第1話
「醜い」
肌身凍てつく雪日和。
止む事を知らない無垢な白雪が降り注ぐ小さな村で、女が少年に投げかけた最初の言葉だった。
確かに、極限の寒さの中、渇いた血が染み込んだ白シャツ一枚と黒色の半ズボンを纏っただけの彼の姿はあまりにも痛々しい。飢えを凌ぐ為、彼は壊死寸前の凍傷の手で地面に積もった雪を一杯に掴み、むしゃむしゃと貪り食う。手から血がある程度滲み出てきたらシャツで吹く、正しく『醜い』行為を少年は延々と繰り返していたようだ。
古び、色褪せた長屋に凭れるその白髪の少年は、己の前に立つ辛辣な一言を浴びせた女の顔へと視線を向ける。
通りすがる村人達が腐敗し、汚濁した害虫を見るかの様な眼で彼を睨みつける。
だが彼女は違った。
顔立ち、髪色、着衣、態度—
どれを取っても汚れ一つ見当たらない程の凛とした女。
縁なし眼鏡の奥の丸く、くりっとした茶色い瞳からはごみを見る突き刺さる視線ではなく、『子供』と接する時に送る優愛溢れる視線が彼の死んだ魚の様な目に直接放たれていた。
片耳を出しつつ、全体的に横に流し、横から後ろにかけての髪を銀色のシュシュで結び上げられたベージュ色の髪型は彼女の小顔に良く似合う。
袴に似た黒装束の上に厚めの長いねずみ色の布を羽織り、水色の帯を腰に巻き施した服装は少年にとって、見た事もない容姿だった。
「目は心を鏡の様に写し出すとは良く言ったものですね。あなたの眼は途轍もなく醜い・・・地獄を彷徨い、淘汰された者の目」
彼女は少し笑みを浮かべながら蔑みの言葉を吐くが、彼は何も言わずに、ひたすら雪を一杯に掴み、がつがつとかぶりつく。
「・・・哀れな子。全くもって無様ですね」
次の瞬間—
閃光の如く放たれた一太刀が、女の視界を瞬間的に過ったー
常人であれば斬首されていたであろうが、彼女は全く動じてはいなかった。
彼女はただ単に、躱しただけだった。
少年が彼女の顔面に目掛けて放った渾身の斬撃を、何事も無かったかの様に横へ一歩動き、無様にも少年は彼女の斜め後ろへと倒れ込んだ。
「やれやれ、困りましたね。暴れ回る化け物が居ると聞いてそいつを殺しにきたんですけど」
影から飛び出した少年を、女は鋭い観察眼で彼の思惑を瞬時に読み取る。
痩せ細った手足。
悔しそうに握る錆び、刃毀れした包丁。
先程までの少年の行動—
「ただの飢えに困った可哀想な狂犬ではありませんか」
ハァハァと苦しそうに息を吸い込む少年に歩み寄ると、手に握る紺色の傘をガシっと彼の横に突き立てる。
まさに意味不明の手本とも言えるその行動を目にした少年は困惑しながら女を睨む。
「・・・何する気だ・・・あんた・・・」
「驚きましたね。喋るんですね、野良犬のくせに」
落ち着いた態度で毒を吐きながら、羽織りの下に隠れていた左手を目の前に誘導する。
少年はその手をじっと見つめた。
じっと、じっと。
—・・・・え・・・・?
一文字が彼の頭の中を刹那にして過る。
シュウウウウゥゥゥ・・・・・・
何の前触れもなく、炎の様に自由気ままに流動する半透明の緑色のエネルギーが、彼女の手を覆う様に忽然と姿を現わしたのだ。
「後少しで楽にしてあげますからね」
彼女は笑顔でそう言いながら、彼の頭に左手を伸ばす。
『化け物め!!!さっさと死ねぇ!!!』
大群にそう罵られながら生きたまま焼き殺されそうになった一夜。
『寄るんじゃねぇ、半神風情が!!!』
食物も恵んでもらえず、刃物で斬りつけられ、追い返された日。
『気持ち悪い・・・』『消えろ・・・』『ゴミ・・・』
何処にいても存在しているだけで放たれた幾千もの罵声の矢。
数多の生き地獄の記憶が脳内を旋回し、今まで受けた心の傷がまた引き裂かれ、広がっていく。
「・・・・・・・殺せよ・・・・・」
齢十歳弱の子供が発するにはあまりに切ない一言に不意を突かれ、女の表情が些か曇る。
己の最後を悟る様に、彼の人外な緋色の眼からはポロポロと涙が流れ落ちる。
「もう・・・・・死にてぇよ・・・・」
歯を食いしばり、声を殺して泣く少年の姿に一欠片も悲哀の情を見せず、彼女は手を伸ばし続ける。
—そして、彼女の魔の手はついに少年の頭へと到達するー
不思議な感情が流れ込んでいく。
それは、少年が長らく浸れなかった泉—
そう、『愛情』という神秘な感情。愛情は、粉砕され、崩れかけた彼の心という名の砦を瞬く間に再構築させ、溢れ出る涙に終止符を打つ。
彼の手を蝕み、細胞を死滅させ続けた凍傷が徐々に赤黒さを失い、肌色へと変わってゆく。
「死に損ないの子供の首を掻っ斬るなんて蛮行は生憎私の性分ではありませんのでね」
少年は徐に口を開いた彼女の瞳をじっと見つめた。
衝撃だったー
右の瞳は紅蓮色に輝き、白目は漆黒に染まっていた。普段の彼女からでは読み取れないズタズタに斬り刻まれた心を具現化したかの様に赤い皹模様が白目にかけて広がっていた。同じ赤眼を持つ少年でも、眼が語る過去の重さは明らかに彼女の方が上であると、思わざるを得なかった。
「さっき『死にたい』と言いましたよね?」
女が優しく問いかける。
「・・・え・・・・」
「私ね、最高に気持ち良い死に方を知っているんですよ。冥土の土産に教えてあげましょうか?」
「・・・・・いいよ・・・・・べつに」
これ以上関わりたくないのか、単純に照れているのか、はたまたその両方の感情が入り混じった様な口調でぼそっと言う。
「あら残念」
左手の炎的な何かがスっと消えたのを確認すると、彼女は突き刺した傘を再び手に取る。
立ち上がると、彼女は少年を跨いでその場から歩み去る。
「知りたければ付いて来なさい。まあ、無理強いはしませんがね。嫌ならそこで腐りかけのぼろ雑巾の様に適当に死んでおきなさい」
無慈悲とも思える発言だった。
しかし、その声の、その言葉の裏には少年が浴びせられてきた罵声と違い、確かに『温もり』が籠っていた。
少年は数秒迷った。
そして、決めたのだ。
女が示した薄暗く、鈍く光る灯火という名の道標に従う事に。
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「拍羅!」
そこは、ある建物の一室。
濃い茶色の長方型の机と黒い椅子。
水色のふかふかなソファ。
小説等がずっしりと積み込まれた茶色い本棚。
これら全てが白い壁に覆われた広々とした空間に悠々と立つ。
少し大きめの窓からは、曇り気味の夜空の下、提灯が放つ赤橙色に染まった、がやついた商店街の景色が広がる。
しかし、そんな人々のざわめきを気にする事もなく、ベージュ色の髪の女は本棚の前に立ち、ある一冊のアルバムを和かに眺める。
「おーい、拍羅ぁ」
やっと聞こえたのか、『拍羅』という名を持つ彼女は声の発生源へと顔を向ける。
少々低めの、勇ましい声は完璧という程に彼女の容姿にぴったりだった。
整った拍羅の髪型とは違い、ボサボサの黒髪を裏腿まで長引かせた女の口には金色の煙管が咥えられていた。ピシっと水色の帯で決まっている拍羅の袴の様な服装とは対照的に、女は右足が露出させるのを可能にさせた、良い具合に破れかけた黒の行灯袴を穿き、たわわに実った胸をさらしで雑に巻いただけという至って簡素な黒装束の着方を着こなす。雑に羽織る白羽織も彼女が纏う黒装束同様に少々破れてはいたが、無造作に広がる流れ去る炎の様な小さな模様は少しではあるが厳つさを演出させた。
「ああ、皐月ですか」
『皐月』。
そう呼ばれた女は、煙管を手に取り、ふぅーっと煙を吐き出す。
「珍しいな、お前がぼーっとするなんて」
「何戯言言ってるんですか、この私がぼーっとなんてする訳ないでしょう。少し思い出に浸っていただけです」
「ふーん」
『何見てんだろ』と思いながら、皐月は拍羅へ近寄り、アルバムを覗く。
数ある写真の中、『これだろう』と思った一枚を見つけ出す。
夕暮れの空の下、大きな筆で『滅神衆』と書かれた江戸風の門の前にて立つ六人の人影。
満面の笑みを浮かべる二人の少女—
美しい茶色の長髪が魅力的な、麦わら帽子を被り、薄い水色のワンピースを着た少女。
赤髪の短髪に加えられた白いハイライトも緑色の瞳も印象的な黒のタンクトップとショートパンツを着用する少々男前の少女—
その二人の頭を撫でながら、笑顔で煙管を咥える皐月。
隣には左手でピースサインをし、笑顔を見せる拍羅。
そして両側で視線を正反対の方向へと向け、ムスっとする二人の少年。
腕を組み、歯を噛み締める桜色の短髪が良く似合う、海松色のカーゴパンツを穿いた半裸の少年。
そして、顔が泥だらけの黒色のシャツと水色のハープパンツを着た、髪が微妙に長い白髪の少年。
「あー懐かしい!!」
気分上々に皐月が言う。
「こいつらがまだ十歳くらいの時じゃね?」
「愁愛湖に遊びに行った後に撮った写真ですから、まあ大体そうですね」
「あん時凄かったよなぁ!蓮と美咲が釣り勝負してさ、そんで美咲が湖の主釣り上げー」
「そうなんですよ!!!そうしたら二人とも喧嘩するもんだから大和が喧嘩止めに入るも結局巻き添え食らってキレて三人共喧嘩になって楓が怯えるものですから私が止めに入ろうとすると椿が楓と入れ替わって喧嘩止めに入るもまた巻き添え食らうもんですから最終的に四人共全員喧嘩するんで私止めようとしたんですけどあの子達が喧嘩する光景ってなんか猫の餌の取り合いみたいでもう無様で可愛くて仕方なくてー」
「拍羅・・・拍羅・・・」
『ハッ!』と我に戻った彼女。半目で見つめる皐月の顔面をチラッと見た後、何事も無かったように痰も詰まっていないのにゴホっと咳払いをし、鼻筋を降下してもいない眼鏡をクイっと上げる。
「お前ホントいつもクールなのにあいつらの話し出すとなんか品格ダダ落ちだよな」
「良い年して娼婦みたいな格好してる人が品格を語りますか」
「ファッションだこれは。色気ムンムンだろうが」
「解せませんね」
「お前の貧相な乳じゃ無理だからな」
「斬り刻みますよ」
「やれる前にお前を粉砕してやるよ」
真顔で睨み合う二人。
だが、十秒もしない間に二人の顔には笑みが広がり、プッっと堪えていた笑いが口から飛び出てしまう。
「なんか久しぶりだなぁ、このやり取り。あいつらが来てから全くこういうの無かったからなぁ」
「人生の先輩としての手本であらねばなりませんから」
煙管で一服すると、皐月は何とも清々しい気分に浸りながら副流煙を撒き散らす。
「はぁ・・あいつら来てから十年も経つのかよ・・」
「十年・・・経ちましたね」
皐月は拍羅の肩に顎を乗せ、愚痴をこぼす。
「あーあ、昔は可愛かったのになぁ。なぁ知ってるか?俺がいなきゃ楓と美咲夜はションベンにすら行けなかったんだぞ?そんな小娘共がだよ、今じゃ駆け出しの神殺よ。年は食いたくねぇもんだなぁ」
「何言ってるんですか、私もあなたもまだ百年近くしか生きてないでしょう。私もあなたもあの子達も、まだまだ寝ションベンダダ漏れの糞餓鬼ですよ」
「違ぇねぇや」
皐月がニシシと笑う。
「第一あんなの神殺なんて呼べませんよ、神器も道術もまだロクに使いこなせないクセに」
「まあそう言うなって、入隊一週間目でいきなり四人共単独任務に行かせたのもあいつらを少しでも強くさせる為だろ?」
「当たり前ですよ。そうでもしないと瞬殺されますから」
表情を暗め、拍羅が呟く。
「大神格と神王格の神に」
拍羅の少しばかりかかった緊張を、彼女の肩に顎を乗せていた皐月は瞬時にそれを読み取り、視線を窓の外へと送る。
綺麗な橙色が点々と暗闇を照らす中、和太鼓と笛の音が奏でる和の美曲が大音量で、優雅に流れる。人々の楽しげな笑い声が混じり、歓喜的な雰囲気を作り出す中、皐月はある『何か』を感じていた。
それはどす黒く、まるでこの輝かしい一夜を瞬間的に混沌と絶望に陥れようとする『狂気』にも似た嫌な予感だった。
戦場を駆る職業柄、常に『何かが起きる』という癖がまとわりついてしまう。
—考えすぎか・・・?
恐らく拍羅も同じ考えであろうと推測した皐月は淀みつつある空気を変えようと、安堵の言葉を投げかける。
「心配いらねぇさ、今まで誰があいつらに殺神術教えてやったと思ってんだ」
「だから心配なんですよ、楓と大和はともかく、蓮と美咲の戦闘スタイルはあなたにそっくりですから。猿猴みたいに闇雲に突っ込んでだらしない」
「拍羅ちゃん、それどういう意味かな?」
少々苛ついた口調でツッコむと、皐月は『また出たよ、こいつの悪いクセ』と言わんばかりにため息をつく。
「お前はいつも頭堅いんだよ。たまには息抜きしねぇと顔面シワ塗れになんぞ」
「心配無用です、治癒道術でそんなもの幾らでも治せますから」
「だからなぁ・・・・」
後頭部をポリポリと掻くと、ある事を思いつく。
「なあ、お前今日何の日か知ってるか?」
「そう言えば昨日のあなたの隊の劣神討伐任務の報告書の提出期限今日まででしたよね?もう終わりましたか」
「ああやってねぇや今夜中には終わらせるーってそうじゃねぇよ!」
いじり倒され、疲れたのか皐月はソファに座り込み、口から煙を『スゥー』っと吐き出す。
「お前ぇの誕生日だろうが」
「あら、覚えてくれてたんですか?嬉しいですね」
皮肉混じりな発言に皐月はイラっとする。
「だからまぁ何だ。久々に二人で呑みに行かねぇか?ほら、たまには息抜きも必要だろ?」
「何言ってんですか、私もあなたも隊長格ですよ?そんな暇ないですし、それに人民を護る神殺
としてそんな事に現を抜かす等言語道断です」
即答の拒否発言が彼女の口から矢の様に飛び出す。しかし負けじと皐月も応戦する。
「神楽祭りなんて劣神共にとっちゃ絶好の餌場だぜ?あいつらから市民を護るのが俺達神殺の役目ってんならこれ以上適した任務他にねぇよ」
「『任務』と書いて『遊び』でしょう?」
「いやいや、任務も兼ねた遊びだ!」
澄んだ瞳で拍羅を見る。
「・・・・行きません」
アルバムをじっと見ながら拍羅が断言する。
「・・・・あそ」
腰を掛けていた皐月はゆっくりと立ち上がり、部屋の扉に向かって歩む。
「楓と美咲と大和と蓮今日帰ってくるのになぁ」
ぴくっと反応した拍羅の表情が曇る。
「初長期任務達成祝いだって言って実は女二人はもう商店街に居るんだよなぁ」
「・・・・・・・・・」
「楓と美咲が『拍姉に会うの一週間ぶりだから楽しみにしてる!!』っ言ってたのになぁ」
わなわなと彼女の手が震える。
「大和も蓮も初任務終わって逞しくなっただろうに・・・確かあいつらも帰還済みだった様な・・・うん、やっぱここは保護者として褒めて祝ってやるのが大人—」
バン!!!!!!
瞬時にアルバムを仕舞うと、彼女はクイっと眼鏡を上げる。
「最近は劣神の出現がやたらと多いですからね。たまには隊長である私達が出向くのも仕事の一環でしょう」
「けっ、素直じゃねぇな」
「皐月、身動きが取れる浴衣を直ぐに黛副隊長から拝借してください。五分で支度しますよ」
「へーいへい」
適当に返事をした皐月は、手をドアノブへ伸ばす。
「皐月」
「・・・・・・ん?」
子供の話をしていた陽気な二人が醸し出していた空気が、ガラリと変わる。
「・・・今日は、背一杯あの子達を祝福してあげましょうね」
窓を向いた拍羅は、この特別な日の行く末を心配し過ぎているのか、体が少し震えだす。しかし、皐月だけはその震えがある二つの物を象徴している事を知っていた。
『覚悟』と『勘』だ。
「お前の勘は一々当たるからいけねぇや」
「・・・」
「心配しなくても何も起きねぇよ。少なくとも今日は・・・今日だけは、残念だけどその勘は頼りにならねぇぞ」
「そうですね」
安心したのか、拍羅の表情が少し和らぐ。
「それに今日はお前の誕生日も兼ねてるって事、覚えとけよ相棒」
「すみません・・・ありがとうございます」
皐月が不敵な笑みを浮かべると、扉を開け、去り際に彼女なりに安堵の言葉をかける。
「ま、今夜はとことん呑もうや」