浩司と卓也も、新規の登録のため検定を受けに行った。
さて、ここで一つ質問だ。魔法を統括する本部と聞いて、どんな雰囲気を想像するだろうか。
実際に通っていた千早を除く四人は、ゲームや物語で得た知識から魔法=暗い・黒い・陰湿っぽいイメージを持っていた。しかし、初めて目の当たりにした庁舎は3階建てほどの白壁で囲まれたスッキリとした建物で、ちょっと鉄筋コンクリート製の学校の校舎っぽいと思った。
町役場の住民課窓口のようなところで受付を済ますと、案内役を自ら買って出たらしいルカに先導され、魔力量や適正を調べてもらった結果、未知数の千早は論外としても、マリモの魔力はそこそこに高く、特に回復術に特化していると判明した。
陽一朗は土系。コチラも標準値をやや上回る数値をたたき出し、偶然更新に訪れていたダルバンの人々を驚かせていた。
浩司の魔力は陽一朗よりもかなり低く、火系であることがわかったものの、ランプに着火するのがせいぜいだと告げられガッカリと肩を落としていた。が、代わりにスキルをいろいろ持っているようなので、そちらを伸ばすことで自身のレベルアップが図れるだろうと言われると、単純にもあっさりと浮上していた。
そして卓也は・・・・・・・・・・・・ごく稀だとされる、魔力不保持者。マジックツールを身につけることはできるが、自分の意思で発動させることは難しいと告げられた。
「わ~ッ! すッ・・ごい久しぶりですね~。魔力ない人見るのー」
「ルカ。そのセリフは本人に聞こえないところで言いなさい」
とても珍しいものを見たみたいにはしゃぐルカと、相棒を諌めつつもその眼差しはとっても素直にルカと同じ気持ちだと語っているフォナ。
検査結果にへこむよりも、それほどまでに不保持者が珍しいと言う事実に、卓也は驚いた。
呆然と凸凹コンビのやり取りを見ていると、ショックを受けていると勘違いしたのか、千早をはじめ地球組みの四人が卓也を慰めだした。
「タ、タッちゃん・・・。大丈夫だよ。タッちゃんのことはボクが守るからねッ」
「魔法って言ったって、どうせこっちでしか使えないじゃないの」
「そうだな。卓也は運動神経が良いしケンカが強いから、魔法よりも武術とかどうだろうな」
「そうそう。異世界に来たからって魔法がすべてじゃねーよ! おれだって魔力じゃあ卓也とそう変わらないしな。・・でも、そっかースキルかー。なーヨウ、岡部ー、聞いてくれよー。おれさー『フェゼラルの指先』とか、めっちゃ細かいところまで見える『針端の瞳』とか言うスキルがあるんだってー。フェラゼルってこの世界の創造のカミ様の名前らしいんだー。なんだかよくわかんねーケド、すっげ~!」
千早、マリモ、陽一朗の三人が卓也に遠慮した言い方をする中で、浩司だけが喜びを隠しきれなかったのか、満面の笑みで報告し始めた。すると、
「浩司らしいじゃないか。お前、昔からプラモデルとか作ってたし、細かい作業が得意だものな」
「そうね。向いてるわ。あたしも魔力の方向性が回復系ってわかったから、治療院にでも就活に行こうと思うの。うふふ・・ホ〇ミとか〇ールを実際に使えるなんて、ちょっと夢みたいよねぇ」
「・・・」
「だよなー! ゲームの世界がまさに目の前に! ってな! ま~盛大な攻撃魔法とか使えないのはちょっと残念だけど、この際だから向こうでは味わえない非日常ってヤツを楽しまなっくっちゃなー」
「・・・」
わいわいと楽しげに話しだした三人に混ざれず、ただ黙って見つめる卓也に、千早はオロオロと精一杯のフォローを試みる。
「タッちゃん。あ、あのねっ、ボクはタッちゃんに魔力がなくてホッとしてるよ。だってね、魔法って確かに便利だけど、万能じゃないし危険もあるんだ。例えばね、魔力・・MPが一気に0になるほど過剰に使うと、命を落とすこともあるらしいんだよ。だから、結構加減が難しくって・・」
懸命に無くてよかったのだと言いたいようだが、一人置いてきぼりを食らわされて少々不貞腐れ気味になっていた卓也には、あまり効果は無かった。
「・・・チハ。それは、オレが魔力なんか持ってたら加減もできず、すぐにポックリ逝っちまう大バカ野郎だと言いたいのか?」
「ええっ! ち、違うよっ!」
「ンじゃあ、どういうつもりだっつーんだよ! おいっ、コラッ、てめぇ! チハ!」
「わ~~~ん! タッちゃ~ん。ごめんなさ~い。そんなつもりじゃなかったんだよ~」
謝る千早にヘッドロックを掛け、旋毛にグリグリと顎を押し付ける卓也の様子に、他の三人は大丈夫そうだと安心していた。
そんなこんなで登録を済ませた五人は、その後適正や興味を考慮しつつ、それぞれが仕事に就いた。
地球時間ではたったの1年と少し前のことだが、ヴェクセリオではもう10年以上・・12年も昔のことだ。
卓也は遠い目で当時を思い、ふと微苦笑を浮かべた。
誰にも言う気はないが、正直なところ魔力不保持者との判断結果は結構ショックだった・・・。
◇ ◆ ◇
週末。
地球と同じく、ここヴェクセリオでも一週間は七日で区切られており、『一の日』を『月曜日』と解釈するならば、週末『七の日』は『日曜日』に当てはまる。
七の日・・日曜日は休息の日として、ダルバンを含め世界のほとんどが休みを取っている。
ドンドンドンッ!
突然の荒々しいノックの音に、窓際で剣の手入れをしていた卓也は作業をやめ、腰を上げた。
国軍だろうが近衛だろうが、軍に籍を置かない一般の傭兵だって自分の得物は自分で手入れをし、自分で管理している。
「誰だ?」
ノブに手を掛け、ドア越しに訊ねる。
たとえ国軍の隊寮とはいえ、簡単に開錠しない。必ず相手を確認してからドアを開ける癖がついたのは、近衛隊に入隊し、荒っぽい先輩隊員たちに散々揉まれたからだろう。
「俺だ! タクヤ、開けてくれッ」
応えた声はいつも鍛錬場で耳にしている聞き飽きた声。・・・ロドだ。
やれやれと溜息を吐くと、卓也は剣をベッドに立てかけドアを開けた。
「なんだよ。ロド。お前が訪ねてくるなんて珍しいな」
卓也はロドを部屋の中には通さず、ドアの前で用件を聞こうと思った。が、ロドの用事は話だけではなかった。
「タクヤ。お前、どうせヒマだろ? これから買い物に行こうぜ!」
「は?」
「は? じゃねーよ! 週明けにはボルへザークに出立するじゃねーか。だから必要なものを買い揃えに・・」
買い揃えも何も、卓也は以前一度ボルへザークに行っているので、旅装一式はすでに揃っている。しかも卓也はヴェクセリオでは成長が止まっているかのように緩やかなので、今でも当時とサイズは変わらない。
まあ、地球の時間では数ヶ月しか経っていないから当然と言えば当然なのだが、内心は少々複雑ではある。
「あ―――・・オレはいいかなぁ。大体揃ってるし。野営になったときの兵食なんかは隊で用意してくれるしな」
正確には明日から、少なくとも3日は馬での移動となるため、できるだけ今日は休んで体力を温存しておきたい卓也は、ロドの誘いを断った。しかし近衛隊一しつこいと有名な男は、そう簡単には引き下がらなかった。
「い、いや、お前になくても・・あッ! そうだ! 俺! 俺の用意で足りないものがあるんだよ! 実は新しい外套が欲しくてさー。つ。ついでに、ホラッ、旅立ち前に治療院で健康診断とか受けておいた方がいいかなーとか? 向こうで急に具合が悪くなったら困るしー?」
顔を見たときからどうもソワソワしているようだと思っていたら、ロドの目的はどうやら買い物ではなく、ついでと言って付け足された場所のほうだ。
「ロド・・お前・・・」
「やッ! 違うぞ! マリーさんに会いたくて治療院へ行くわけじゃないぞ! 全然ッ、全然、新しく来た回復術師が気になってるんでもないからな!」
「・・・」
「ホ、ホントだぞ!」
そんな真っ赤な顔で言い訳じみたセリフを聞かされても、説得力はほぼ0だ。
これが日本でだったら、『ツンデレ男子』とか言って一部女子が騒がないでもないかもしれない。限りなくオレンジ色に近い茶色の短い髪に深いサファイア色の瞳、面立ちはそれなりに整っていて、卓也は詳しく知らないが、姉・芽衣がここにいたら「ジャ〇ーズの誰々に似てるー!」とはしゃぎそうなくらいにはカッコいいのに、中身が超絶残念。そして更に残念なことに、ここは異世界で、しかも今この場にはツンデレ男子に全く萌えない卓也しかいない。
ああ・・本当に残念だ。何よりも年齢的な問題で、コイツよりも格下の立場にいる自分がとても残念でならない卓也だった。
結局は押し切られて出かける羽目になり、先日浩司と話した、携帯サイズの保冷ボックスを思い出し、もしかしたら作ってみたかもしれないしな・・と無理やり用をこじつけた卓也は、引き摺られるように街へ下りた。それに、オーガンに聞いた例の若い男の回復術師というのもちょっとだけ見てみたい。
なんだかんだで、卓也も気にはなっているのだ。
まずはロドの用事から。新しい外套がほしいと卓也に言った手前、一番最初に訪れたのは彼が贔屓にしている仕立て屋。外観からして一般庶民には手が届かないような、高級感漂わせるシックでモダンな佇まいの店だ。
到着した途端、卓也は「ゲ」ともらして二の足を踏んだが、ロドは何の躊躇もなくドアを叩いた。
「いらっしゃいませ」
「主はいるか? ロドリュー・ワグナーが来たと伝えてくれ」
笑顔で出迎えた店員らしき若い男に、ロドは尊大な態度で店主を呼ぶよう伝える。すると、名前を聞いた店員は「ただいま!」と慌てて奥へと引っ込むと、バックヤードで何かをひっくり返したのか、ガシャ―――ン! と派手な音が店まで響いた。
「おお・・、これはこれは。ワグナー伯爵のご次男、ロドリュー様。わざわざお御足を運びいただきまして、恐れ多いことです」
間もなくしてポッテリとしたお腹を揺すっていそいそと出て来たのは、四十代半ばほどの店主らしき男。ニコニコと人の良さげなエビス顔で、来店の目的を訊ねた。
「それで? 本日はどのようなご依頼でいらっしゃいますかな?」
「今日は新しく外套が欲しくてな。何か良い品は入っているか?」
「外套・・でございますか? 一から誂えるのではなく、既成品をお求めに?」
「ああ、時間がないんだ。明日から地方へ出向でな。長期ではないから、とりあえず間に合わせでいい。これはと思うものを幾つか見せてくれ」
「かしこまりました」
恭しく頭を下げて奥へと品物を取りに引っ込んだ店主から、ロドは自分の後ろでずっと黙ったままでおとなしい卓也へ視線を移した。
バチッと目が合う。途端フフンと鼻で笑い、腰に手を当てニヤリと口角を持ち上げたロドがやけに小憎たらしく映り、卓也はあえて無表情をつくろった。
「どうだ。タクヤも俺を尊敬したくなっただろう?」
その態度が無性にムカつく。が、表に出したらなんだか負けのような気がして、内心のイライラは隠して初めて知ったことを質問した。
「ロドんちって伯爵だったんだ?」
「はぁ?」
予想だにしないことを訊かれたようで、ロドはポカンと口を開けた。
「お、おま・・知らなかったのか?」
ワグナーと言えば王都の北に位置するシェントの東側、鉄をはじめ数種の鉱物が採掘できる鉱山と、更には掘り出した鉄鋼で作られる武器防具はかなり有名で、中には考えられないような値がついている逸品もあるらしい。戦神レーレンの懐刀と呼ばれるシェントが武勲を挙げる影には、隣に居並ぶワグナーの存在無くしては考えられないとのことだ。
ツバを飛ばす勢いで説明されたが、結局はよくわからず首を傾げると、ロドは額を押さえ大仰に溜息を吐いた。
「そうだった・・・。お前、異世界人だったっけなぁ~。なんか馴染み過ぎてて忘れちまうんだよ」
「馴染んでるのは仕方ないだろ。10年以上ここにいるんだから。だけど、自分が籍を置いている場所以外はまだ良くわからないことが多いんだ。多分オレだけじゃないと思うけど。マリモだって、魔法庁にいるチハだってきっと全部を知ってるわけじゃない」
「え! いや! マリーさんは・・・いいんだよ! 何にも知らなくても。・・いや、何にも知らず、それでもありのままの、ただの俺を選んでほしいって言うか、その・・」
マリモの名前が出た途端にしどろもどろになったロドに、今度は卓也が嘆息する番だった。
「・・・どうかなさったので?」
奥から戻ってきていた店主に遠慮がちに声を掛けられ、気付いていなかった二人は一瞬ドキッと心臓を打ち鳴らしたが、さすが伯爵子息! ロドは瞬時に平静を装うと、店主が両腕に掛けて持ってきた三枚の外套へと目を向けた。
「ああっ、こ、これが良さそうだなッ? なぁ、タクヤ!」
彼が選んだのは群青色よりもやや青が鮮やかで、見た目柔らかそうで温かそうな、高級感漂う一品だ。
天然の毛織100%ってカンジ。地球で言うならカシミヤってトコだろうか。
「おおお・・さすがワグナー様がご子息! 目の付け所が違いますなぁ。これはかの希少動物うんたらかんたら・・・」
長々と高説が始まってしまい、早々に卓也はスルーを決め込んだ。とっつかまったロドを視界の端に、店内をキョロキョロと見回すが、とにかく近衛の見習い如きに買えるような物など一つも見当たらない品揃えにウンザリとし、早くも飽きて時間を持て余してしまった。
仕方無しに店の表で待っていると耳打ちして外に出ると、思いのほかロドもすぐに出てきた。
「悪い。待たせたな」
「もういいのか?」
「ああ。予定が詰まっていると言って逃げてきた。ここの主人の話をまともに聞いていたら、明日の朝になっちまう」
逃げられるのなら、もっと早く逃げて来いと言いたくなった気持ちはグッと飲み込み、歩き出したロドに並ぶ。
とりあえず外套を購入したロドにつれられて次に訪れたのは彼の真の目的地、治療院だ。しかもキッチリ調査済みらしく、今日はマリモの出勤日。
初めて訪れたわけではないが、いつ来ても丸太を組んで造ったログハウスのようなこじんまりとした建物は、どこか温か味を感じさせる。
せっかくほっこりと癒されているところへ、到着早々、窓からコソコソと中を窺う情けない同僚の後姿に、卓也は先ほどの店で目の当たりにした伯爵子息たる堂々としていた態度と比べてしまい、なんだか涙が出てきそうになってしまった。
いつまでも窓に張り付いて治療院を覗き見ているロドを放ってさっさとドアを開けた卓也は、ベルのチリンチリンと言う音に気づいて奥からひょっこりと顔を出したマリモに、片手を軽く上げただけの挨拶を送った。
マリモはマリモでヒラヒラと手を振り返し、パクパクと声に出さずに「待ってて」と合図を寄越したが、卓也の後ろにいるロドに気がつくと急に頬をピシリと強張らせ、苦笑いを残してまた奥に戻っていった。
「おいッ、ずるいぞ」
知らないうちに隣にいたロドが嫉妬と羨望のまなざしを向けてくるが、生まれたときからの幼馴染で、何もかもをお互いに知り尽くしている相手に恋愛の感情など湧くはずもない。
最近はやりの漫画やラノベじゃあるまいし、黒歴史すらも知っている相手を恋人に選ぶ趣味は卓也にはなかった。
「今日は二人してどうしたの?」
患者らしき腰の曲がった老女と、それに付き添う娘らしき中年女性が治療室から出てくる。彼女らを見送るために一緒に出てきたマリモは、二人が玄関を出てゆくとクルリと卓也たちに振り返った。
途端ロドの瞳がきらめき、首から上が真っ赤に染まる。
普段は教会のシスターたちと同じ修道服を身に着けているが、やはり仕事のときは動きやすいからなのか、今はごく普通の一般的な平服・・クリーム色の長袖Tシャツのような上衣に紺の長めのスカート、白い質素なエプロンをしているだけ。長い髪もふんわりとポニーテールにしている。だけどきっとロドの目にはどんな着飾った貴婦人よりも、マリモがキラキラと輝いて映っているんだろう。・・・ケッ!
「明日から遠出するんで、健康診断」
「明日から・・ああ、浩司クンが言ってた出張ね」
「出向」
言い直すと、ハイハイとあしらわれた。
「まあタイミング的にはちょうど良かったわ。不思議と今日は来院者が少ない上に、さっきのおじいちゃんで午前の患者さんは終わったのよ。さ、中に入って」
う~ん、先ほどの老人は男だったのか。シワクチャだとわかり辛いもんだと一人頷いている卓也に、マリモが不思議顔で首を傾げつつ、早く入りなさいと急かしてくる。
マリモの前ではカチコチで一言も喋らないロドの背中を押し、卓也は治療室に入った。
元の世界で掛かりつけになっている小さな医院はいつも消毒薬の独特なニオイがしていたが、この診療所は薬草のニオイが染み付いている。
初めの頃はこの漢方薬を煎じたみたいなニオイが苦手だったが、さすがにこれだけ長くいると、その二オイの元の薬草のお世話になることもあったし、いい加減慣れてもくる。
今ではマリモのニオイとしてインプットされているくらいだ。
「おや、午前中の受付はもう終わったんじゃなかったのかい?」
部屋の中では長い金髪を一つに結わえた、見覚えのない男が片付けをしていた。
「うん。でもこの二人はいいの。あたしが診るし」
男の問いににこやかに答えるマリモと、どこからかギリギリと聞こえてくる歯軋り。卓也は隣から漂ってくる不穏なオーラを感じ、本音ではどうでもいいことを訊いた。
「彼が新しく入った回復術師か?」
「あれ? 卓也に話したっけ?」
きょとんと目を丸くしたマリモに首を横に振って、情報源はオーガンだと告げる。
「そういえばこの前、近衛隊の患者さんが来たわ。多分別の班の人だと思うけど」
王城の近辺ならびに城下町が三番隊長オーガンの管轄なら、二番隊長は直系の王族以外の要人の警護と、王城内の治安維持。それぞれに制服の配色が違う。微々たるものだが。
ちなみに一番隊は精鋭揃いのエリートの集団で、別名『親衛隊』。主な仕事は直系王族の方々の警護だ。
「とりあえず紹介しとくわね。こちらセオさん。かなりの高魔力保持者で、医療に関してもとても博識なの。セオさん。こっちの黒髪黒目の子どもっぽいのが卓也。あたしと同郷・・異世界から来たの。で、そちらは近衛隊隊員のロドリューさん」
「ヨロシク。卓也・青山です。オレも近衛隊員です」
「こちらこそ、よろしくお願いします。セオと呼んで下さい。・・・そうですか。アナタが・・」
「?」
「よろしく・・・」
少々意味深なれど、笑顔で挨拶を交わす卓也とセオの二人を、ジト・・と睨むように見下ろすロド。
なんとなく居心地の悪い雰囲気を振り払いたい卓也は、慌ててマリモに健康診断を始めてくれるように急かした。
「そ、そうね。じゃあ・・ロドリューさんから? どうぞこちらに。椅子に座ってくださいね」
「ハッ、ハヒッ!」
呼ばれると同時に直立不動状態のロドをなんとか誘導し、木製の丸椅子に座らせたマリモは彼の両手を取り、目を瞑るよう指示した。
「ではゆっくりと息を吸って~。ゆっくりですよ。ゆ~っくり。・・そう、ゆ~っくり。・・はい・・今度は吐いてください・・。もう一度・・・吸って~・・吐いて~・・」
穏やかなマリモの声にあわせ、はじめは荒かったロドの呼吸が次第に落ち着いてゆく。ロドの胸がゆっくりと膨らんでは、ゆっくりと萎む。
何をしているのかさっぱりわからなかった卓也は、隣にいるセオに訊ねた。
「ロドリューさんは一般的標準程度の魔力をお持ちでしょう。ですから、ああやって体内を循環しているエネルギーの流れを整えているんです」
「魔力を?」
「はい。タクヤさんは魔力をお持ちではないんですね。なら、わからなくて当然です。そうですねぇ・・別のもので説明するのなら、同じ体内を巡るもの、血流・・に例えたらおわかりいただけますか?」
血流ならわかると頷く。すると、セオはまるで小学校の先生のように優しげな笑顔で、生徒が理解しやすいように噛み砕いて説明してくれた。
「魔力も血液と同じく体内を常に巡っているものなのです。しかしその流れが、肉体的疲労や精神的なダメージ、その他諸々によってひどく乱れるときがある。早くなったり、逆に滞ったり・・とにかく正常ではなくなるんです。すると、体のあちこちや気持ちに不調が現れる」
フムフムと聞きながら、卓也は頭の中で一つの例題をあげ、重ねてみていた。
例に挙げられたのは卓也の父親。まだ四十代半ばのはずなのに、かなり頭部が寂しくなっている。本人曰く、奥さん・・いわゆる卓也の母親とは同じ高校の先輩後輩関係(母の方が先輩だそうだ)から続いている仲なので、未だ頭が上がらない。そのせいか時々ストレスが溜まり、結果血流も悪くなり、一本・・一本・・と大切な何かが抜け落ちてゆくのだと諦めたように笑っていた。
「う~ん・・恐るべし! ストレスッ」
無意識に呟いた言葉を聞き拾ったらしいセオだが、ストレスが何かまでは知らないようだ。僅かに首を傾けて卓也を見ていた。
「いや、コッチの話。だけどアレ、オレは関係ないっすよね」
魔力が無いしと言う前に、セオは頷く。
「はい。なのでタクヤさんは普通の検診をしましょう。ワタシが診てもよろしいですか?」
「ああ、お願いします。それと、オレのことは"タクヤ"でいいッすよ」
気さくでおっとりとしたセオと打ち解け、一通り調べてもらった卓也は健康状態◎。タクヤの診断が終わるころにはロドのほうも終わり、二人揃って良好とのお墨付きをもらった。
「いーい、卓也。アンタは無茶しがちなんだから、くれぐれも気をつけなさいね」
「そうだよ。どんなに腕が立っても、過信はいけないよ。まずは自身の安全を一番に考えて」
11歳の平均身長と比較すれば十分に高いほうなのだが、ヴェクセリオでは常に大人に囲まれた生活環境なうえ、現在隣にいるのが大人の体つきをしているロドだからか、子どもに聞かせるような言い方をされた。
マリモとは同い年なのに上から目線で注意され、卓也はちょっと面白くない。ぶすっと不貞腐れておざなりに返事をすれば、今度はマリモ命のロドに睨まれた。
「お前! せっかくマリーさんが気に掛けてくれてるって言うのに、態度悪いぞ! ね、マリーさん。タクヤに言ってもどうせ聞かないんですから、俺に! 是非っ俺に餞のお言葉を!」
「あー・・えーっと・・、お気をつけて?」
「ハッ! ハイィィィィィィィィィッ!!! このロドリュー・ワグナー、命に代えましてもマリーさんの温かいお言葉を守り、必ずや元気に生還いたします!」
メッチャ矛盾。
ドン引きのマリモの手をガッシリと握り、真っ赤な顔で感動の涙を流す恥ずかしい同僚の姿をこれ以上見ていられなくて、卓也は彼の後ろ襟をつかむと、ズルズルと強引に引き摺って治療院を後にした。
「タクヤ・アオヤマ。・・・やはり彼だったか」
マリモが治療院の中に戻っても、いつまでも二人が去った方向をボンヤリと見つめていたセオは、誰に聞かせる訳でない意味深な呟きを、先刻までとは打って変わった暗い表情で、ポツリとこぼした。
「まだ少年の身に・・・。運命とはなんて過酷なんだ・・・」
◇ ◆ ◇
出立の朝は早い。
「~~~ぅふぁ。何もこんなに朝早くなくても・・」
馬上であくびを噛み殺したロドが、ボソッと独り言をこぼす。すると、ロドよりも前で馬に跨っているディランにまで届いたらしく、三人の中で一番の年長者はあきれた顔で振り返った。
「いい加減に目を覚ませ。デカい口なんか開けてると、街の人に笑われるぞ」
「人なんていませんよー。まだこんな、朝日も顔を出してない時間じゃあ・・」
「まったく・・。タクヤはしっかリと起きてると言うのに」
前方でやいのやいのと言い合う二人を放って、卓也は一番後方でやはり同じように馬に揺られながら、朝焼けに白く浮かび上がりつつある街の様子を眺めていた。
今朝はうっすらと霧も出ていて、やけに幻想的だ。洋風の、年季の入った木の壁や赤いレンガがほのかに霞み、卓也の知る日本の景色とは違う趣に目を奪われていた。
「タクヤ。大丈夫か? まさかお前まで寝てるんじゃないだろうな?」
「ディランさん! 俺は寝てないッすよ!」
ボンヤリとしていた卓也に掛けたディランのセリフに、ロドが即座に反論する。
いつでもどこでもこの騒ぎなのかと思うと先が思いやられるが、仕事とはいえ久々の遠出に、卓也も少しワクワクと気持ちが弾んでいた。
すっかり陽が姿を現しきった頃、三人は街を抜けて王都・ナダフのはずれ、隣り合わせたウォーノ領の端・セシリアコットーと言う小さな町との境近くまで来ていた。
領境になるクミュ川。そこに架かる石橋に差し掛かったとき、卓也は聞き覚えのある声に呼び止められた。
「卓也」
「へ? ・・あれ? ヨウ。どうしたんだ、こんな朝早く。こんな所で」
飽きるほどずっと一緒にいる幼馴染の登場に、卓也は驚き目を丸くした。陽一朗はといえば卓也の驚いた顔を見られて満足なのか、いつもの柔和なニコニコ笑顔を更に笑み崩し、川沿いに停めてあった馬車の御者台から降りてきた。
「おはようございます。ディランさん。ロドリューさん」
「おはよう。ヨウイチロウもずいぶんと早いな。タクヤの見送りか?」
挨拶を返し、訊ねてきたディランに陽一朗はそうだと頷いた。
卓也が近衛軍三番隊の見習いになってから早12年。その間毎年のように新人が入隊しては1年間の見習い期間を経て、正規の隊員へと登用されてきた。
その中にはもちろん6年前に入隊したディランと3年前に入ったロドも含まれ、異世界トリップの仲間たちは当時から卓也の友人として面識があった。
「卓也、これ。先週『仔羊のしっぽ亭』で飲んだものと同じジュース。朝一で収穫して絞ったものを、浩司特製の水筒に入れてきたんだ。はい。もしよければディランさんたちも・・」
馬車の荷台から3本の水筒を取り出し、馬に跨ったままの三人へ差し出す。中身を良く知る卓也はもちろん、あとの二人も快く受け取った。
「サンキュー! 浩司にもよろしく言っておいてくれ」
「わかった。必ず伝えるよ。卓也も無理はするな」
昨日会ったばかりの浩司へのお礼を陽一朗に預け、代わりに頂戴してしまった注意を素直に受け取ると、「いってきます」と手を振り卓也たちは石橋を渡った。
これからは暫く広々とした景色が続く。王都と川を挟んで隣り合ったここウォーノ領は、幾箇所も幅が広く頑丈な橋でナダフと繋ぎ合い、そして橋の周囲は宿屋や商店、市が立ち並び、常に人で賑わっている。
あえて人通りの少ない、幅の狭い小さな橋を選んだのには訳があり、その理由は橋に通じる道が狭いうえ、建物も少なく、閑散としているからだ。
遠慮なく馬を駆ることができる。
「よし、そろそろ馬を走らせるぞ。・・はっ!」
今回のリーダーであるディランの声に続いて、ロドと卓也も馬を走らせる。
ダダッ ダダッ ダダッ ダダッ
テンポの良い馬の蹄の音と、髪や頬に当たる風が気持ち良い。
速い速度で景色が後方へと流れ、見る見るうちに風景が変わってゆくのが面白い。
人馬ともに呼吸を合わせて駆ける爽快さが、卓也はとても好きなのだ。
2時間ほども走ったころ、ディランの合図で三人は馬を止めた。
場所はセシリアコットーをとうに抜け、だだっ広い農園ばかりのアルを大分進んだあたり。。この辺は元農地ばかりで、残念ながら今現在は、人の姿や整地された田畑の様子を見ることはできず、草だらけの荒地や崩れかけた民家と思しき建物以外にはない。
ここがただの荒地に変貌してしまった一番の原因は、『地震』だ。まだ卓也たちがヴェクセリオへトリップしたばかりの頃、この世界全体はよく原因不明の地震に見舞われていた。
陽一朗が推測するには、度重なる揺れのせいで深い位置に溜まっていた地下水が上がり、土壌のPhを変えてしまったのではないかと言う。
卓也たち五人が世界を渡るようになった頃から次第と揺れの回数や大きさが縮小し、最近では全く起こらなくなった。
時期が重なるのが少し気になると、前に陽一朗が眉間にシワを寄せて唸っていたのを覚えている。
「少し休憩しよう。馬にも水を」
馬を下りて近くの気に手綱を結ぶと、ディランは木陰に腰を下ろした。
卓也は馬に括られている荷から小振りの桶のようなものを取り出すと、それをロドの前に差し出す。すると彼は桶の上に手のひらを翳し、ぼそぼそと呪文らしきものを唱えた。
「おお~? ・・おお~ッ!」
卓也の腕に徐々に重みがかかってゆく。覗き込めば、桶の底からまるで湧き出すように水が溢れ、今にも桶の縁を越えて外へと流れ出てしまいそうなくらい、なみなみと満たされた。
「いつ見てもすげぇなー」
意外にもロドの魔法属性は『水』に特化している。こうして外にいるとき、近くに川がない場合は水魔法を使える隊員が力を振るうのが当然なのだ。
付け加えるならばディランの属性は『風』らしいのだが、今のところ卓也には風属性の利便性は良くわからない。
「ざっとこんなもんだ!」
へっへ~ん! と胸を張るロドへ、賞賛のまなざしを送る。
ディランの馬・シェスカ嬢の前に桶を置く。カノジョがノドを潤し始めたのを目の当たりにすると、ロドと卓也の馬も騒ぎ出した。
「順番だ。じゅ・ん・ば・ん! もうちょっと待ってろ。すぐにオェッて程飲ませてやるから」
渇きに苛立つ二頭の体を拭ってやりながら、宥めるように鞍の上からその背を叩いてやる。
「おい、お前たち。馬も大事だが、自分たちの休息と水分の補給も忘れるな」
「はーい。つか、ディランさん。今夜の宿はどうするんですか?」
ロドが陽一朗に渡された水筒のふたを開けながら、今夜の宿泊場所を訊ねる。まだ出発して間もないのに、気が早いにも程がある。
「ロド、任務中は私のことを班長と呼べ。・・今夜の宿か? 日が暮れる前までにどれだけ距離を稼げるかによるな。進みが悪く、何にもない場所で暗くなってしまったら、仕方が無いが野営になるだろう。なあ? タクヤは前回ボルへザークへ出向したとき、どうだった?」
「前回? う~ん、どうだったっけかー。多分・・1日目の夜はどっかの屋敷に泊めてもらったんだ。確かもっと先の方にサボテンに似た植物の畑があって、その畑の持ち主が招待してくれた」
卓也は腕組みをして、必死に5年前の記憶を引っ張り出した。
うろ覚えながらも思い出して説明すると、二人は「さぼてん?」と首を傾げた。
この世界に始めてトリップした12年前、どんな仕組みなのかはわからないが、はじめから言葉が通じていたため会話の苦労はなかった。しかし時折単語に齟齬が生じ、こんな風に説明を必要とすることがあった。
だから今回も、卓也は精一杯の知り得る言葉と手振り、それと木の棒で地面に絵を描くことで「サボテン」がどんなものかを話すと、ディランは思い当たるものがあったらしく、ポンと手を打った。
「ああ、それはきっとエリリエだ。薬草の一種だな。タクヤが言うようなトゲは無いけれど、水分をふんだんに含んだ、人の顔ほどもある大きくて丸い葉が特徴だ。厚ぼったい葉を薄くスライスして布に貼り付けて使う・・・と聞いたことがある。打ち身や疲労痛に効果があるらしい」
ディランの説明からアロエを思い浮かべ、いわゆるシップ的用途なんだと卓也は認識した。
その他には軽いヤケドや皮膚炎にもいいとか、種類によっては食用もあるなど、30分足らずの休憩時間中、ずっとエリリエについての知識を語り続けていた。
早々と飽きてしまったロドは、馬の世話を理由にそそくさと場を離れてしまったが、卓也はウッカリ逃げそびれ、休みを薀蓄でつぶされてしまった。
「さあ、そろそろ行こう」
支度を整え再び馬に跨った三人は、とりあえず5年前に卓也が通った順路をたどるつもりで、馬首をアルの先・・テンソバに向けた。
2時間ほど走らせては休み、また走っては休みを繰り返し、日暮れ時には予定していたエリリエが特産だった村に到着した。
「確か・・・公道をそれて防風林沿いに暫く行くと、左手に広いサボ・・エリリエ畑が広がって、その向こうに村長でもある畑の持ち主の家があったんだ」
不思議なもので、口で説明している時には思い出せなかったことも、近くまで来るとどんどん当時の風景が頭の中に鮮明に甦ってくる。5年前とは些か季節が違うし畑だった場所はただの野原になってしまっているけれど、確かにあの時通った道だと断言できる。
あぜ道のように狭い道をポクポクと進む。左にゆるくカーブした先には大きな森があり、森の手前には平均的一般の民家よりもやや大きい二階建ての木造家屋が建っていた。
しかしところどころ外壁は傷み、空が薄暗くなってきたにもかかわらず明かりの点された窓の一つも見当たらない。カーテンも開けっ放しになっている。
どうやら現在人は住んでいないらしい。空き家のようだ。
卓也たちは空っぽの厩らしき掘っ立て小屋に馬をつなぐと、表玄関と勝手口のドアを確認した。
鍵がかかっている。
「どうしますか? ディ・・班長。このまま外で夜営の準備をするか、それとも鍵を壊して中で休みますか?」
ロドの問いにう~んと唸ったディランは、すぐに鍵を壊すほうを選択した。
「最近このあたりは物騒だからな。用心のため中に入らせてもらおう。ロド、鍵を壊せ。なるべく丁寧にだ。タクヤは私と一緒に厩へ。馬から荷物を下ろしたら厩全体に結界を張る」
テキパキと指示を出すディランに頷き、それぞれが作業に移る。せかせかと早足で厩に向かう彼の後を追いながら、卓也はふと疑問に思ったことを訊いてみた。
「なあ、ディラン。馬たちを守るのならシールド魔法じゃないのか? なんで結界?」
卓也が魔力の不保持者だと知っているディランは一つ首肯し、ちょうど着いた厩で手早く荷を降ろしながら、理由を説明してくれた。
「確かに敵と戦っているとき、物理的攻撃・魔法攻撃のどちらを跳ね返すにしても、きっと使うのはシールド・・盾だ。だが今は戦闘中ではないし、敵が必ず襲ってくる確証もない。もし襲って来たにしてもどこから来るかわからない。だから厩の側面だけでなく、上空も地面の下も後ろ側もすべてすっぽりと覆ってしまったほうがいいと思ったんだ」
「すっぽりと・・」
はっきりとしたイメージが湧かず、難しい顔で考え込んだ卓也をクスリと笑ったディランは、見たほうが早いと言って、さっさと作業を終えるように促した。
「荷物と一緒に少し離れていろ」
荷を降ろして身軽になった馬たちに、水とギュウゥゥゥゥゥッと圧縮して荒縄で巻いて持参してきた干草を解いて置いてやり、卓也は言われたとおり厩から離れる。するとさっきのロドと同じように何かを唱え始めた。
ピ―――・・と耳鳴りがして一瞬コメカミが痛んだ。ぎゅっと閉じた瞼を開けると、微苦笑を浮かべたディランが卓也に結界を張り終えたことを教えた。
「目には見えないだろうが、球体型の風の層で取り囲んである。これで結界に触れる者が現れればすぐにわかるし、厩舎へ近付いてきても馬には指一本触れられない」
風? 空気の結界なら簡単に侵入できてしまうのではないかと思い、試しに手を伸ばしてみる。しかし卓也の指先は厩の柱には届かず、手前で透き通った何かに阻まれてしまった。
不思議だ。物理的に存在している物とは違う、温度を感じない、感触もあいまい。だけど確実に存在している薄い壁。
「いつまでも触っていないで行くぞ。今頃ロドが先に中に入って待ってるだろう」
ディランは自分の貴重品と食料、寝袋など使用するものを担ぐと、先に歩き出す。卓也も慌てて自分とロドの二人分の荷物を担ぎ上げると、その後ろを追った。
「ディランは普段、あんまり魔法って使わないよな?」
なんとなく疑問に思い、今は上司となったかつての見習い仲間に訊ねた。
10年以上も見習いをしている卓也にとって、今ではオーガン班の半分ほどが、共に下っ端時代を過ごした仲間だ。あのエドガーだって卓也が入った年に同時に入隊した見習いの一人だった。それが今では副長にまで出世しているのだから感慨深い。
正規の隊員でも元・見習い仲間でも、彼らの成長を同じ視線の高さと一番近い距離で見てきた卓也には、ある種、弟の成長を見守る兄貴の気持ちにも似た感動があるのだ。
「ああ。すぐに魔法に頼る癖をつけると剣の腕が上がらないからな。タクヤは知らないかもしれないが、魔法を日常の集団訓練中に大々的に使用するのは禁じられているんだ。もちろんケガをしたときの回復術までは止められていないけど」
だけど個々それぞれに皆、魔法の修練はしているものだと言われ、へぇ~・・と感心して聞いていた。が、玄関を開けた途端に飛び込んできた光景に、"皆んな"と言うのは少々誤りなのではないかと疑った。
「なんだ・・これ?」
呆然と床に目を落とす二人。ディランが確かめるように片足を少しだけ持ち上げ、再びおろす。現実だと知らしめるように、パシャ・・と水音が足元から聞こえてきた。
「・・・」
床一面、水で満たされていた。
奥からは慌てふためくロドの叫びが響いてくる。
「・・・アイツは何をしているんだ」
「いや・・ロドに関しては、トラブルに見舞われるのが通常だから。オレたちが忘れて油断してたのが悪いから」
今日はいつも以上に早起き(卓也は普段どおりだが)し、一日中馬で駆け、疲れきってやっと休める場所に着いたと思ったらコレだ。
ディランは額を押さえ、次には眉間に刻まれたシワをグリグリと伸ばした。
「タクヤはキッチンのほうを見てきてくれ。竈に火が熾せそうなら頼む」
「了解」
額の端に青筋を浮かべたディランに逆らうつもりは毛頭無い卓也は、そそくさと左の部屋へと向かった。
「あ! ディ・・班長! すみませんッ。浴室にバスタブがあったから。・・今日は疲れたし、ゆっくり湯に浸かりたいなーと思って魔法で水を張ってたら、きゅ、急に底が抜けてバシャア―――ッて!」
水の出所を突き止めると、貴族の屋敷でもないのに珍しく浴室らしき部屋があり、木製の風呂桶とその前にしゃがみこむロドの姿を見つけた。
余程パニックだったのか、開いた穴を手で塞ごうと前のめりに両手を突っ込んでいる。
「は、班・・長?」
「・・・・・・」
恐る恐るディランを見上げていたロドだが、ディランが魔法で水を蒸発させるよう指示を出すと、パチクリと目を見開きポンと手を打った。
すぐに呪文を唱え始め、瞬く間に床を浸す水が引いてゆく。すっかり蒸発しきって乾いた板の間に戻すと、ロドはホッと息を吐き出し直後に状況を思い出した。
そうっと後ろを振り返る。
「・・・」
「・・・」
「けっこう生活必需品が揃ってるな。お~、皿は割れずに残ってるか」
広いダイニングテーブルを見つけてその上に荷物を降ろすと、卓也は食器棚と思われる棚を物色していた。
キッチン隣の半地下の食物庫は確認したけど中は空っぽで、竈の横に置いてあった石の櫃の中から数種のナッツを確保できたが、他にはコレと言った食料はないようだ。
「やっぱ何も無えよなー。今夜は持参してきた干し肉と、乾燥野菜と麦(正確にはよく似た穀類だけど)のスープってところかな」
卓也をはじめ地球人五人組みは、ヴェクセリオに渡ったことで強制的に自立を強いられた結果、通知表の家庭科の成績で【5】をもらえるほどには料理ができるようになっている。
棚の奥にしまわれていた鍋の類を引っ張り出してみていると、壁の向こうの更に向こうからロドの断末魔が聞こえてきた。
きっとディランの制裁が入ったのだろう。
「・・・アイツって全然変わらねー」
もしかしたら自分よりも成長してないのではないかと、ひそかに友人の心配をする卓也だった。
◇ ◆ ◇
翌朝も前日の朝と同じくらいの時間に起き、早めに身支度を整えて空き家を後にした。一日目と同様、馬を走らせては休みを繰り返して順調に距離を稼ぎ、アル、テンソバ、ジェンツを駆け抜け、夕暮れ時にはボルへザーク領との領境フルトレートの端にまで到達した。
「街からは大分離れているし、見たところ泊めてもらえそうな民家も無い。幸いにも今夜は晴れのようだし、野営に決定だな」
ディランの言葉に、大方の予想はついていた卓也と違い、ロドはがっくりと肩を落とした。
「外か・・・」
「心配するなよ。ロド。お前が寝るときはちゃんとロープで括っておいてやるから」
本気と冗談を半分半分に卓也がそう言うと、100%本気の目をしたディランが深く頷いた。
ロドはあからさまに嫌な顔をし、寝相の心配をしているわけじゃないと噛み付いてきた。
「どんどんボルへザークに近付いているのに、外でなんてゆっくり休めないじゃないか。寝てる間に『歪』が現れたり、おかしくなった獣が襲ってきたりしたら怖いだろッ!」
「「・・・」」
言い切ったロドを前に無言の二人だったが、卓也はその場にコメカミをひくつかせたディランを残し、さっさと野営の準備に取り掛かった。
隊長はちゃんと任務を説明したのか? 彼は出向の目的をちゃんと把握しているのだろうか?
卓也の背後から、今回の旅二度目のロドの断末魔が聞こえてきた。
パチッ・・ パシッ・・ パチチッ・・
リ・・ キリリリ・・ キリリリ・・
薪の爆ぜる音と虫の声、枝葉が夜風にさざめき闇に響く。星と月がわずかに照らすだけの暗い景色は、一般的に田舎と呼ばれる卓也たちの故郷にとてもよく似ている気がして、まだヴェクセリオに渡って数日しか経っていないと言うのに、もう地球が懐かしい。
焚き火に朱く浮かび上がる少年の手が、明るいうちに拾って置かれていた枯れ枝に伸ばされ、掴んだ数本を燃え上がる炎に放り込む。一瞬キラキラと細かな光の粒が舞い上がったが、すぐに燃え尽き消えてしまった。
夜営のときはこうして、見張りのための光源と獣避けのために夜通し火を焚き続けるが、真夏では無いとはいえ寒い季節でもない現在、火の番はそれなりに大変だ。
まあ、日本は今夏休みの真っ最中だから、ここが地球じゃなくて良かったと喜ぶべきなのだろう。熱帯夜に焚き火だけは勘弁してほしい。
卓也は焚き火のカゲロウで揺れる向かい側のディランと、右側で丸くなっているロドを順に眺めた。
よほど疲れているのだろう。二人は前日と代わり映えの無い食事の後いそいそと場所を確保すると、一番下っ端の卓也に見張りを頼み、とっとと外套を掛け布団にして眠ってしまった。
ぐっすりと眠り込むヤツらに些か腹が立つ。見習いと言えど卓也のほうが隊歴は長く、先輩と言う立場のはずだ。なのに遠慮のカケラもなく熟睡している二人が正直なところムカつく。
だけどこんなにも無防備に寝顔をさらされると、信頼されているんだと実感してちょっと面映い。
ちなみにロドは念のために、ディランのかけた結界の中で休んでいる。コレできっと卓也が万が一居眠りしてしまっても、真夜中のロド失踪事件にはならないだろう。
パチッ・・ パチ・・
静かだ。
卓也が住んでいる王都の賑やかな雰囲気も好きだが、枝葉の揺れる音が優しい夜の静けさも悪くない。目を閉じて、澄んだ大気の流れを堪能していた。
一番に異変に気がついたのは、馬たちだった。
フルルッと鼻をならし怯える彼女たちは、地面に蹄を打ち付けて卓也たちを呼んでいる。
「来たか・・」
「ああ」
音を立てないように上体を起こしたディランが低めた声で呟き、卓也がそれに応える。
ビリビリと神経を集中させ、周囲の気配をたどる。左手に置いていた剣に手を伸ばし、いつでも抜刀できるように体勢をとる。
ざわざわと木々が騒ぎ、枯葉や小枝を踏みしめる音が徐々に近づいてきた。
「ロド。起きてるか?」
潜めた声でディランが訊くと、彼はもちろんと返す。ロドは未だ結界の中ではあるが、姿勢はすでに臨戦状態とっていた。
身動き一つせず息を潜め、敵の姿が見える位置になるまでジッと同じ体勢で空を睨む。一秒がひどく長く感じ、額に浮かんだ汗が雫となり、眉から眦を伝い頬を滑り落ちて顎から離れた。
ガササッ
「そこか!」
音のした方へとロドが抜き身の切っ先を向けたが、茂みから飛び出してきたのはウサギによく似た、耳が長く可愛らしい小さな獣だった。
「なんだよ。リットか。脅かすなよ」
「ロド! 後ろだッ!」
ロドが予想外の登場者に詰めていた息を吐き出したのと同時に、ディランの叫びが響きわたった。
上官の声に振り返ったロドは、背後にそびえる大きなシルエットに咄嗟に身構えることができず、黒い影が腕を振り上げたのを呆然と見ていた。
巨大な握り拳が焚き火の炎に赤く不気味に浮かぶ。何の躊躇もなく振り下ろされるソレがロドまであと数センチと言うところで、キンッ! と金属音とは違う不思議な音に阻まれた。
「何をしている、ロド! 結界が生きているうちに早く距離をとるんだ!」
「!」
即座に、自分にかけられていた結界を思い出し、横に転がって敵から離れる。ロドが距離をとるのと同時に結界が岩塊のような拳によって砕かれ、風魔法が突風となって吹きぬけた。
「オ・・ オオオ・・」
目の前の獲物を仕留め損なったことで、そのシルエットは次の獲物を捕らえるべくグルリと首を巡らす。焚き火の反対側で剣を構えるディランに目を向けた敵の顔は、人間のものではなかった。
「ゴーレム?!」
ゴーレムとは一言で言うならば、岩や土でできた巨人だ。20ミグル(10メートル)を超える巨体に、不気味な赤土色のゴワゴワ干上がった大地のような肌。顔は醜く、四肢は肘・膝から先がアンバランスに大きい。
瞬発力こそないが破壊力は凄まじいもので、本気で殴りかかれば岩をも砕くと聞いている。
卓也たちは巨大な傀儡の出現に驚愕した。
「なぜゴーレムがこんなところに?!」
地球のRPGゲームでは敵として当然のように登場するが、ここヴェクセリオでのゴーレムは主人の命に忠実な気質だ。命令も無しに行動することはもちろん、勝手に人を襲うなど聞いたことがない。そもそも主人からはぐれ、生み出した者の術力が届かない場所では動きを止め、更には崩れ落ちただの土くれに戻ってしまうものなのだそうだ。
なのに、なぜ・・?
しかし考えている時間は無い。どんな理由があるにせよ、ゴーレムは実際に卓也たちに襲い掛かってきているし、ゴーレムを操っているだろう主の姿も見えない。戦闘を回避して逃げ果せたとして、ヤツが街へ向かわない保証も他の人間を襲わない確証も無い。
「相棒、出番だぜ!」
卓也は渾身丸を鞘から抜き、ゴーレムに向けて構えた。ディランとロドも同じく攻撃の態勢でゴーレムと対峙した。
「ロド! お前は馬を頼む! シェスカたちをつれて少し離れたところで待機していろ!」
ゴーレムが現れたことで恐慌状態に陥っている三頭を認め、ディランが素早く指示を出した。
その間、鞘を投げ出したのを合図に走り出したのは卓也で、とにかくゴーレムの注意を馬から逸らさなければと思った。
「はッ・・あああっ!」
加速をつけて飛び上がり、ゴーレムの首筋を目掛けて剣を横に凪ぐ。が、あっさりと太く硬い腕に阻まれ切っ先は目的の場所に届かない。
二撃目を繰り出そうとすぐさま体勢を立て直すが、得ていた情報とは食い違い、体が大きい割りにヤツの動きはかなり敏捷だった。
剣を防ぎ、皮膚の表面に一筋の切り傷を負ったその腕を、鬱陶しい羽虫でも追い払うかのように振り回した。
「ぐッ! くぅっ・・」
ブウンッ! と唸りをあげて迫ってきた丸太のような腕の一撃を間髪のタイミングで避けたつもりだったが、その風圧だけでも十分な衝撃に卓也は襲われた。
まだ子どもの軽い体が吹っ飛ばされ、今しがたまで馬たちを繋いでいた木の幹に背中からぶち当たる。予想外の威力に受身が取れず、もろにダメージを受けてしまった。
「! がはッ・・」
「タクヤッ!」
ディランが叫ぶ。しかし彼は卓也に駆け寄ることなく、攻撃系の風呪文を唱え始めた。
前に突き出したディランの手のひらの真ん中から、色の無いブーメランのようなものが幾つも生み出され、目にも留まらぬ速さでゴーレムに襲い掛かる。
ヒュンヒュンと空を切る音は焚き火の炎を吹き消すとともに、巨体の周りを飛翔する。それと同時に体に細かい裂傷が刻まれてゆくが、残念ながら傷は浅く、到底致命傷には程遠い。
そのうちずっと連続して魔力を使い続けているディランの息が上がり始め、風のブーメランからも威力が落ちてきた。
一方、片膝をつき呼吸を整えていた卓也はユラリと立ち上がる。吹っ飛ばされても決して手放さなかった右手の相棒を見下ろすと微かに口角を上げ、「ちと本気を出すか?」 と話しかけた。
「ディラン、オレが代わる。危ないから、少し下がっててくれ」
渾身丸の柄は、卓也がヴェクセリオへ渡る際に引き寄せあう力を強められたらと、浩司にリクエストして一部嵌め込み式のカラクリにしてもらったのだが、これにはもう一段階仕掛けが施されている。
カチリと木片を嵌め込んだだけならば、ごく普通の日本刀に似せて作られたただの剣なのだが、その木片を回転させて柄に刻まれた文様と繋がるように合わせると、一転、雷をまとう魔剣に姿を変える。
魔力を持たない卓也でも扱えるようにと、必要なエネルギーは大気や周囲のもの全てから、勝手に少しずつ拝借するよう設計されていた。
親指の腹で文様をたどり、感触だけで木片に刻まれた呪文をそろえる。コツッ・・と僅かな振動を皮切りに渾身丸は一気に発動し、チリチリと青白い電気を迸らせた。
「おう、渾身丸。ちょっと出番は予定よりも早いが、準備運動代わりに一暴れするとしようぜ」
パシッ・・ パリッ・・ チリチチチ・・
焚き火の赤い光を失った黒い夜闇に雷は白く発光し、主である卓也もまた剣と同じく光を発していた。
「オオ・・ オオ・・」
「行くぜ」
卓也は両手で柄を握り、上段に構える。地面をにじるように距離を詰めてゆくと、不穏な何かを感じ取ったのか、ゴーレムがほんの少し後退した。
「タクヤ・・」
肩で息するほどに疲弊したディランが卓也の名前を呟く。途端GOサインをもらったかのように卓也はゴーレムに向かって駆け出した。
しかし敵もそう簡単に攻撃を受けてはくれないようで、幅1メートルにも感じる巨大な拳を振り上げ、卓也めがけて一気に繰り出してきた。
ゴオッと唸りを上げて迫る拳を卓也はヒラリとかわし、ゴーレムの膝の手前で高くジャンプした。
ガガガッ!!!
白い光をまとわせた剣はゴーレムの左肩を深く抉る。だが背後に着地した卓也が振り返って見たものは、ベキベキと音を立てて、見る間に修復してゆく岩の体だった。
「なんだと?!」
ブウン! ブオン! と音を立てて襲ってくる攻撃をかわしながら何度も斬りつけるが、やはりその傷は瞬く間に戻る。よくよく見てみればディランの風魔法がつけた傷も見当たらない。
「クソッ! 刻んでも刻んでも直っちまうんじゃキリがねえ!」
どうすりゃいいんだと考えをめぐらせても、ゴーレムの倒し方など知らない。闇雲に剣を振るったところで卓也の体力も無尽蔵ではないのだから、そのうちに疲れ、攻撃も逃げ切ることもできなくなってしまう。
「タクヤ! 探せ! 体のどこかに傀儡を示す血で書いた文字があるはずだ。一文字削り落としてただの土の塊に変えてやれ!」
ディランの声が卓也の耳に届いた。術師が書いた血文字。一文字削る意味がわからなかったが、とにかく考え込んでいる時間は無い。言われた意味は見つけたときに改めて考えることにし、今はまずソレを見つけることに集中する。
ブンッと横なぎに繰り出された、丸太よりも太く頑丈な腕を飛び上がることで避けると、その腕を伝い登り肩を目指して一直線に駆け上がった。
「浩司ほどじゃないが、ゲームで鳴らした現代地球の子どもをなめんじゃねーぜ! こーゆーモンは大抵デコか項って相場が決まってるんだよ!」
二の腕まで上がってきた卓也を叩き落とすべく、もう一方の手のひらの黒いシルエットが頭上から迫る。バシッと叩き潰される瞬間、フワリと横に身を投げ出す。宙に仰向けになった状態で見上げる先にあるものはゴーレムの手首。
卓也は剣を親指の付け根あたりに突き立てる。感覚があるのか無いのかはわからないが、刺された手のひらを確認するためか、ゴーレムは手のひらを自身の目の前に広げた。
「ぃよ~う。やっと間近でご対面だな」
待っていたかのように卓也は笑う。引き抜いた剣を構え、絶好のタイミングで跳躍する。突出した鼻先を踏み台にして更に一気に高くジャンプ。バタバタと外套をはためかせた卓也の体はあっという間にゴーレムの額の正面に舞い上がった。
「渾身丸ッ!」
卓也の叫びと同時に一際剣が放電する。まともに見られないほど白く発光し、バリバリと音を立てて怒り狂う雷は行き場を見つけられず、剣と卓也の周囲に巻きつく蛇のように螺旋を描く。
全身を光り輝かせた卓也は、まるで龍を従えているようだ。
「よ・・・しゃあぁぁぁぁぁッ!」
左上に振り上げた剣先の目標は額の血文字。一瞬で削ぎ落としてやると振り下ろした・・・が、
「ぅえ?! 無いッ?」
予想ははずれ、額に血の文字は無い。ギリギリで引っ込めた切っ先を慌てて突き立て落下を逃れたが、ぶら下がっているのはちょうど眉間。落ち窪んだ眼窩の奥の、怪しい赤い光がボンヤリと卓也を睨んだ。
グシャッ!
「おっと!」
ゴーレムの拳が自身の顔面にめり込んだ。寸前で剣とともに横に飛んで回避した卓也は、今度は先ほどと反対の腕を駆け上がる。
肩まで来ると第二の予想箇所である項に向かった。
幸いにも、ゴーレムは自分の顔を破壊していまい視界が利かない。俯いてむき出しになった項にあっさりと到着した卓也は、同じ失敗をしないために足元を念入りに探した。
【אמת 】
「あった! これか?」
剣の雷によって照らされた、赤黒いたった三つの小さな文字。
「コレのどの文字を削れって?」
もっとよく聞いておけばよかったと思ったが、今はアレコレ悩んでいる時間は無い。一か八か・・ッ!
「決めた! 一番目の文字だ!」
もとより大雑把な性格の卓也は、時間の無さを理由に一文字目に狙いを定めた。両手で握った剣を振りかぶり今まさに突き立てようとしたとき、目元の修復が進んだゴーレムはおもむろに顔を上げ、項へと手を伸ばした。
「うわッ! ぁあ? あああッ!」
突然ゆれた足元に手元が狂い、剣先は卓也が選択したものとは違う文字を消し去った。
「やべッ・・」
切っ先が貫き消し去ったのは最後の文字。足元には【מת 】とだけ残された。
「タクヤーッ! 上だー!」
どこからかロドの怒鳴り声が響く。ハッと声に反応して顔を上げれば、そこには頭上を覆い尽くすかに感じるほどデカいゴーレムの手のひらがあった。
「! ・・・?」
瞬間的に手遅れだと悟ってギュッと目をつぶったが、衝撃は訪れない。
恐る恐る薄目を開けて上を窺うと、何かが卓也に向かって落ちてくるところだった。
「おわッ!」
避けたのとほぼ同時、元いた場所に落下したものはガンッとゴーレムのうなじに当たり、ガラガラと背中を転がって落ちていった。
「岩・・」
暗くて見えにくいが、確かにバスケットボール大の岩の塊だった。嫌な予感がして再び上を見上げると、先ほどのものよりももっと大きな岩塊が次々に落下してくる。
「早く降りて来い! もうすぐ全身が崩れるぞーッ!」
ディランに促された卓也は急いで降り始める。その間も手や腕だけでなくゴーレムの全身がボロボロと崩れ、駆け下りるその足元にもどんどん亀裂が走る。
脊椎をたどり肩甲骨に沿って急斜面と言うよりもほとんど垂直の脇腹まで弧を描くように走り降りる。崩れかけた足場を力の限り蹴って跳躍すると、近くの木に飛び移った。
枝につかまり振り向くとゴーレムが轟音をとどろかせ、ただの岩と土の山となる瞬間だった。
「・・ぁっぶねぇ~」
剣を持っているほうの手の甲でコメカミに浮かんだ汗を拭う。もうもうと土埃が舞う下方を見下ろしていた卓也は、少し離れた場所でたいまつを掲げて振っているロドを見つけ、やっと木を降り始めた。
卓也は油断していた。対戦相手が巨大だったせいもあるだろう。そしてその相手が目の前で崩れ去ったことも一因だ。だが、脅威と言うものは決して大きいものや力の強いものばかりとは限らない。
ぶにゅ・・
ギシッと掴んだ枝の付け根に、イモムシが一匹丸まっているなんて卓也は思いもしなかった。
「ぶにゅ? うわぁ――――――――――――――――――――――――――――ッ!」
「タクヤッ?!」
手のひらがズルリと滑り、豪快に枝を折りながら落下した卓也は、ドスンと背中から地面に落ちた。
「タクヤ―――ッ!」
くわぁんと衝撃を受けた後頭部。暗転する視界にコチラへと駆けてくる二人の影が映ったが、ソレよりもなぜか卓也の意識を支配したのは、ここにいるはずの無い人物・・・今にも泣きそうな顔で卓也を見つめる千早の姿。
「・・泣くなよ・・チハ。心配ばっかしてっと、若ハゲ小学生になっちまうぞ・・・」
しょうがねーなと苦く笑い、そしてブラックアウトした。
◇ ◆ ◇
「そうか・・・ゴーレムに襲われたか」
三人がボルへザークの駐屯基地に到着したのは、日の出とともに出発して休みなく馬で駆け、太陽が西に傾きつつある時刻だった。
到着早々、水の一杯も取らないまま隊長室に通された卓也たちは、真っ先に昨夜の出来事を報告した。
「何かお心当たりはございますか?」
ディランの問いかけに短く否と応えた三十絡みの後姿の男は、誰に聞かせるわけでもない呟きをもらした。
「これで脅威の対象が二つになったな。一つは『歪』、そして『歪』によって狂わされた獣や人。もう一つは『人』か。どんな理由でゴーレムなんぞ作り出したのかはわからないが、『人』が介在していることは明白だ。・・・まさか、5年前の一件から繋がっているわけではないだろうな」
茜色に染まる窓の外に目を向けながら、近衛隊中域隊隊長ヘルン・オースカーは自身の左目に手を当てた。肌触りはとてもよいとはいえない布の感触。頭部を一周させるように紐で止められた黒い眼帯の奥には何もない。失って以降義眼などはめ込まず、今でも暗い洞穴となっている。
当時回復術で治癒できないわけではなかったが、ヘルンはその選択を拒んだ。3日高熱に苦しめられ、半月も激痛に悶絶したが、彼は傷を消したくなかった。
ヘルンにとってこの傷跡は教訓であり戒めなのだ。
「とにかく無事ならば良い。ほとんど休みなしの長旅、疲れただろう。今日はこのまま休んでくれ。食堂に夕飯の準備もある。ポール、彼らの案内を頼んだ」
「は! 了解いたしました。では先に部屋へとご案内いたします。どうぞコチラに」
振り返ったヘルンは穏やかに微笑み、部屋の隅で待機していた若い隊員に後を頼んだ。しかしポールに促されて退室する際、なぜか卓也だけ呼び止められた。
「疲れているところを悪いが、少々話をさせてくれないか?」
「はぁ・・?」
首を傾げながらも了承して残ると、部屋の中にはヘルンと卓也の二人だけになる。居心地の悪い卓也がどうしたものかと思案していると、隻眼の男は隅に置かれていた木製の椅子をわざわざ自分で引っ張り出し、座るよう勧めた。
「そんなに時間をとらせるつもりはないが、立ち話もなんだからな。どうぞ、掛けてくれ」
「・・・では、お言葉に甘えて」
ヘルンが執務机の向こう側に周り腰を下ろすのを待って、卓也も腰掛ける。ちょっとしたことではあるが、他隊の隊長とはいえヘルンに対してきちんと己の身分をわきまえた所作に、口元がわずかに笑みを形作った。
「すまないが茶は出ないんだ。いいか?」
「はい。構いません。・・で、オ・・ワタシに話と言うのは何でしょうか?」
「ああ。・・・実は5年前のボルへザーク侯爵城でのことなんだ」
ヘルンもあの日、ボルへザークの城に居合わせ襲撃に遭い、そしてそのとき左目を負傷したのだと説明した。
だが卓也には目の前の男の顔に覚えがなく、無意識に眉を顰める。そんな少年の表情がおかしかったのか、彼は机に両肘を突いてリラックスすると、懐かしそうに話し出した。
聞けば5年前のあの頃、不穏な輩が城の近くをうろついていると侯爵から申し出があり、中域隊ボルへザーク地区駐屯隊員は毎日1,2名ずつ、交替で城の警備当番をしていたらしい。
夕方、前日に当番だった隊員と申し送りののち交替すると、勤務時間は翌日の夕方まで。次の当番と交替するまで寝ずに警戒の当直任務に就いていたそうだ。
「あの日、私は当番だった。同じく当番だったもう一人と城内を警邏中に敵襲があり、私たちはミランダ様やキミとはずいぶん離れたところで応戦していた」
正直、警備当番を甘く見ていた。侯爵の城には侯爵が所有する騎士団があり、団員も多く、彼らの訓練している風景を見ることもあったから、彼らがとても腕が立つことも知っていた。
そのため、当番など体のいい息抜きのように思っていた。
警備すると言っても一日中城内を回っているわけではない。せいぜい5回の警邏のほかは自由時間。上司の監視はないし、食事は3回、隊で出るものよりもずっと豪華で量が多く、美味い。
不審な輩がいると報告があったけれど、ソレらしき影を見つけることはできなかった。それでもとりあえず侯爵や令嬢が安心するよう警邏のマネ事をして見せ、何事もなかったと報告書を提出しておけばよかった。
だからあの運命の日も、形だけの警邏と言う名の散歩に出掛け、そしてヤツらと遭遇した。
「目的があり、覚悟を決めて侵入してきた賊に、お遊び気分の兵隊は敵うだろうか。いや、敵わない。そんなに甘いことじゃない。現に相棒の男は一瞬で殺された。私も片目を傷つけられた上に、腕や脇腹にも深手を負い、すぐに術師に止血してもらわなければ絶命していたことだろう」
近衛隊に所属して10年、それなりに強くなったと己を過信していた。その驕りが結果、仲間を死なせ、侯爵やミランダ嬢を危険に晒し、無様な姿を披露する羽目になったわけだ。
負傷者が思いのほか多かったせいで術師の魔力配分が必要となり、十分に治癒してもらえなかったヘルンは身動きができず、救護室のベッドの上で卓也と千早の活躍を聞いた。
自分よりも20歳近く年下の異界の子どもたち。彼らは本来自分たちがなさなければならないことを、命懸けでなした。
「恥ずかしかったし、悔しかった。そして君たちを怨みもした。しかし年月が過ぎ冷静さを取り戻すと、逆恨み自体が間違いだとわかった。・・・今ではとても感謝しているんだ。ありがとう。・・どうしても一こと言いたくてな」
照れくさそうに笑って礼を言うヘルンに、卓也の胸のうちはズキンと痛んだ。
「いえ。オレも結局最後は チハ ・・副術師長に助けられたんで。お礼なら副師長に言ってやってください」
微かに自嘲の笑みを浮かべた卓也に何かを悟ったらしいヘルンは、それ以上踏み込むことなく「そうか」と返した。
「では伝えておいてくれ。私が副師長殿と直接お会いすることはないだろうから。とても感謝していると。礼が遅くなったこと、大変申し訳ないと」
「はい。必ず」
言伝を預かると卓也は立ち上がり、深く頭を下げて退室した。
扉を出ると、5年ぶりの懐かしい顔が廊下で待っていた。
「やあ、タクヤ。元気そうだな」
「オディオール! 久しぶりだな!」
嬉しさに駆け寄ると、以前よりも一回り逞しくなっていることが一目でわかった。
見上げた顔も、ずっと勇ましくカッコいい。
「なんだよ。すっごくカッコよくなっちゃったな! ムッキムキじゃねーか!」
記憶の中よりも筋肉がついて太くなった二の腕を拳で叩くと、オディオールはおかしそうに声を出して笑った。
「そりゃあ5年前のままじゃないさ。お前・・・は全然変わらないな?」
卓也が異世界人だということも、その成長速度に違いがあることも知っていながら、懐かしの友人はわざとからかってくる。
涼しい顔をして結構いい性格のところは変わらない。わかってはいても成長してないのが自分だけでないと知り、卓也は少しホッとした。
宿舎まで案内すると言って歩き出す彼に、「副長様直々に送ってもらうなんて、もしかしてすっげぇ畏れ多い?」などと笑い合いながら、素直に礼を言ってついてゆく。
「今回の合同調査のメンバーの中にタクヤの名前を見つけたら、どうしても顔が見たくなったんだ。最後に見た時はちゃんとケガも治されて元気だったけど、心の傷は回復術でも治るものじゃないから。その・・」
「兵士の仕事に嫌気が差したかもって?」
オディオールは苦笑した。
言いたいことはわかる。兵士になることを選び近衛軍に所属し、それぞれの隊に配属され毎日の厳しい訓練に耐えても、実際に身に危険が及ぶようなことは今現在の平穏なダルバンではほとんどない。
方角によって、相性の悪い隣国とピリピリ警戒しあっている遠域隊の辺境担当部隊などは頻繁に小規模とはいえ争闘を経験しているが、そんな一部を除けばここ何年も戦争は起きていないし、もちろん内乱も起きていない。
ダルバンの民はハッキリ言って誰もが平和慣れしているのだ。だからたとえ腕っ節は強くても精神的に弱い部分がある。
だけど卓也は不思議とトラウマになっていなかった。
恐怖が1ミリも無いわけじゃない。斬られた瞬間の焼けるような痛みも忘れてはいない。しかし戦闘中に感じた高揚とした気持ちや、千早の顔を見たときのホッとした安心感のほうが胸の内を占める割合が多かった。
思い出話や近況を話しているうちに、本基地の隣に建つ宿舎へと到着した。
また後でとオディオールとは手を振り合って別れ、今度は宿舎の管理人に部屋の位置を聞き、教えられた部屋番号を探した。
「お、やっと来たか。結構長かったじゃねぇか。何だったんだ、ヘルン隊長の話って?」
与えられた部屋は二人部屋で、先に到着していたロドが片方のベッドに腰掛けて脛当てをはずしていた。
「いや、5年前の話を少し。それよりディラ・・班長はどうした? 別室なのか?」
「ああ。全室2人部屋だから、1,2で分けられた。もちろん我らが班長は悠々一人でのんびりだ」
ほんの少し不満そうに見えるが、卓也はツッコまないでおいた。
窓際に立ち、外の景色を眺める。この駐屯基地には前回来なかったため、この辺りに見覚えはない。だけど懐かしいボルへザーク侯爵の親子のすぐ近くまで来たんだと思うと、やはり一目でも会いたいと望んでしまう。
きっとミランダは成長して、さらにキレイになっているだろう。
「元気にしてるかな・・」
無意識にこぼれた声を聞き拾ったらしく、後ろでロドが「なんか言ったか?」と訊いてきたが、卓也はあいまいに首を振ってなんでもないと笑った。
明日から調査が始まる。もしかしたら侯爵の城の方面に行くこともあるかもしれない。
そう易々と会いに行くことのできない身分の違いを歯がゆく思いながらも、僅かな可能性にほんのちょっと期待していた。
◇ ◆ ◇
会議室の広いテーブルを更に寄せ合わせ、バサリと大きく広げられたのはボルへザーク一帯を詳しく書き記した地図だ。
所々に赤と黒で×印がつけられ、なにやら数字が書き込まれている。
「赤い印は『歪』の発生を確認できた場所だ。黒は発生したと予想される場所。×印の下に小さく書いてある数字は発生した日付と影響を受けた人間やその他の生物。丸で囲んであるのが人間の数だ」
副長オディオールの柔らかでいて低めの美声が淡々と位置説明を進める。
「1・・ 2・・ 3・・ 赤い印がずいぶん多いですね。そして黒は更にその倍。それに日が経つにつれ、影響を受ける人数が増えている」
想像以上の深刻な状況に、ディランの眉間にシワが寄る。ロドと卓也もまた表情を曇らせた。
「そうなんだ。コレはたまたま人気の多い場所で『歪』が発生したばかりでなく、影響を受ける範囲が拡がっていることも示している。ここを見てくれ・・」
オディオールの後ろに立っていたヘルンが身を乗り出し、指先でトントンと叩いた場所はボルへザークの西、バ・フェ。澄んだ良質の水を湛えた美しいエリン湖を中心にして田畑用の水路を放射状に引き、季節に応じて一年中多彩な作物を収穫し、ボルへザークの財政を潤している。
早い話、バ・フェは農業に携わっている者が多い地方なのだ。
そして最近このバ・フェで立て続けに『歪』が確認された。しかも最後に認められた『歪』によって影響を受け正気を失った人々は二桁にものぼり、その凶暴化した人間に襲われた・・いわば二次被害者はかなりの人数に膨れ上がった。
「このバ・フェの付近が一番被害が甚大なんだ。領境の先はハハスがあり、そちらでも複数件の事例があると報告があがっている。やはり二次被害が深刻だそうだ」
ハハス領。その名を聞いた卓也は、なにか引っ掛かるものを感じた。
「あの・・」
怖いくらいに真剣な面持ちの大人が居並ぶ中、まだ声変わりのすんでいない少年の声が遠慮がちに割り込んだ。
「見習い如きが口を挟んでスンマセン。・・あの、ハハス領のどのあたりで多く発生しているか、詳しくわかりますかね?」
「ハハスの? 何か気になることがあるのか?」
ハハスで引っ掛かったのは卓也だけではなかったらしい。横目でチラッと見ると、視線の先の人物・・オディオールもまた、卓也と同じ表情でゆっくりと頷いた。
やはり彼も同じことが気になったようだ。
「はい。もしかしたら、ある人物が関係しているのかも。ただ・・もしそうだったとして、そいつがどう『歪』に関係しているのかはわからないし、証拠とかも無いんすけど」
脳裏に浮かんだ顔は5年前のあのとき、あの瞬間に見た顔だ。植え込みからミランダを引き摺り出し、剣を振り上げていた人物。
後から聞いたところによると、男の名前はグウェン・アダーソン。ハハス領の一角に居を構えるアダーソン男爵家の二男で、ボルヘザーク侯爵が話していた例の仕官の男だ。
あの日千早に吹き飛ばされて気絶したグウェンは、侯爵家の騎士団に捕らえられ、のちに審判のため故郷のハハスへと厳重に護送された。
ハハス領に判事が訪れ、審議会が行われて厳密なる審判が行われた結果、彼は家名も財産も没収、勘当されて家を遂われただけでなく、それまでに成した功績に対する評価も何もかもが撤回され、投獄されるはずだった。
全てを失ったと言って過言ではないグウェンに残されたものは、生家で誂えた衣服の中で一番上等のもの一式と、彼の愛馬だけ。一粒の銅片すら奪われ、無一文で公安の兵士に身柄を渡された。
しかしグウェンは一瞬の隙を見て縄を切り逃亡。行方は未だ不明のままなのだ。
「当時ヤツの足取りを追えたのはハハスの先、トルスエットまで。先に質屋で馬を売り、安い服や最低限の旅支度を整え、身に着けていた服も売り払った。聞き込んでわかったのだが、酒場で酔ったグウェンが目をギラギラさせて零していたそうだ」
絶対に思い知らせてやる、と。
二男である事を惜しまれるほどに、彼はずっと努力してきた。そしてその努力に見合うだけの技量も身につ家、さらには魔力にも秀でていた。麗しい容姿と己の力で築いた名声を、なんの気まぐれか侯爵令嬢に嫌がらせをしてしまったことで、全てが水泡へと帰してしまったのだ。
オディオールが独自に調べたというグウェン・アダーソンの最後の目撃談を語ると、彼を知る一部隊員がざわついた。
「静かに。・・ヤツと関係があるかどうかはともかく、可能性は虱潰しに調べ、少しでも『歪』の解明に全力を尽くすだけだ。1・3班はこれまでどおり発生地区の調査を。2班は発生に何らかの規則性はないかを調べるために、ボルへザーク各地と他領の駐屯基地から送られてきた報告書を読み直してみてくれ。4、5、6は通常の警邏に向え。よし! では解散!」
ヘルン隊長の指示で皆がそれぞれ配された任務へと動き出す。
ディランが卓也たち三人がどうすべきかを問うと、午前中は侯爵の城へ挨拶に行くよう言われた。
「ケガをして抜けた隊員の穴を補充するための、交代要員の名簿の中にタクヤの名前を見つけたようだ。是非会いたいとおっしゃっている」
「オレに・・ッすか?」
自分が顔を出せばエリウォンを不愉快な気持ちにさせるうえ、ミランダにもあの日の怖い記憶を甦らせてしまうだろうと思い、卓也は顔を顰め返事を躊躇った。しかし侯爵の要請をしがない一兵士に断ることなどできるはずもなく、渋々と頷く。
挨拶が済んで城を辞したら、そのまま6班と合流して警邏につくよう指示を受け、卓也たちも会議室を後にした。
「大丈夫か?」
余程憂鬱な表情をしていたのだろう、廊下に出た途端ロドが隣に並び、声を潜め卓也に耳打ちする。
マリモと幼馴染と言うだけでやたらと敵視してくるような、心の狭い同僚が珍しくも見せた心配顔がなんだかおかしくて、ちょっと笑ってしまった。
「大丈夫だ。さ、行こうぜ」
バシッとロドの背中を叩くと、同じように少々表情を曇らせて待つディランに追いつくべく、卓也は足を速めた。
◇ ◆ ◇
カポッ カポッと蹄の音を聞きながら、馬上で卓也は景色を一望する。低い丘にそって緩やかな曲線を描く広大な緑の地。空ではピールルル・・と小鳥がさえずり、柔らかで暖かいそよ風が髪を撫でて通り過ぎてゆく。
穏やかで、平和だ。
この、どこか地球の卓也たちが住む田舎町に類似した穏やかな風景を見ていると、『歪』や『歪』によって凶暴化した獣や亜人の脅威にさらされているなんて、とても思えない。
「全然変わらないのにな・・」
以前見たときと変わらない、懐かしい景色。5年前は表向きミランダの話し相手だったから、散歩や遠乗りに出掛けたこともあった。丘の上に立つ侯爵の城からはボルヘザークが遠く見渡すことができ、よくミランダが指をさしてはあの辺りにはキレイな湖があるとか、向こうの森には愛らしい小動物がたくさん住んでいるなどと教えてくれた。
脳裏に浮かぶのは一昨日の光景。久しい思いで訪れたボルヘザークの城で数年ぶりに見たエリウォンの顔は、やはり少しだけ年をとったような気がした。
5年前とは任務の内容が違うのだから当然だが、彼は卓也に目を留めても公私を混同することなく淡々とディランの挨拶に答え、くれぐれも『歪』に気をつけて、そのうえできるだけ早期の解明を頼むと言葉をかけた。
卓也もまた謁見の間では立場をわきまえ、終始首をたれた姿勢を保っていたが、ふと柱の影に隠れるように佇むドレス姿の人影に気がつき、静かに一人目を瞠った。
そっと様子を伺っていたその人物も、卓也と視線が合ったことで一瞬驚いた顔をしたが、ちょっと迷ったような表情を見せた後にフワリと頬を緩め、5年前よりもずっとキレイになった微笑を浮かべた。
侯爵への挨拶を終えた三人は謁見の間を辞すると、5年ぶりに顔を合わせたボルヘザーク家の執事・ガーウィンに先導され、懐かしの城内の玄関までの道のりを少々遠回りしつつゆっくり歩いた。
「お久しぶりです、タクヤ様。以前お会いいたしましたときと些かの違いもなく、ご健勝のようで何よりです。」
公的な顔を持つエリウォンとは違い、久しい老紳士の彼は以前と変わらずにこやかに卓也を歓迎し、5年前にミランダを体を張って守ったことに対し、今更ながらに礼を告げられた。
「当時は慌しく、感謝をお伝えすることができないままお帰りになられてしまわれたので、この機にきちんと申し上げておきたいのです。・・・タクヤ様。ミランダ様をお守りいただきまして、ありがとうございました」
「いや・・オレは結局、途中でリタイヤしちゃったし。お礼ならチハに・・」
使命をまっとうできなかった後ろめたさからしどろもどろに答えると、ガーウィンはいいえと首を横に振った。
「国王陛下が指名してくださったのが・・そして、あの日お嬢様のお近くに居られたのがアナタ様だったから、今があるのです。こんなことを申し上げては失礼なのを承知であえて言わせていただけるのなら、賊と戦いケガを負ったのがタクヤ様だったからこそ、副師長様が手をお貸しくださったのでしょう。そうでなければ今頃は、お嬢様のご無事なお姿を目にすることなどできなかったはずなのです」
卓也はガーウィンの言葉にドキンと心臓の音を高鳴らせた。
ケガをしたのが卓也じゃなかったら、千早は・・・どうしていただろうか。
この先にも、もしかたらケガを負ったり病気に罹ったりすることもあるかもしれない。その度に彼は自身を省みずに、無茶をしてでも手を伸ばしてくるだろう。きっと。
絶対に無いとは言えない状況を想像をするだけで身の毛がよだつ。両肩が一気に重くなった気がした。
「おい、アオヤマ。少し場所を移動するぞ」
いつの間にか回想に浸っていたらしく、かなり遅れてしまっていた。、呼ばれた方向へと焦点をあわせれば、ずいぶんと先で一行が馬の足を止め、振り返り卓也が追いつくのを待っている。
「あ、・・はい! 今行きますッ」
慌てて返事をして馬を走らせる。やっと追いつくと4班班長のレモンドに隊列を乱すなと注意された。
昨日から三人はそれぞれ1班・2班・4班に別れて調査作業に同行していた。ディランは2班とともに主に報告書類からの情報収拾、発生に必要な規則性や条件・影響、その影響の範囲や受ける者との因果関係など、事細かに拾い上げてゆく。
ロドは1班と同行。これまでに『歪』が発生、もしくは発生したと思われる場所での調査。どんな些細な事物も見逃さずに掻き集め、書類にして2班へと送る。
そして4班には卓也が振り分けられた。4班の分担は警邏。『歪』はもちろん日常に潜む犯罪への防犯が主な仕事となる。
「ここにいる限りは子ども扱いはしない。オディオール副長の顔に泥を塗りたくなければ、意地でもついてきたまえ」
「スミマセン・・」
わざわざ卓也の隣に並び、上から目線でそう言い切ったレモンドは、わざとらしい溜息を一つ残して離れていった。
なんとなくそうじゃないかと思っていたが、今ので決定的になった。どうやら卓也は良く思われていないようだ。
オーガン率いる近域班と違い、中域隊ボルヘザーク駐屯基地班は上下関係の規律にうるさいらしく、昔馴染みとはいえ上官に当たるオディオールに対し、卓也が軽口をたたくのが気に入らないようなのだ。初日に紹介されたときから鋭い視線が突き刺さってくる気がしていたが、先ほどのレモンドの様子で一気に確信へと変わった。
やや速度を速めて進む一行に離されないよう手綱を握り、仔馬のころから世話をしている愛馬のアオにもう少し頑張ろうなと声をかけると、首をぽんぽんと軽く叩いてやった。
馬の背から見渡す景色はどこまでも広がる緑、緑、緑。草原と森林と畑がずっと、ずぅっと先まで続いている。
ふと、卓也たちが通う小学校5年3組の教室の、教卓の後ろに掛けてあるカレンダーの7月の絵が、北海道の広大な風景写真だったなぁ・・と、しみじみ思い出した。
4班の警邏コースの半分を巡回し終えた一行は、一度駐屯基地に戻って昼食ののち、残りのコースを回るスケジュールになっていた。
レモンドの指示で引き返すべく、馬をもと来た方向へと転換させている時、それは起こった。
「がッ! ぐぅ・・ッ」
「ダンッ! がぁっ!」
ヒュッと微かに失敗した口笛のような音がした直後、卓也を入れて七人のうちの二人が、突然うめき声を上げて馬から転落した。
あまりにも唐突過ぎて状況が飲み込めなかったのだろう。一瞬ほかの面々は固まり、身動きもせずただ落馬して動かなくなった仲間を見下ろしていた。
「馬を走らせるんだ! 早く物陰に隠れろ!」
逸早く状況を悟ったレモンドは慌てて班員たちに退避の命令を出す。しかし仲間意識が強い彼らだからこそ、倒れた二人をそのままに走り出すことができない。
「ジャックッ! ダンッ! どうし・・ッ?!」
「アレクーッ! 班長、アレクまでもが!」
何が起きたのか。三人が倒れても原因がわからず、4班のメンバーは混乱するばかりでレモンドの指示通りに動けない。
レモンドは立て続けに襲い掛かってくるの脅威と、その正体が不明なことに混乱し、重ねて命令を出すことさえ忘れ、一緒にオロオロするばかりだ。
キィ・・ン!
鼓膜が傷むほどの甲高い金属音が、音波をもしのいで周囲に響き渡った。
咄嗟に耳を押さえた彼らが音源を探して首をめぐらせると、誰よりも真っ先に馬から降りて抜刀していた卓也が、険しい顔つきで一点を睨みつけ剣を構えている。
「貴様、今なにをッ?!」
「敵だッ! オレが援護するから、早く倒れた者を担いであそこの林に身を隠せ!」
卓也は怒鳴りながらも再び剣を横なぎに振りぬいた。
ギャリィ・・ン!
またもや響いた金属音の直後、卓也の耳朶をかすめて斜め後ろに弾き飛んできたものは、未だ馬上で呆けた面をさらしているレモンドの左腕をかすめて後方へと奔り去り、背後の樹木にめり込んで止った。
恐る恐る振り向いた男の目に映ったのは、透き通った楔形の氷のカケラ。とがった先端からは解けた水滴がポタリと滴り、うっすらと白い靄が漂っている。
「ッ・・!」
「班長! 早く皆に指示を出すんだ!」
驚愕に表情をこわばらせた上官を力いっぱい叱咤する。その間も1.5の卓也の視力が捕らえている敵は、前方にそびえる小山ほどもある大岩に体を隠し、次々と氷のクナイを出現させては卓也たちに向け撃ち放ってくる。そのうえ、更に黒いマスクで顔を隠し黒装束に身を包んだ怪しげな三人の男たちが、一斉に卓也に襲い掛かってきた。
「班長ッ! レモンド班長!!」
休みなく繰り出される凶刃をなぎ払いながら、放心してしまっている上司の名を叫ぶ。早く行動に移らないと、今度は獣や亜人が攻めてくるかもしれない。そうなったらもうこの場を切り抜ける術はなくなってしまう。
必死な少年の声が聞こえたのか、はたまた剣戟の音に我に返ったのか、やや裏返った声で号叫した。
「! 至急、負傷者を保護して退避! 林まで走れ―――ッ!」
多勢に無勢。戦闘慣れしていない4班の連中は仲間の救助に精一杯で、卓也の援護に回ろうという考えに至らない。
うろたえる隊員たちを、この場の誰よりも細く小さな背中で庇い、卓也は的確に攻撃をかわし迎え撃ち、氷の矢を打ち落としてゆく。
渾身丸の力を大全開にして、迸らせた雷を網目のように広げ、アリ一匹の侵入さえ許さない。
愛刀を構える卓也の前に、黒剣士の一人が剣を振りかぶって躍り出た。
ガキィィィン!
火花を散らして剣が交わる。ギリギリと鍔迫り合いでの力比べになると、どうしても子どもである卓也に不利だ。
「くぅッ・・」
じわじわと刃が鼻先に迫る。鋭く光る刀身が太陽を反射してキラッキラッと眩しい。
「ぐ・・ぅ、そうか・・・」
渾身丸の峰が頬に触れるまで押された瞬間を狙って一気に体を捻り、黒剣士の剣の軌道を逸らす。と同時に体制の崩れた剣士のマスクに手をかけると、力任せに引き剥がした。
「・・・ッ!」
「うわっ!」
現れた顔には鼻や口もなく、ただ輪郭の中央に巨大な目が一つ。
サングラスの役割だったらしいマスクを失い、黒剣士は眩しさに両手で顔を覆った。
「悪ぃな! それじゃあ確かに昼間にはマスクがなきゃ外に出られねーよな!」
眩しすぎて。
奪ったマスクを剣士に放る。左肩にぶつけられたそれを慌てて拾おうと屈み込んだところに、卓也の一撃が振り下ろされた。
一人目がドオッと音を立てて倒れ伏したのと同時に、残りの二人が同時に斬りかかって来る。が、一人目と同じようにマスクを奪われないためなのか、警戒して片手を顔に当てている。
ガキン! ギリュリュリュッ!
一方の剣を、剣で受け止めて押し返す。と直後、反対側から別の剣士が切っ先を突き込んで来た。ガチン! と金属音をとどろかせてそれを弾き返すと、再びもう一方の黒剣士が卓也の胴を狙って横なぎに剣を振るう。
片方と対峙している間にも、もう一方が斬りかかってくるという目まぐるしい状態が続き、さすがに卓也の息が上がってきた。
「お前・・らっ! ゼェ・・二人がかり、で、子どもに剣を向けるなんて、ハァ・・卑怯だと・・おッ、も・・わないのかよっ!」
なんとか隙を作りたくて大声で話しかけてみたが、よくよく考えてみれば一人目の黒剣士のは口がなかった。残りの二人も同一タイプの可能性がある。と言うことは、セミと同じ発声器官でも持ち合わせていなければ多分話はできない。・・・喋れないならば、耳だってあるかどうか怪しい。
きっと卓也の考えは正解なのだろう。少しも剣士たちの勢いが緩む気配はない。
「だ~~~ッ! クソ! この手だけは使いたくなかったんだが、仕方ねぇ!」
叫ぶなり、卓也は立て続けに襲い掛かる凶刃を振り払うと、僅かにできた一瞬をついて渾身丸を頭上高く―――――放り投げた。
「「?!」」
二人の視線(?)が上空に引き付けられた瞬間、卓也は誰にも聞こえないほどの小声でゴメンと謝ると、一切の加減なしに目の前の剣士の股間に蹴りを入れた。
「!!!」
メシャッ・・靴底に感じるもの凄い罪悪感。人間同様剣士にとっても急所だったらしく、二人目は股間を押さえて前のめりに倒れた。スローモーションのように崩れ落ちる剣士の姿に、卓也はいやな汗が噴出すのを感じた。同じ男(?)だからこそ、罪意識も一入。しかし心を痛めるよりも先に、まずは敵を倒すこと。堕ちた仲間に気づいて攻撃を仕掛けられる前に、卓也はもうひとりの剣士の鳩尾にも踵をお見舞いした。
腹を抱えて前のめりになった三人目に、空中から帰還した渾身丸を受け止め、そのまま峰打ちで昏倒させた。
三人目の黒剣士が足元にドオッと崩れ落ちると、卓也は上がる息を押し隠し、まだ余裕があると見せかけるために剣を肩に担いだ。
「おい! いつまで手下に戦わせて、一人コソコソと隠れているつもりだ? いい加減姿を現せよ! チンタラするのは終わりにして、そろそろオレと1対1、サシでヤリ合おうじゃねーか! なあッ?」
笑みを含ませた挑発の言葉に、離れた岩陰から楽しげな笑い声が聞こえてきた。
チラと横目に4班の班員たちが林に逃れたのを認めると、卓也はレモンドたちから距離をとるために一歩・・一歩・・気配のする方向へと歩き出した。
「アオヤマ! 戻れ!」
背中にレモンドの命令がかけられたが、卓也はほんの少し振り返ると顎先で馬を示し、またすぐに前を向いた。
大岩の手前30メートルほどの位置で卓也が足を止めると、クスクスと笑いながら男が姿を見せた。
「楽しそうなお誘いだが、今日は懐かしのキミに挨拶に来ただけなのでね。手合わせは次の機会まで待ってもらおう」
岩陰から現れたのは、背の高い不思議な雰囲気を漂わせた細身の男。騎士には見えないが、腰には剣を佩いている。
地球での習慣なんて知らないだろうに、なぜか両手をあげたホールドアップの姿勢をとっていた。
「懐かしい?」
男のセリフを怪訝に思い、卓也は眉を顰める。そんな反応が楽しいのか、彼は整い過ぎてコワいほどの美しい顔に、場違いなほどの優しげな微笑みを浮かべた。
「そう。実に5年ぶりの再会だ」
嬉しいよ・・・
言葉どおりの意味に受け取れない何かを感じ、卓也は知らぬ間に渾身丸の柄を握る手に力を込めていた。
◇ ◆ ◇
(? ここは・・・)
気付けばボンヤリと佇んでいた。
朦朧とした意識がハッキリしてくるのに従い、徐々に形を定めてゆく見覚えのある街並みに視線をめぐらせる。
靴底の下はザラザラで凸凹の石畳の路面。居並ぶ建物は赤茶色のレンガと飴色の年季の入った木材でできた家々。空も卓也の知っている夕空とは違い、茜色を背景に無粋な黒い電線などはなく、代わりにそれぞれ屋根の上に伸びた煙突から、煮炊きする美味しそうなニオイとともに白い煙が立ち昇っている。
浮き立つ気持ちで記憶をたどって進んでゆくと、夕餉の買い物でガヤガヤとにぎわう商店街に出た。
「なんだ? 見かけない子どもだな。おい、ボウズ。どうした? 母さんにお使いでも頼まれたのか?」
彼方此方に目移りしながら歩いていると、とある一軒の店先にいた恰幅のよい店主らしき男性が、卓也に気づき声をかけてきた。
年の頃なら40代前半、にこやかなその表情がちょっとだけ七福神の・・・・・・えーっと・・サンタクロースみたいに大きな袋と小槌を持った神様に似ている。
彼を見た印象を思い浮かべたところで、ふと、以前もこんな風に彼を見てそう思ったことを思い出した。
(ああ、この光景は12年前と同じだ・・)
近衛隊に入隊が決まり、それまで世話になっていた教会を出て隊寮に移ることになった。そのためにどうしても新生活に必要なものを買わなくてはならなくて、こうして街に出てきたのだ。
手には教会でもらったお下がりの、ボロボロの小さな巾着袋。その財布代わりの袋の中に前借した近衛隊の給金1ヵ月分を入れて、初めてナダフの街で・・自分ひとりで買い物する。
正直、かなり緊張していた。だが最初に声をかけてくれた金物屋の店主・ベリスをはじめ、魚屋のおかみさんのアネットや食堂を営むマスター、ウェイトレス(?)のキャレ。他にも気のいい店主従業員や買い物客たちに時には見守られ、時にはアドバイスを受け、何とか予算内で支度を揃えられた。
皆一様に明るくおおらかに異界の子どもたちを受け入れてくれた。
涙が出そうだった。
どんなに虚勢を張り明るく振舞っても、所詮は子ども。たかだか10歳、10年しか生きていない無知で無力なクソガキだ。
同じ境遇の誰かがそばにいるときならば我慢できる心細さも、独りになると・・いや、これからは一人で乗り越えなければならないんだと思うと、とても怖くてとても寂しかった。
だからナダフの街で暖かく接してもらえたことは、卓也にとって最高のエールだった。
(独りじゃない。たとえこの先元の世界に帰る方法が見つからなかったとしても、オレたちは・・オレは、このヴェクセリオでちゃんと生きていける!)
もちろん家族や浩司たち以外の友達に会えなくなるのはツライ。だけど見知らぬ土地で、自身の手で掴んだものは卓也を精神的に支え、前に向かわせたのだ。
懐かしさに駆られながら、ぶらりぶらりと慣れた道をどこか漠然とした気持ちで歩く。すると急になんの前触れもなくガクンと足元が崩れ、周囲が一粒の光さえも残さずに暗い闇に変わった。
「?!」
『――――――――』
「・・・・・・・・・誰?」
誰かに呼ばれたような気がして、半ば無意識に問いかけていた。
ポツリとこぼれ出た自分の声が、なんだか自分のものではないように感じる。どうしてここにいるのだろうのだろうと考えながら瞬きを繰り返したが、目を開けても閉じても、見えるものは一つもない。
闇、闇、闇。
僅かな明かりさえ見えない漆黒の闇の中、どういうわけか卓也の姿だけがポカリと浮かび上がっている。
「何だよコレ・・・」
四方八方を黒で覆われた場所で、卓也はいつの間にかうつ伏せの状態で十字に貼り付けられ、宙に浮いていた。
『――――――――』
どこからか、愉快そうに弾んだ男の笑い声が聞こえる。聞き覚えのあるその声は・・・
「グウェンか?! テメェの仕業なのか?! とっとと姿を現して、オレをここから出しやがれ!」
両手足を動かそうと試みるが一向に外れる様子はなく、あるかどうかさえもわからない暗い底を見下ろしているだけ。もしかしたら渾身丸の電撃で拘束を焼き切れるかもしれないと考えたが、四肢は肘から先、膝から下が闇に溶け込んでしまっているうえに感覚が曖昧で、ちゃんとそこに存在しているのかも確信できない。
「ロドーッ! ディラーンッ!」
声は出るし叫ぶこともできるが、全く反響しない。空間は果てしなく広いのか、はたまた予想外に狭いのか。
まるで棺桶に詰め込まれたような圧迫感に、息が苦しくなってきた。
「隊長ーッ! エドガーッ! 誰かーッ! 誰もいないのかーッ?! オディオールーッ!」
『――――――――』
「やめろッ!」
気のせいではなく、確かに嘲笑が響く。ヤツはさも全てを知っていると言いたげに、卓也を見下すように笑っていた。
何が目的なのか? 卓也たちをどうしたいのか? 何をさせたいのか?
考えれば考えるほどにわからなくなってきた。
無音な闇に一人囚われているせいか、ひどく心細い。無性に一緒にトリップしてきた四人に会いたくなった。
「チハーッ! こーじーッ! ヨーゥッ! マリモーッ!」
不安定な体勢と身動きを封じられている状況に不安は更に増し、いつしか恐怖に変わる。
こみ上げてくる涙を必死に抑えていると、見下ろしているずっと下方・・・暗闇の底から何かがボコボコとせり上がって来る気配がする。
精一杯集中して目を凝らすと、それはなにやらどす黒い液体のようで――――――
「なッ・・がぼっ! がぼがぼがぼがぼ・・」
微かに粘着性のある液体があっという間に満ちて、卓也は一気に飲み込まれた。
(だ・・誰か、助けて・・・!)
息苦しさに段々と意識が遠くなる。もうダメなのかもしれないと思うと、悲しくて、悔しくて仕方がない。
最後にもう一度四人に会いたい。会って一緒に帰りたかった。
彼らはちゃんと帰れるだろうか? 元の世界に。自分たちがあるべき本当の故郷に。
―――――――――――――――地球に。
「タクヤ! おいタクヤ! おいッて!!」
「!」
突然激しく揺さぶられてハッと目が開く。
網膜に飛び込んできた光が刺すように痛い。慌ててギュッと目を閉じて痛みをやり過ごすと、今度はゆっくりと瞼を持ち上げた。
「いつまで寝てんだよ。いい加減起きて顔を洗え。朝メシ食いはぐるぞ」
薄く開いた瞼の隙間に見えるシルエットは見慣れた人物のものだ。
もそもそと上体を起こすと、ロドは卓也の脇から離れて身支度の続きに取り掛かった。
「明日は王都に帰還か~。やっとマリーさんの顔が見れるッ! ・・・それにしても半月やそこらの調査遠征なんかで本当に何かわかったのか疑問だよなぁ。大雑把なようで慎重なオーガン隊長にしては珍しく勇み足っぽいっていうか。・・つーか、珍しいといえばお前が俺よりも遅く起きるのも変だよな。なんか魘されてたみたいだし。どんな夢見てたんだよ?」
夢・・・?
微かにまだボンヤリと滲む視界でよくよく見れば、ボルヘザーク駐屯基地で与えられた、ロドと相部屋のベッドの上。未だ覚醒しきっていない脳ミソをがんばって回転させ、卓也は現状を思い出した。
グウェンと対峙したのはもう一週間も前だ。なのに、あれから毎晩同じ夢を見ている。
『キミはなぜこのヴェクセリオへ呼ばれたのか、その理由を知っているか?』
あの男が卓也にした問いを思い出す。
何度も何度も繰り返し考え続けている、ヤツのセリフ。だけどどんなに考えても理由なんてわからないし、誰が卓也たちを呼び寄せたのか見当もつかない。
眠ったはずなのに全然疲れが取れていない。ダルい体を叱咤し、卓也は着替えを終えて顔を洗う。待たずに先に食堂へと行ってしまったロドの後を追って部屋を出れば、階段で偶然にもレモンドと顔を合わせた。
「あ・・・おはようございます」
「ああ・・」
彼とはあれ以来なんとも気まずい。レモンドにしてみれば、卓也にハッキリ「子ども扱いはしない」と、「きちんとついてこなければオディオールの顔に泥を塗ることになる」とまで言ったのに、結果を見れば卓也に班全体が助けられてしまった。
一方卓也はというと、グウェンとはほぼ初対面に近い再会なのに、あまりにもヤツが馴れ馴れしい態度だったせいか、身内が引き起こした不始末のように錯覚し、罪悪感に似た後ろめたさを感じていた。
「明日、王都へ戻るんだったな」
「はい。お世話になりました。―――え・・と、あの、ケガした隊員たちは大丈夫ですか?」
食堂へと二人並んで歩きながら、少々遠慮がちに、ケガを負った班員・・ダンたちの容態を訊ねる。戻ってきてからは、とても見舞いをしている余裕などなかったから。
あの日、三人の負傷者を担いで駐屯基地に帰還すると、そこは突付かれた蜂の巣のような慌しさだった。
「ああ。ただ回復魔法を使える者の魔力量に比べてケガ人の人数が多すぎたからか、みんな全快とはいかないがな。重傷者を優先的にある程度回復させて、軽傷者には薬草を配布した。満足できる数は揃えられなかったそうだが・・」
魔法での完全治癒に慣れたヴェクセリオの人間には、寝ても覚めても続く激痛に耐えることはかなり辛いだろう。今もベッドで痛みと戦い、呻き声を上げているに違いない。
レモンドの辛そうに歪められた表情に、卓也の胸は痛んだ。
卓也たちがグウェンの襲撃を受けた日。ほぼ同時刻、警邏の別班5,6班の隊員たちは、『歪』によって正気を失ったと思われる獣や亜人と遭遇したという。
死者こそ出なかったものの負傷者はかなり多く、先述の通り中には回復術をかけても動くことができないほどの重傷を負った者も少なくない。
タイミングがよすぎるグウェンの登場と、ヤツのセリフ。卓也たち4班の連中も『歪』を目撃したが凶暴化した生き物は現れなかった。
その理由は・・・
「やはりあの男が・・グウェン・アダーソンが関係してるのか?」
無意識に足が止まる。レモンドがポツリとこぼした独り言は、まるで卓也を責めているように聞こえたから。
「アオヤマ。お前を責めるつもりはないが・・・あの時アダーソンがお前に向ける楽しそうな笑う顔を見て、私は疑念を抱いた。正直、お前を信じきれない」
「・・・」
「ヤツは『歪』を出現させていた。我々が影響を受けた獣たちに会わなかったのは、ヤツがそう操作したからではないのか?」
距離があったためか、卓也とグウェンとの会話のほとんどはレモンドたちに届かなかったらしい。だからこそ雰囲気や表情から悪い想像が膨らむ。どんなに険しい表情で質問されても答えられない。
渋面をつくり黙り込んでしまった少年に、業を煮やしたらしいレモンドは嘆息すると、卓也をその場に置いたまま先に行ってしまった。
一人残された卓也は、窓の外に眼を向ける。穏やかに晴れた朝の景色や柔らかな日差しも、暗く曇った気持ちを晴らしてくれはしなかった。
◇ ◆ ◇
遡ること一週間前。突然すぎる敵の襲来に、レモンド率いる警邏中の4班は驚愕するばかりで、国軍近衛隊らしい働き一つできなかった。
氷矢での狙撃、正体不明の黒尽くめの剣士たちによる襲撃。―――それらに対し逸早く対峙できたのは、敵が標的と狙う張本人・・・卓也だけだったのだ。
「懐かしの? ・・ってぇことは、お前がグウェンってヤツか?」
現れたのは肩よりも長い白金の髪に、青空の目をした背の高い超絶美青年。きっとミーハーな卓也の姉・芽衣が目の当たりにしたなら、一瞬で失神してしま・・・いや、気を失うなんて勿体無い! とか言って、穴が開くほどに見つめるかもしれない。
微笑を浮かべたグウェンの登場に、卓也は憤りを隠せない。
「手合わせは次だぁ? そのわりにずいぶんと手荒な挨拶だったじゃねーか。こっちは三人も倒されてんだぞ?」
「手荒と言うほどではないだろう? その証拠に一人も殺してはいないのだから。私に言わせていただければ、あの程度で動けなくなるなどふざけている。愚の骨頂だ。騎士を名乗る資格はない」
にこやかだった表情を一変させ、男は侮蔑に満ちたまなざしを卓也の背後の林に向けた。
途端、空気が緊張をはらみ、ビリビリと振動する。
「おい。おかしなマネするなよ。こっちとら警戒レベル120%の臨戦状態なんだ。テメェがさっきみたいな氷の矢を出しやがったら、容赦なく斬りかかるからな」
切っ先を男に向け、挨拶なんて悠長なことなどせず一気に攻撃すると告げると、男は再び卓也に視線を戻し、微笑を浮かべた。
「ククク・・キミは全然変わらない。あの時も私の剣に怯えることなく切っ先の前に飛び出し、愛しの姫君との間の割り込んでくれたんだったな。おかげで彼女を逃してしまったばかりか捕縛され、危うく一生を牢の中で過ごすところだった」
なにがオカシイのか、男は笑う。
「何が言いたい? 何が目的なんだよ?」
苛立つ卓也の気持ちに反応して、渾身丸がパリッパリッと放電する。青白く発光するその刀身をさも楽しそうに見つめたグウェンは、小さく首を横に振った。
「先ほども告げたとおり、今日は本当に挨拶に来ただけだ。キミには前回ステキなプレゼントを頂いたからな、今度はそのお返しをしなければと考えているんだ」
「プレゼントぉ?」
身に覚えのない言葉に、卓也の眉間にシワが寄る。グウェンとは5年前のあの一瞬しか接していない。しかもミランダを庇って背中を向け、ただ一方的に斬られたため、まともに顔を見てもいないのだ。
「テメェにゃバッサリ斬られたときの借りはあっても、プレゼントなんて洒落たモン、くれてやった覚えはねーよ。デタラメ抜かしてんじゃ・・」
「デタラメじゃない。ただキミが気づいていないだけだ」
尚更わからない。彼と真正面から対峙したのも今回が初めてなのに,一体グウェンは何を卓也にもらったと言うのか?
剣を構え、涼しい微笑を浮かべる男を睨みながらも、卓也の頭の中はグルグルとプレゼントの意味を模索していた。
「わからないと言っている表情だな。では証拠をお見せしよう。キミにもらったものと、ソレによって引き起こされるものを」
そういうなり彼は右の手のひらを上に向け、差し出すように、肩の位置まで持ち上げた。
「ほら。これがキミにもらったものだ」
手のひらの上を彼は見ている。だが卓也には何も見えず、ただ困惑した。しかしグウェンの口元がきゅっと弓なりに歪むと、ソレはゆっくりと手のひらを突き破って姿を現した。
「なッ・・」
例えるならば長さ20センチほどの、透き通った水晶の原石。いや、ほのかに白い霧をまとっていることから、きっと氷でできているのだろう。
その中央にはルビーのような真紅の輝きを抱いている。
「中にある赤い光が見えるか?」
「・・・ああ」
グウェンはウットリと、恍惚に満ちたまなざしで手の中を見下ろす。
「それこそがキミにもらったものだ」
「?」
眉を顰めると、グウェンはその氷塊を頭上高く掲げた。
「不可解か? ・・・ではお教えしよう。答えは『血』だ」
血?
「5年前にキミを斬った剣に付着していた、紛れも無いキミの『血』だ」
「!」
思いがけない言葉に目を見張る。愕然と驚きに固まる卓也とは正反対に、グウェンは心底楽しそうに笑い、氷漬けにすることで劣化を防ぎ、更には効力をも抑えていると得意げに告げた。
「さすがは選ばれし者。たったこれだけで、どれだけの効果があるかわかるか? 『世界』を揺り動かす存在は、その一欠けらにも力を帯びている。あの者が言っていたのは本当のことだった。――――――――さあ見たまえ。そして自覚するんだ。キミがもたらした事実を!」
(あの者・・?)
ビキッ・・
思考をさえぎる鋭い音が響く。例えるなら、冬場、湖に張った氷に突然ヒビが走ったときのような、控えめでいて鋭い、破壊の音。
周囲はのどかな緑の風景。氷の張るような水辺は見当たらないし、そもそも氷が張るような季節ではない。
嫌な予感に胸を騒がせ、氷塊に集中する。その間も辺りに再び生木を裂くような音が鳴り響いている。何度も何度も。大音量で。
バチッ! ビシビシッ・・パリッ!
不穏な音に、背筋に嫌なものが這い上がる。音源を捜して首をめぐらせ、発見したそれはグウェンの手のひらから4ミグル(2メートル)ぐらいの高さ・・・空中にとどまる、直径5センチほどの小さな黒い球体だった。
球の周りを、太陽のコロナみたいな光線が纏わりつくように走る。その度にパリッ! ピシッ! とラップ音っぽい音が鳴った。
「あれは・・?」
警戒心に、いつでも斬りかかれるよう得物を構える。先手必勝とも考えたが、
「よせ! アオヤマ!」
レモンドの制止に卓也の手が止まる。が、その途端ビー玉ほどだった黒い球体はブワッと赤く発光すると、急激に姿を変え始めた。
ビキッ! ビシビシビシビシッ!
もの凄い速度で種が発芽したみたいに、それを中心に一気に根のような黒いヒビが空間に広がってゆく。それに伴い、ピ―――・・と細く高い耳鳴りのような音が鼓膜を振るわせた。
「ツぅ! 何だ、この音はッ?!」
卓也は反射的に耳を塞いだ。
側頭部がキリキリと傷むほどの甲高い音に、卓也は瞬時に地球で言うところの超音波を思い浮かべた。もしやアレが『歪』で、この音波が獣や亜人、そして人間さえも狂わせている原因なのでは・・・?
振り返り林に身を隠す4班の連中を見れば、彼らも皆耳を押さえ悶えていた。
「皆早くここから離れるんだ! あの音が届かないところまで! 早く!」
敵襲を想像してここから離れなければという卓也の叫びに、レモンドは退避の命令を叫んだ。
魔法庁からまわしてもらった状態異常を防ぐマジックツールのおかげで、隊員はもちろん馬も今のところ正気を失わなかった。だが、この先も大丈夫だと言う保証はない以上ここから離れた方がいいのだ。
なのに不快な音と異変に怯えた馬たちは、主たちの指示に従えない。
早くこの場所から脱出しないと、影響の範囲がどのくらいなのかはわからないが、音波に狂わされた獣たちが襲撃して来るかもしれない。
やっと隊員たちが各々の愛馬を宥め、傷む耳を押さえながら必死で移動し始めた頃には、『歪』はミシミシといやな音を響かせたヒビを広げて、半径1メートルほどの大きさになっていた。
「ふふふ・・ステキだろう? 心配せずともこの『歪』には何の影響力も無い。キミに見せるのが目的だからな。だけどこれでわかってもらえただろう? キミにどれだけの力が秘められているのか・・」
「嘘ついてんじゃねーよ! アホか、オレにはカケラも魔力は無・・」
「魔力ではない。ちゃんと聞いていなかったのか? キミ自身に備わっているん・・いや、キミの存在そのものが力なんだ」
否定は遮られ、卓也には理解し難いことを、さも当然のように繰り返される。
卓也の存在自体が、このヴェクセリオ全体を揺るがすほどの力。
力の源どころか、力そのもの。
選ばれし者――――――
「・・・・・・・・・・・・・・・ぷッ」
きゅっと引き結んでいた唇の端から、思わず空気が漏れる。それを皮切りに考えれば考えるほど、自分にはあまりにも不似合いな『選ばれし者』という響きに、笑いがこみ上げてきて我慢できない。
卓也は場違いにも、腹を抱えて爆笑した。
「ひー・・ハハハッ! やめてくれよ。ありえねー、なに? その厨二的発言! "選ばれし者"とかナイわー」
「・・・」
「じゃあ、なにか? オレがその気になったら世界征服も夢じゃねーって?」
「・・・」
「そんな世界の覇者のオレに、アンタは何をお返ししてくれるんだよ? 金か? キレイなお姉さんか? ・・・悪いがオレはそんなモノ欲しく無い。ま、強いて言うならその血を返してもらおうか」
『歪』の原因が氷漬けのオレの血だというのなら、ヤツから取り上げれば万事解決だと思った。
さあ渡せと言わんばかりに手を差し出せば、瞬間僅かに目を見開いたグウェンは、小さく嘆息してゆるゆると首を横に振った。
「残念ながら、それはできない。それにこの血をキミに返したとしても、何も変わりはしない」
一旦は俯けた顔を上げ、グウェンは再び笑う。先ほどまでのものとは違い、今度の笑顔には冷たい皮肉の色が微かに宿っているのを感じた。
万が一にも彼が『歪』を使って何かしらの行動を起こした場合に備え、卓也は渾身丸を左手に持ち替え、利き手の手のひらにかいた汗をズボンで拭った。
「なんだよ。プレゼントのお返しなんだろう? 本人の望むものを寄越せよ」
「本当にキミは理解してくれないんだな。・・してくれないんじゃなく、できないのか? この血は大きな力のホンの一欠片、キミ全部、キミ全身の何千、何万分の一なんだ」
気が変わったのかグウェンは掲げていた腕を下ろす。すると同時にバリバリと嫌な音を発し、木の根のように四方へとヒビを広げていた『歪』が休息に収縮し――――――何事もなかったように姿を消した。
「キミへのお返しも、手合わせ同様この次の機会にするとしよう。どうやら混乱しているようだしな。ただ最後に一つだけ。・・・・・・キミはなぜこの世界に呼ばれたのか、その理由を知っているか?」
誰に呼ばれたのか、そしてその対価が何か、を。
頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。
「呼ば・・れた?」
「そうだ。――――――、知らなかったのか?」
予想もしなかった告白に頭の中が真っ白になった。
訝しげに顰められたグウェンの視線がひどく不快で、無意識に目をそらす。だがその仕草こそが卓也の正直な答えとなり、彼に確信を与えた。
「そうか、その様子からすると、本当に知らなかったんだな。そうか・・・そうか」
一人納得したように頷いているヤツがムカつく。しかし卓也はすぐに思い直した。自分が知らないことをこの男が知っている。ならば聞き出せばいいのだ。
眼前の涼しい顔をギラリと睨むと、強硬手段に出るために、柄を握る手に力を込めた。
――――――が、駆け出す直前、
「アオヤマ! 後ろだ!」
突如叫ぶようにかけられたレモンドの声に、咄嗟に横へ体をそらす。コンマの差で背後から振り下ろされた剣をかわすと、襲い掛かってきたヤツの首めがけて渾身丸を突き入れた。
「ッ!」
後ろから襲撃してきたのは、先ほど昏倒させたと思っていた黒剣士の一人。
まっすぐに喉仏を貫き、項から伸びた剣の先がチリチリと、切っ先を汚したものを焦がした。
「お見事。さすが、キミだけは腑抜けたほかの隊員たちとは違う」
手下がやられたと言うのにグウェンは満足そうに目を細め、先ほどまでは氷塊を浮かべていた手のひらで、見えない何かをひねり握りつぶすように拳を握った。すると、その動作と同時に喉を貫かれた黒剣士が黒い煤のように霧散して消え、同じく離れた場所で倒れていた二人の黒剣士たちも、ただの塵となって草原に散らばった。
「お前、今なにを・・・」
たった今まで確かに感じていたはずの、剣に掛かる重みが消えた事実に信じられないまなざしでグウェンを見つめるが、彼は微かに肩を竦めて笑うだけだ。
「部下を殺したのか・・?」
「殺す? いいや、殺してなどいない。はじめから彼らは生きていないのだから、殺すことなど不可能なのだよ」
「不可能・・?」
「ああ。彼らは私が作った人形なのだから。用が済めば廃棄・・それだけのこと」
あれだけの剣の腕を持っていながら、黒剣士たちはグウェンが作り出した傀儡だと言う。確かにグウェン・アダーソンは高い魔力保持者だと聞いていたが、あんなにも滑らかに動くヒトカタを作ることができるなど、想像すらしていなかった。
「残念だが今日はここまでで引こう。十分挨拶もできたことだし。ではタクヤ・アオヤマ。次は王都で」
グウェンの魔力が想像以上であったことに呆然とする卓也を放っておき、彼は何かを口中でつぶやき唱えると、左手で自身の頭上に円陣を描いた。
「待て! オレはまだテメェに訊きたいことがあるんだ!」
ハッと我に返り、それが転移魔法だと気付いた瞬間、地面を蹴って駆け出した。
「ああ、そうだ。私はこのままボルヘザークを離れるので、侯爵やミランダ様によろしく伝えておいてくれ」
「グウェン! 逃げるんじゃねぇぇぇッ!」
「あなた方への恨みがあればこそ、私は一片の躊躇もなく人としての心を・・罪への呵責を捨て、悪役になることができた。感謝してます。と、ね」
グウェンの胸襟を掴んだはずの、卓也の右手が空を握る。男が存在していた場所は一瞬にしてもぬけの殻になり、足元には踏み潰された草が残されているだけだった。
「~~~、チクショウッ!」
掴み損ねた手を見つめる。
卓也たちをここに呼び出した存在。
自分がここに呼ばれた理由。
そして、異界に渡ったことで発生したとされる対価。
『歪』の発生原因を突き止めはしたが、まんまと犯人には逃げられ、謎ばかりが手元に残った。しかもダルバン中を恐怖に陥れる『歪』は、"選ばれし者"であるらしい卓也の血を使って発現させていた。
要するに卓也自身が『歪』の原因だったのだ。
「・・・洒落になんねーな」
レモンドたちが駆けつけてくるまでの僅かな時間、卓也は一人項垂れ、マメだらけになった手のひらを見つめ続けていた。
この時の卓也は、知らされた衝撃の新事実に気をとられ、グウェンの「次は王都で」の意味をちゃんと考えなかったことを、後に深く後悔する羽目になるなど、予想すらしなかった。
後編に続きます。