■野本の隠し事(ワインと論文とあれやこれや)、シッポを掴まれた
インターホンが鳴ったとき、野本は夕食の真っ最中だった。
と、いっても彼女の夕食は往々にして酒とそのつまみ、それだけだ。
「はい、食事中はなにもかも、無視」
熱々のツブ貝のガーリックバターソースをフランスパンに染み込ませ、冷めないうちに食べるのが好みだ。
そのあとに白ワインで喉を流すその一時は至福そのもの。
「んー、やっぱりこうじゃないと」
独り言を言いながら食べる野本は、インターホンを鳴らし続ける来客を完全に無視し、自分のこと優先で事を運ぶ。
「おい、いるなら出ろ。何回も鳴らしてるのに失礼なやつだな」
振り返るとそこには、田ノ木。しかめっ面をして、リビングに向かってくるところだった。
「やだ、ちょっとあんた何やってんのよこれって不法侵入に値するんじゃなくって?警察のくせに一般庶民の家に勝手に上がり込むなんて、最低!警察に電話しよ」
「警察はここにいる。いいのかそんなことして?オーストラリアの件で挙げるぞ」
携帯電話を手に取ったところで田ノ木がきつい一言をのんびりと言いつけてきた。
「何言ってんのよ、何それ一体なんの話?」
野本はしきりに髪を触り、鼻に指をやる。
「人はなぁ、やましいことがあるとそういうふうに髪を触ったり鼻を触ったりするんだ。ばらされたくなかったらいいから話を聞け」
テーブルに目をやった田ノ木は、喉をゴクリと鳴らし、野本の前に勝手に座った。
「誰も座っていいって言ってないけど?」
「うまそうなもん食ってんな。俺なんか今日はあんパン一つと豆乳ココア一パックだけだぞ」
「何そのジジくさいエサ・・・やめてよね、まずくなるから」
あからさまに嫌そうな顔をした野本に、人の食事をエサとはなんだ!と憤慨する田ノ木は、ツブ貝をちらりと見てまたも喉を鳴らした。
「・・・じゃ、どうぞ、ほら」
そんな田ノ木を不憫に思ってか、フランスパンをちぎって皿に乗せ、スプーンを差し出した。
「いや、結構」
「あんたね、人が食べなさいって言ってんのに拒否するわけ?あ、そ。私の作ったものは食べられないってことね?」
「これ、お前が作ったのか?」
「パンとワイン以外はね」
パンとツブ貝とスプーンを交互に見ている田ノ木に一瞥くれると、こうやって食べるのよと言わんばかりに野本が先に食べて見せた。
こんな簡単なものを・・・バカじゃないのと腹で思う野本は、気付かれないように田ノ木を観察する。
「うまい」
子供みたいな笑顔をするおやじの顔は、いつも口をへの字に曲げてふてくされている顔からは想像出来なかった。
「王と白戸と連絡がつかなくなった」
あら、このワインもおいしいわぁ。とでも言うように、簡単に言えないことを簡単に言った。
「・・・どういうことよ」
白戸には昼間会った。そして、聞きたいことは聞いたし、(あまり収穫は無かったが)邪魔だからと帰したところまでは大丈夫よね、問題はその後だったか。
その後、なんらかの手段を使って王と落ち合ったとか?
クソ、失敗した。帰すんじゃなかったか。
野本は目を伏せて口だけを動かしてパンをよく噛み、飲み込むのに時間をかけた。
「お前、なんか知ってんじゃないのか?知ってたら言ってくれ。どうにもこうにも接点がつかめない」
「くされ警察ね、何もできないんじゃない」
「嫌みを言うのもいい。でもな、あの女性は未だ意識が戻らないし、危ないかもしれない。もしかしたらあの女性を狙って誰かが病院に忍び込むかもしれない。カギを掴んでるのは彼女だから、意識が戻る前に口封じといくかもしれん」
「じゃ、しっかり警備でもしなさいよ、誰でもかれでも入れないでさぁ」
「どういうことだ?」
「なにが」
「誰でもかれでも入れないでって、どういうことだ?」
「例えばの話じゃない」
野本は気付かれないようにワインをグラスに注ぎ、注意をそっちに向けた。
「交換条件といこう」
「あら残念。こっちには交換することなんて何もない」
「あの女性とはどういう関係だ?それを言えば、お前がオーストラリアの大学の数学特別客員教授として籍をおいていて、研究費を私用に使い込み、日本の大学でも貰っている研究費の一部をもワインにつぎ込んでいるっていう事実は、伏せてやる」
なんでその情報をこの刑事が知っているのか、唖然とする野本の顔の筋肉は弛緩しきり、頭の中は真っ白になった。
絶対に私しか知らない情報だからだ。勿論、報告書の類だってぬかりはなかったはずだ。
「ちょっ・・・調べたわけ?何考えてんのよあんた、そんなことして」
髪をかきあげ席を立ち、そのへんを左右に行ったり来たりする野本は落ち着きを無くしていた。
そりゃそうだ。今後の進退がそれはそれは大きくのしかかるのだから。
「・・・たいしたことじゃない」
開き直った野本は席に座り直し、弾き出した答えを叩き出す準備を整えた。
「根上とも連絡が取れない。しかもあいつの乗っていたパトカーには血痕と靴が片一方だけ残されていた。車は放置され、根上は姿を消した」
弾き出した答えは宇宙の彼方へ数字となって消えて行った。
無言になった室内は、なんともいえない緊張感だけが漂い、ひとまず口にしたワインはただのアルコール消毒液のような香りしかしなくなっていた。
「王、白戸、根上の失踪は、これは偶然じゃないだろうと俺は思う」
「白戸さんとは昼間会ったのに、その後で・・・」
「会っただと?」
しまったと口元に手をやるが、時既に遅し。一度口から弾き出した言葉は、相手の耳に届いた時点で相手のものになる。
溜息を大きくつき、野本は仕方なしに、昼間の出来事を田ノ木に1から話した。
「そうなると、幸元も危なくなる」
それに否定できない自分がいて、こうなってくると自分も、桜坂も、安西までもが危なくなるのではないかという警鐘が野本の頭の中に響き渡った。
「・・・トキも危ないじゃない。病院にいたってそんなの簡単に入ってこれるわけだし・・・」
独り言も側に聞く人がいれば、それは独り言とは言えない。
「その通りだ」
「どうしよう、どうやったらこのゲームの犯人にたどり着ける?いなくなったのは今のところ3人、でも誰が?どうして?」
ぶつぶつと言葉を発する野本のことを、罠にかかった狐をしてやったとばかりに眺めている田ノ木は、今のところ口を挟まないでいた。
「容疑者だった王がいないということは、彼がみんなを拉致したのか、それとも第三者が関わっているのか・・・」
「そのカギを握ってるのはお前だろう?」
田ノ木の言った一言に、今まで自分の頭の中で、頭の中にいる『私』と対話をしていた野本は、目で見える世界に引き戻されたことに始めて気が付いた。
「今なんて?」
「意識の戻らない女性の名前をなんでお前が知ってるんだ?」
シッポを掴まれた。
言い逃れができないことに気付く野本は、こんな簡単な罠に引っかかった自分に嫌気がさし、顔を汚く歪めた。
「そこがもう一つのカギの部分だ。お前がなんであの病院に一人で来たのか、その理由が聞きたい。でものんびりしている時間はないから、車の中で聞かせて貰う」
おもむろに席を立つと野本の腕をひっつかみ、そのまま玄関へと引っ張っていく。
「ちょっと!触らないでよこの変態」
「50過ぎのおばさんに変なことをする気はないから安心しろ」
「ほんと、このクソタヌキ!」
「・・・その呼び方は俺が子供の頃にみんなから言われた言葉だ。それで何度泣かされたことか。いじめられるのは辛いもんだぞ」
え?泣いたの?うそ。
少しだけ申し訳なくなった野本は抵抗する体の力を少しだけ緩めた。
そんな野本を田ノ木はしてやったりと、見えないように口元を歪めた。