■行き違い、すれ違い、勘違い
「うるっさいのよ!」
じたばたと泣き叫ぶ王の子供を怒鳴りとばす幸元の顔は、鬼のような表情だ。
その声にびくりとなった子供は次の瞬間には鳴き声を更に上げ、わんわんと耳障りな声でけたたましく泣き始めた。
子供の横っ面を引っぱたこうとした幸元の腕を王が間一髪抑え、その行為に子供は恐怖を覚え、ぴたりと声を上げるのをやめた。
「すいません。よく言って聞かせますから」
頭を下げて伏し目がちになる王のまつげは、人形のように長かった。
細い体からは想像がつかないほどに力が強い。
いまだ鳴りっぱなしの携帯電話はようやく留守電に繋がり、ぐずる子供の声もすでにおとなしくなり、やっと部屋の中に静けさが戻った。
強く掴まれた手を払いのけ、窓際へ歩き呼吸を整える幸元は、誰かつけてきていないかと窓の外を伺うが、ここからじゃ1階のロビーまでは確認できない事実に気づき、自分の気持ちを落ち着かせるために深呼吸を一つついた。
窓側に置かれた椅子に深く腰を預けて床の一点をじっと見たまま動かない。
そんな幸元の近くに寄ってきた王は、腕を後ろで組み、ほどよい距離を取って用心棒のように立ち続けていた。
「・・・ごめん」
床を見たまま謝った幸元に、気にしないで下さいとやさしい口調で言う。
「白戸先生は息子の幼稚園の先生です。きっと幸元さんと同じように車にいた私を見て、しかもさっき警察に私がいたことで、どういうことかと不安にでもなって電話してきたんでしょう。そうとしか考えられませんから」
あぁ、そうか。と頷く幸元は一気に肩の力が抜けた。
そういえば白戸さんは幼稚園で働いているって言ってたっけ。
そんなことにすら頭が回らなくてイライラしちゃう私は本当に中身が無いんだな。
と、自分で自分が嫌になっていた幸元の頭の中には、野本の顔が浮かんでいた。
何故かは分からないが、ここはひとまず野本に頼るのが一番の策なのではないかという気がしてならなかった。
「兎に角、龍ちゃんがやったんじゃないのは事実なのね?」
「・・・はい」
「分かった、信じる。でもいいこと、ここから出ないで。今度警察に捕まったら、助けられないかもしれない。それから、私に嘘をついているんだったら、今後どうなっても知らない」
「分かりました」
「でもあの車からはあなたの指紋は発見されなかったって言ってたけど、それはどうしてなの?」
車を調べた警察は、車の中に王の指紋が無いことを不思議に思った。指紋だけでなく、髪の毛の一本すらも落ちていなかった。
それが決めての一つとなって、早々に釈放されたわけだが、幸元はどうも腑に落ちなかった。
「これですよ」
手袋をはめる真似をした王は、手術用の薄いモノをしていましたから、私の指紋は残っていなかったんでしょうね。と悲しそうに笑い、幸元はそんな王の手元に目をやったまま、あぁ、そういうことかと一つの考えが頭に浮かんだ。
もしかしたら、あの女性をめった刺しにしたのは、王かもしれない。
手術用の手袋に、今着ているスーツだって、あの時のものとはまったく違うものになっている。
あの後全てを取り替えて、どこかに捨てたのか、もしくは隠してあるのかもしれない。
警察は確か、未明に王を捕まえたと言っていた。
ってことは、あのあとすぐにどこかに寄って着替えをすませたのかもしれないし、もしかしたら車の中で刺したんじゃなくて、既に刺してあって、血が車のシートにつかないように何か細工でもしてあったんじゃないのか?
だったら、王の情報が車から出て来ないのは当たり前のことだ。
そして、この人もまた夫と関わりを持っている。
夫がグレーゾーンの仕事をしていることは、うっすら気付いていたが、自分に危害が及ばない以上見て見ぬふりをしてきた。
私はもしかしたら、とんでもないことをしてしまったんじゃないんだろうかと考えると、不安になり、その心は鈍く痛み出し、灰色の雲が幸元の心を覆い隠そうとしていた。
野本ツグミは病院にいた。
桜坂から聞いた病院に、面会可能時間内に花束を持ってやってきた。
集中治療室の前にはやはり刑事が番犬のように立っていた。
どこかに抜け道は無いかと探したが、無い。
まだ新人のナースを見つけ、それとなく聞いてみたが求めている道は無かった。ついでに、どんな状態なのかを聞いてみたが、そこはさすがにまだ新人ナースといっても、よく分かっている。
身内じゃない人には内用は明かせないと頭を下げて、その場を立ち去ろうとした。
「違うのよほら、あたしあの人の友人なのよ。っていうか親友みたいなものでね」
だいぶ年齢が離れていることに不自然さを感じたナースは、怪訝そうに野本の言葉を聞いてるだけで、話が先に進むことはなかった。
「ほら、安西さんでしょ?心配で来たんだけど、いい?彼女、身内なんていないじゃない?だからだいたい何かあるとあたしが呼ばれるんだけどさ・・・」
野本は絶対に知らないはずの、めった刺しにされた女性の名字をナースに言って、『本当に知っているの』をアピールした。少々聞かれていない情報もふまえて。
「あ、そうでしたか。安西さんの・・・」
本当に知っているんだと思ったナースは、よかったと胸を撫で下ろし、こちらへどうぞと野本に着いてくるように自分から先に集中治療室へと歩き出した。
野本は被ってきた帽子を目深に被り直すと、後ろの髪の毛が出て来ないように帽子をぐっとおさえ、襟を立てて後れ毛を隠した。
花束で顔がやんわりと隠れる。それをいいことに、顔半分くらいを隠しながらナースの後ろにぴったりと着いて行った。
「ちょっとすいません」
刑事に声をかけられた野本は言われるままに止まったが、あ、安西さんのご友人ですので、とナースが刑事に説明し、難なく病室に入り込むことができた。
病室に入ると、意識不明の安西は、いろいろな管を体に通されてぐったりと横たわっていた。
24時間監視されているので安全は保証されている。
花束をテーブルの上に置き帽子を脱ぐと、綺麗な黒髪がさらりと流れ落ち、腰のあたりで左右にはねた。
「大丈夫ですよ、今は安定していますから」
「あの、意識はさ・・・戻るわけ?」
「最善を尽くしていますから」
「大丈夫よね」
「今のところは大丈夫です。保証はできませんが、こちらも24時間体勢で経過を見守っています」
「輸血・・・血は足りてるの?」
野本は安西に近づくことができなかった。
包帯で巻かれた顔は、目、鼻、口しか出ていないから、それが本当に安西なのかの判断がつかなかった。
「ねぇ、これ、本当に安西だよね?」
「はい、大丈夫ですよ。びっくりなさいますよね、でも、安西さんが今一番頑張っていますから見守っていてください。ところで・・・」
「そうよね、安西が一番頑張ってんのよね。あたしが泣いてちゃだめよね」
知らぬうちに涙が溢れ出ていた野本は、頬を伝う涙に今頃気がついた。
「大丈夫ですか、泣かないでくささい。あの・・・」
「分かってる。そうね、大丈夫よね。もし血が必要なときはあたしにいつでも言って」
「・・・はぁ、ええと、あの・・・」
「ちょっとお花を置いてあげたいの。頼めるかしら?」
野本は持って来た花束をナースの胸に押し当て、安西の近くに寄り、そっと右手に触った。
温かくて柔らかい。
その手に見覚えがあって、ちゃんと生きてると思うと、ようやく落ち着いていく自分がいた。
野本は帽子を深く被り直し、髪の毛を全部帽子の中に入れた。
「さ、行きましょ」
ナースを促して出ましょうと言う。
「あ、あの・・・」
「あ、そうそうこの花ね、これは真ん中にして飾ってあげて。彼女の好きな花だから宜しくね。あと悪いんだけどさぁね、花瓶って無くて、病院になんかしらあるでしょ?貸しといてよ、いい?」
頷くナースの背中を押し、何かを言いたいのに言えないもどかしさを露わにするナースを横に、病室を出ると、そこに立っている刑事に会釈すらせずに病院から姿を消した。
「あの、看護婦さん、さっきの方はいったい誰なんですか?」
花束を花瓶に入れてきたナースに刑事が聞いたが、ナースは、聞こうと思ってたんですがね、なんかあれよこれよという間に帰ってしまいまして、聞くことができなかったんですよと困ったような顔をした。
「でも親友って言ってました」
「親友?」
刑事は渋い顔をして病室のドアを開けた。
そこにはさっきとかわらぬ安西の姿があった。
野本は病院を出るとタクシーを捕まえた。
タクシーに乗った瞬間に帽子を脱ぎ、持って来ていたタオルで顔を覆った。
「お客さん?」
泣いている野本を気に掛け、タクシーの運転手はバックミラー越しに声をかけた。
「いいの、なんでもない大丈夫だから」
「そうですか、わかりました」
野本はタオルで目元を拭い、ふーっと鼻から呼吸した。
タクシーは病院の敷地内を回り、入り口まで走らせると、右へ曲がるためにウィンカーをカチカチと音を立てた。
野本の乗ったタクシーとは逆に病院へ入ってくる一台の黒い車。後ろの座席はカーテンがかけられていて中が見えない。
野本の乗ったタクシーとすれ違った時、黒い車の中にいた人物は、野本の姿をしっかりと確認していた。
そんなことには全く野本は気付かなかった。
病院さえ出れば誰にも見つからないと思った野本だったが、帽子を脱ぐのが早過ぎた。
いつもなら慎重に行動する彼女だが、安西のあの状態を見てしまったからだろうか、動揺を隠しきれなかった。
「田ノ木さん、今のって・・・」
「あぁ・・・どこぞの数学者様だよ」
田ノ木は今し方すれ違った車の中で泣いていた野本をしっかりと見ていた。
もちろんその横には根上もいた。
めざとい根上は何時何分にどのタクシーに乗っていたかを素早くメモに書き記した。
「これで、言い逃れはできませんね」
してやったりと口元を上げる根上は、隣の田ノ木とそっくりの顔をしていた。
「やっぱり野本は何か隠してます」
「あぁ、そうだなぁ。まずは安西の様子が気になる」
田ノ木と根上は急いで集中治療室へ急いだ。そこには見張りの刑事も安西も無事にいた。
「さっきここに女が来なかった?」
根上は静かにドアを開けて中を確認し、外に立っている刑事に聞いた。
「来ました。それが、親友とかって言ってまして」
「なんで勝手に入れたのよ!」
根上は眼光するどく睨みつけたが、刑事は、ナースが引き連れてきたので安心かと思ってと、刑事らしからぬ言い訳をした。
ばかじゃないの!一蹴すると、後ろにナースが申し訳なさそうに立っているのに気付いた。
「いえ、看護婦さんにじゃなくて、うちのにね」
「ごめんなさい。私が勝手に入れてしまったばかりに・・・」
「いえいえ、いいんですいいんです、で、名前はなんて言ってました?」
野本ツグミでしょ?絶対にそうだ。
「それが・・・聞けなくて」
は?
「・・・そんなんで面会させたんですか?」
明らかに機嫌が悪くなる根上を、田ノ木が『まぁまぁ』となだめた。
根上は舌打ちをして壁に背を預け、ナースはその舌打ちにびくりとして申し訳なさそうに頭を下げた。
「お前はもう少し人に対する接し方を覚えろよ」
「・・・すいません」
田ノ木は頭を掻き、手帳を胸ポケから出すと、ナースにどんな感じの人だったのかを聞き始めた。
根上は病室内を物色し、何か変わったことが無いかを、新しい家に引っ越してきたばかりの猫がしきりに家中を探索するように、あちらこちらへとせわしなく動き回る。
「・・・お前は少しおとなしくしとけー」
田ノ木は動き回る根上に一言って、ナースに『すいませんね、せわしなくて。でもあれはいまのところ害は無いですから』と根上に聞こえる様にわざと声を張った。
ふん。と鼻で笑った根上は、別にどうでもいいと言うように、先ほどと変わることのない動きで、いまだに病室内を嗅ぎ回っていた。




