俺はユーチューバーになる!!
七十度の熱湯
居間の安普請な長テーブルに、どん、と置かれたのは、新品の黒いスマートフォンだった。
続いて、見慣れない三脚と、輪っかの形をした卓上照明。
「俺は、ユーチューバーになる」
湯呑みを運んできた典子は、ぴたりと足を止めた。
茶托の上で、茶渋のついた湯呑みが、ことりと鳴る。
「……ゆーちゅーばー?」
「そうだ。動画を撮って、ネットに流す。広告料が入る」
夫の修治は、背筋をぴんと伸ばして言った。
六十五歳。先月、四十年間勤め上げた金型工場を退職したばかりである。
白髪交じりの短髪に、紺色の襟付きシャツ。鼻の上には老眼鏡。手元には、昨日駅前の家電量販店で買ってきたらしい解説本が置かれている。
付箋が、几帳面に三枚貼ってあった。
「また、そんな……。退職金でパチンコ通いされるよりはマシですけど。何を映すんですか。孫の顔でも撮って送るんですか」
「孫に見せるんじゃない。世界に見せるんだ」
「世界」
典子は夫の顔を見た。
冗談を言っている顔ではない。
修治はもともと冗談をあまり言わない男だった。笑うときも口の端が少し上がるだけで、声を立てて笑ったところなど、結婚して三十八年、数えるほどしか見たことがない。
その夫が、世界に何かを見せると言っている。
「世間じゃ若いのが派手な服を着て、激辛ラーメンを食べたり、高い車を買ったりして何億円も稼ぐらしいが、あんなものは一過性の泡沫だ」
「ほうまつ、ねえ」
「俺には四十年培った手先と、男の歴史がある」
「歴史なら、押し入れに古い作業着が山ほどありますけど」
修治は聞こえなかったふりをした。
定年を迎えてからの一ヶ月、夫はすっかり元気をなくしていた。
朝六時に起き、顔を洗い、新聞を読み、七時には朝食を終える。
そこまでは以前と変わらない。
けれど、その先がない。
仕事へ行く必要がなくなった修治は、毎朝、玄関の時計を眺めていた。
四十年間、身体に染みついた出勤時刻が近づくと、どうにも落ち着かないらしかった。
「今日は何をするんですか」
そう尋ねると、決まって「特にない」と答える。
典子には、その「特にない」が少し寂しかった。
だから、目の前の奇妙な機械にも、あまり強く反対する気にはなれなかった。
「それで、何を撮るんです?」
「まずは、これだ」
修治が台所から持ってきたのは、年季の入った南部鉄瓶と、古い茶筒、それから一本の温度計だった。
「お茶だ」
「……お茶?」
「煎茶の淹れ方だ」
修治は得意げに温度計を掲げた。
「今の若い奴らは、ペットボトルしか知らん。湯の温度を百度のまま注いで、渋くて飲めんと言っている。だから俺が、正しい七十度を教えてやる」
「そんなの、誰が見るんですか」
「見る奴は見る」
「何億円も稼ぐんじゃなかったんですか」
「金は結果だ。まずは技術だ」
典子は吹き出しそうになるのを、茶碗を拭くふりをしてこらえた。
だが、修治の準備は恐ろしく几帳面だった。
工場で四十年間、ノギスとマイクロメーターを握り続けてきた男である。
三脚の高さを何度も調整し、照明の角度を変え、鉄瓶の湯気が最も美しく立ち上る位置を探した。
「おい、典子。そこに立ってみろ」
「ここですか」
「もう少し右」
「こう?」
「三センチ戻れ」
「私は機械じゃありませんよ」
結局、準備だけで一時間半かかった。
「録画ボタンを押したら、音を立てるなよ」
「はいはい」
カチリ、とボタンが押された。
赤いランプが点灯する。
修治は画面に向かって、直立不動で頭を下げた。
深々と、正確な四十五度で。
「……みなさん、こんにちは。修治です。本日は、一番茶の淹れ方について解説します」
声が硬い。
まるで工場の朝礼で、安全標語を読み上げているようだった。
典子はまた笑いそうになった。
けれど、そこから先の手際に、思わず見入ってしまった。
ぐらぐらと沸き立つ鉄瓶の湯を、静かに湯冷ましへ移す。
温度計を差し入れる。
針が、すうっと下がっていく。
無言の時間が続いた。
換気扇の低い唸りと、湯気の揺らめき。
「……七十二度。急須に注ぐ間に、ちょうど七十度になります」
修治の指先は、驚くほど落ち着いていた。
茶葉を入れた萬古焼の急須へ、湯を細く注ぐ。
蓋をする。
待つ。
その間、修治は一度も時計を見なかった。
ただ、湯気の立ち方を眺めていた。
やがて、急須を持ち上げる。
茶碗へ少しずつ、均等に注ぐ。
最後の一滴まで、きっちりと。
ぽたり。
淡い若草色のお茶が、静かに揺れた。
「……どうぞ」
修治はカメラの向こうの誰かへ差し出すように、両手で茶碗を置いた。
典子は、その手を見つめていた。
太い指。
節くれだった関節。
爪の脇に、どうしても落ちない黒ずみがある。
昔から見慣れた手だった。
けれど、こんなふうに動くところは、初めて見た気がした。
修治が工場で何をしていたのか、典子は詳しく知らなかった。
毎朝、弁当を持って出かけ、夕方には油の匂いをさせて帰ってくる。
時には指に絆創膏を巻いていた。
時には無口になり、時には少し機嫌がよかった。
それだけだった。
「……こんなに、きれいな手つきだったんですねえ」
思わず呟いた。
「おい、典子」
「はい?」
「まだ録画中だ」
「あら」
修治が眉をひそめた。
けれど、耳の先が少し赤くなっていた。
結局、その声も入ったまま、最初の動画は完成した。
編集など、できるはずもない。
修治は解説本と首っ引きになりながら、おぼつかない人差し指で動画を投稿した。
タイトルは、
『煎茶の淹れ方(適温七十度について)』
サムネイルも設定せず、ただ真顔の修治が湯気を見つめている静止画だった。
「これで明日には十万人くらい見るんですかね」
典子がからかうと、修治は腕を組んだ。
「そんなにすぐ行くわけがないだろう」
「おや、意外と現実的」
「まずは十人だ。本物を見抜く奴が十人いれば、それでいい」
初日の再生回数は、二回だった。
おそらく修治自身と、確認のために見た典子の分である。
二日目も、二回。
三日目も、二回。
修治は毎朝、パソコンを開いては、小さく「ふむ」と唸り、何も言わず画面を閉じた。
「やっぱり、お茶じゃ地味なんじゃありません?」
「派手に淹れたら、茶がまずくなる」
「そういう意味じゃなくて」
「意味は同じだ」
典子には、さっぱり分からなかった。
それでも修治は諦めなかった。
翌週には『鉄瓶の錆止めの仕方』を投稿した。
その次は『包丁の研ぎ方(中砥石千番)』。
さらに『急須の茶渋を落とす方法』。
どれも無言の時間が長く、音楽もなく、愛想笑いひとつない。
ただ、職人の節くれだった手が、淡々と動くだけだった。
修治は相変わらず、毎朝六時に起きた。
けれど、玄関の時計を眺めることはなくなった。
代わりに台所へ立ち、鉄瓶に水を張り、茶筒を並べるようになった。
ある朝、典子は気づいた。
夫が鼻歌を歌っている。
工場に勤めていたころも、聞いたことのない鼻歌だった。
「楽しそうですね」
そう声をかけると、修治はぴたりと歌うのをやめた。
「別に」
「そうですか」
典子は笑って、朝食の支度を続けた。
再生回数は、まだ二桁にも届いていなかった。
それでも、夫の朝に行き先が戻ってきた。
典子には、それだけで十分な気がしていた。
変化があったのは、最初の投稿から三週間ほど経った夜だった。
修治が風呂に入っている間、典子は何気なくパソコンを開いた。
動画の再生回数が、二十三回になっていた。
「おや」
少し増えている。
それから、コメントが一件ついていた。
英語だった。
典子は翻訳機能を使ってみた。
『今日はひどい一日だった。でも、このお茶を淹れる音を聞いていたら、少しだけ眠れそうです。ありがとう。』
典子は、しばらく画面を見つめていた。
誰だろう。
どこの国の人だろう。
名前も顔も分からない。
けれど、遠い国のどこかで、つらい一日を過ごした人が、修治のお茶を見て眠ろうとしている。
それが、なんだか不思議だった。
風呂から上がってきた修治に、画面を見せた。
「あなた。コメントがついてますよ」
「何?」
修治は老眼鏡をかけた。
「……読めん」
「外国の人ですって。あなたのお茶を見て、眠れそうだって」
「眠れそう?」
「ええ」
「……俺の動画は睡眠薬じゃないぞ」
「そういうことじゃありませんよ」
修治はしばらく黙っていた。
それから、椅子に腰を下ろした。
「……ちゃんと、見たんだな」
「え?」
「最後まで見たんだろうな、その人は」
典子は頷いた。
「そうでしょうね」
修治はもう一度、画面を見た。
「……そうか」
それだけ言って、パソコンを閉じた。
翌朝。
修治はいつもより三十分早く起きた。
「今日は何を撮るんです?」
「ほうじ茶だ」
「またお茶ですか」
「寒い夜には、あれがいい」
修治は茶筒を取り出した。
「香りが立つ。身体も温まる」
典子は、昨夜の英語のコメントを思い出した。
けれど、何も言わなかった。
修治も、何も言わなかった。
ただ、その日の動画には、最後にひと言だけ増えていた。
「……温かいうちに、お飲みください」
それから一週間後。
修治がパソコンの前で固まっていた。
「……典子」
「なんです、朝から」
「これ、壊れてるんじゃないか」
台所から覗き込んだ典子は、画面の数字を見て目を丸くした。
再生回数、142,850回。
「……え?」
「桁が、おかしい」
画面には、見慣れないアルファベットが並んでいた。
英語。
フランス語。
スペイン語。
典子には、どれがどこの言葉なのかも分からなかった。
翻訳機能を使うと、次々と日本語が現れた。
『これこそ本当の癒しだ。大きな声も、うるさい音楽もない。ただ静かな時間がある。』
『このおじいちゃんがお茶を淹れる動画を見ながら、毎晩眠っています。』
『水を注ぐ音が素晴らしい。まるで芸術だ。』
『父を思い出しました。父も、何をするときも丁寧な人でした。』
『言葉は分からない。でも、この人が大切なことを教えてくれているのは分かる。』
どうやら、最初にコメントをくれた外国人が、海外の掲示板で修治の動画を紹介したらしい。
『眠れない夜に見つけた、日本の小さな奇跡』
そんな言葉とともに。
そこから動画は、海の向こうへ広がっていった。
「……じぇん?」
修治が眼鏡のブリッジを押し上げた。
「なんて書いてあるんだ、これは」
「禅、ですって。静かで落ち着くってことみたいですよ」
「俺は坊さんじゃないぞ」
「分かってますよ」
「それに、これは何だ。グランパ?」
「おじいちゃん、ですって」
「俺は爺さんではない。まだ六十五だ」
典子はとうとう吹き出した。
チャンネル登録者の数字が、みるみる増えていく。
千人。
三千人。
一万人。
修治はその数字を、黙って見つめていた。
「あなた、広告ってやつがつくらしいですよ。もしかして、本当にお金が入ってくるんじゃありません?」
「……ふむ」
「どうします? 何か買います?」
修治はしばらく考えた。
それから、ぽつりと言った。
「新しい茶筒が要るな」
「茶筒?」
「今のは蓋が緩い。湿気が入る」
典子は笑った。
「世界中の人が見てるっていうのに、茶筒ですか」
「茶葉が湿気たら、台無しだ」
そう言って、修治は立ち上がった。
「どこへ?」
「湯を沸かす」
鉄瓶をガス台に置き、火をつける。
青い炎が、静かに底を舐めた。
典子は、夫の背中を眺めた。
四十年間、毎朝見送ってきた背中だった。
若いころはもっと広く、もっとまっすぐだった。
今は少し丸くなり、髪も白くなった。
けれど、鉄瓶を持つ手には、昔と変わらない力があった。
いや。
もしかしたら、昔からこうだったのかもしれない。
ただ、自分が知らなかっただけで。
典子はふと、夫に尋ねた。
「あなた」
「何だ」
「工場でも、そんなふうに丁寧に仕事をしていたんですか」
修治は振り向いた。
「当たり前だろう」
「そうですか」
「金型はな、一ミリ狂ったら使い物にならん。場合によっちゃ、百分の一ミリでも駄目だ」
「へえ」
「だから、手を抜けん」
修治は鉄瓶へ視線を戻した。
「茶も同じだ」
典子は、小さく頷いた。
そうか。
この人は、四十年間、ずっとこうしていたのだ。
誰も見ていなくても。
誰にも褒められなくても。
目の前の仕事を、ただ丁寧に。
その積み重ねを、世界中の人が今、初めて見ている。
典子は少しだけ、誇らしい気持ちになった。
「……あなた」
「今度は何だ」
「私も、見ていていいですか」
修治は不思議そうな顔をした。
「今までも見ていただろう」
「そうですけど」
典子は笑った。
「今度は、ちゃんと」
修治はしばらく妻を見ていた。
それから、照れくさそうに鼻を鳴らした。
「……好きにしろ」
撮影の準備が始まった。
三脚の高さを合わせ、照明を置き、茶筒を並べる。
修治はいつものように襟元を正した。
典子は、スマートフォンの録画ボタンに指を置いた。
「いいですか」
「ああ」
「世界中の人が見てますよ」
「分かっている」
「緊張しません?」
「せん」
そう答えた修治の耳が、少し赤かった。
典子は笑いをこらえながら、録画ボタンを押した。
赤いランプが点灯する。
修治は、カメラに向かって深々と頭を下げた。
正確な、四十五度。
「……みなさん、こんにちは。修治です。本日は、茶葉の香りを殺さない、ほうじ茶の火入れについて解説します」
声は相変わらず硬かった。
音楽もない。
派手な挨拶もない。
ただ、鉄瓶から白い湯気が立ち上っている。
修治は茶葉を手に取り、静かに説明を始めた。
典子はその横顔を見つめていた。
六十五歳の、新米ユーチューバー。
世界中の人が、この頑固な夫を見ている。
けれど、典子にとっては、やっぱりいつもの修治だった。
口数が少なくて、融通が利かなくて、少しばかり面倒くさい。
それでも、何かを大切にするときには、驚くほど優しい手つきになる人。
動画の最後、修治は湯呑みをひとつ、カメラの前に置いた。
それから、もうひとつ。
典子の前に置いた。
「……どうぞ」
「まあ、私にも?」
「二人分淹れたんだ。当たり前だろう」
典子は湯呑みを両手で包んだ。
あたたかかった。
湯気の向こうで、修治が少しだけ笑った。
その笑顔は、カメラには映っていなかった。
典子だけが見ていた。
「……おい、典子」
「はい?」
「まだ録画中だ」
「あら、また」
二人は顔を見合わせた。
今度は修治も、声を出して笑った。
安普請の居間に、ことりと湯呑みの鳴る音が響く。
世界を相手取るユーチューバーの朝は、今日もいつもどおりだった。
鉄瓶の湯が沸き、茶葉が開き、七十度の湯気が静かに立ち上る。
その向こうには、四十年間知らなかった夫の顔を、今になって少しずつ見つけている妻がいる。
世界中の何十万人が見ていようと、いまいと。
修治は明日も、きっと同じように湯を沸かすのだろう。
そして典子も、隣でその手元を眺めるのだろう。
それが二人には、ちょうどいい温度だった。
――了――




