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俺はユーチューバーになる!!

掲載日:2026/10/11

七十度の熱湯


居間の安普請な長テーブルに、どん、と置かれたのは、新品の黒いスマートフォンだった。


続いて、見慣れない三脚と、輪っかの形をした卓上照明。


「俺は、ユーチューバーになる」


湯呑みを運んできた典子は、ぴたりと足を止めた。


茶托の上で、茶渋のついた湯呑みが、ことりと鳴る。


「……ゆーちゅーばー?」


「そうだ。動画を撮って、ネットに流す。広告料が入る」


夫の修治は、背筋をぴんと伸ばして言った。


六十五歳。先月、四十年間勤め上げた金型工場を退職したばかりである。


白髪交じりの短髪に、紺色の襟付きシャツ。鼻の上には老眼鏡。手元には、昨日駅前の家電量販店で買ってきたらしい解説本が置かれている。


付箋が、几帳面に三枚貼ってあった。


「また、そんな……。退職金でパチンコ通いされるよりはマシですけど。何を映すんですか。孫の顔でも撮って送るんですか」


「孫に見せるんじゃない。世界に見せるんだ」


「世界」


典子は夫の顔を見た。


冗談を言っている顔ではない。


修治はもともと冗談をあまり言わない男だった。笑うときも口の端が少し上がるだけで、声を立てて笑ったところなど、結婚して三十八年、数えるほどしか見たことがない。


その夫が、世界に何かを見せると言っている。


「世間じゃ若いのが派手な服を着て、激辛ラーメンを食べたり、高い車を買ったりして何億円も稼ぐらしいが、あんなものは一過性の泡沫だ」


「ほうまつ、ねえ」


「俺には四十年培った手先と、男の歴史がある」


「歴史なら、押し入れに古い作業着が山ほどありますけど」


修治は聞こえなかったふりをした。


定年を迎えてからの一ヶ月、夫はすっかり元気をなくしていた。


朝六時に起き、顔を洗い、新聞を読み、七時には朝食を終える。


そこまでは以前と変わらない。


けれど、その先がない。


仕事へ行く必要がなくなった修治は、毎朝、玄関の時計を眺めていた。


四十年間、身体に染みついた出勤時刻が近づくと、どうにも落ち着かないらしかった。


「今日は何をするんですか」


そう尋ねると、決まって「特にない」と答える。


典子には、その「特にない」が少し寂しかった。


だから、目の前の奇妙な機械にも、あまり強く反対する気にはなれなかった。


「それで、何を撮るんです?」


「まずは、これだ」


修治が台所から持ってきたのは、年季の入った南部鉄瓶と、古い茶筒、それから一本の温度計だった。


「お茶だ」


「……お茶?」


「煎茶の淹れ方だ」


修治は得意げに温度計を掲げた。


「今の若い奴らは、ペットボトルしか知らん。湯の温度を百度のまま注いで、渋くて飲めんと言っている。だから俺が、正しい七十度を教えてやる」


「そんなの、誰が見るんですか」


「見る奴は見る」


「何億円も稼ぐんじゃなかったんですか」


「金は結果だ。まずは技術だ」


典子は吹き出しそうになるのを、茶碗を拭くふりをしてこらえた。


だが、修治の準備は恐ろしく几帳面だった。


工場で四十年間、ノギスとマイクロメーターを握り続けてきた男である。


三脚の高さを何度も調整し、照明の角度を変え、鉄瓶の湯気が最も美しく立ち上る位置を探した。


「おい、典子。そこに立ってみろ」


「ここですか」


「もう少し右」


「こう?」


「三センチ戻れ」


「私は機械じゃありませんよ」


結局、準備だけで一時間半かかった。


「録画ボタンを押したら、音を立てるなよ」


「はいはい」


カチリ、とボタンが押された。


赤いランプが点灯する。


修治は画面に向かって、直立不動で頭を下げた。


深々と、正確な四十五度で。


「……みなさん、こんにちは。修治です。本日は、一番茶の淹れ方について解説します」


声が硬い。


まるで工場の朝礼で、安全標語を読み上げているようだった。


典子はまた笑いそうになった。


けれど、そこから先の手際に、思わず見入ってしまった。


ぐらぐらと沸き立つ鉄瓶の湯を、静かに湯冷ましへ移す。


温度計を差し入れる。


針が、すうっと下がっていく。


無言の時間が続いた。


換気扇の低い唸りと、湯気の揺らめき。


「……七十二度。急須に注ぐ間に、ちょうど七十度になります」


修治の指先は、驚くほど落ち着いていた。


茶葉を入れた萬古焼の急須へ、湯を細く注ぐ。


蓋をする。


待つ。


その間、修治は一度も時計を見なかった。


ただ、湯気の立ち方を眺めていた。


やがて、急須を持ち上げる。


茶碗へ少しずつ、均等に注ぐ。


最後の一滴まで、きっちりと。


ぽたり。


淡い若草色のお茶が、静かに揺れた。


「……どうぞ」


修治はカメラの向こうの誰かへ差し出すように、両手で茶碗を置いた。


典子は、その手を見つめていた。


太い指。


節くれだった関節。


爪の脇に、どうしても落ちない黒ずみがある。


昔から見慣れた手だった。


けれど、こんなふうに動くところは、初めて見た気がした。


修治が工場で何をしていたのか、典子は詳しく知らなかった。


毎朝、弁当を持って出かけ、夕方には油の匂いをさせて帰ってくる。


時には指に絆創膏を巻いていた。


時には無口になり、時には少し機嫌がよかった。


それだけだった。


「……こんなに、きれいな手つきだったんですねえ」


思わず呟いた。


「おい、典子」


「はい?」


「まだ録画中だ」


「あら」


修治が眉をひそめた。


けれど、耳の先が少し赤くなっていた。


結局、その声も入ったまま、最初の動画は完成した。


編集など、できるはずもない。


修治は解説本と首っ引きになりながら、おぼつかない人差し指で動画を投稿した。


タイトルは、


『煎茶の淹れ方(適温七十度について)』


サムネイルも設定せず、ただ真顔の修治が湯気を見つめている静止画だった。


「これで明日には十万人くらい見るんですかね」


典子がからかうと、修治は腕を組んだ。


「そんなにすぐ行くわけがないだろう」


「おや、意外と現実的」


「まずは十人だ。本物を見抜く奴が十人いれば、それでいい」


初日の再生回数は、二回だった。


おそらく修治自身と、確認のために見た典子の分である。


二日目も、二回。


三日目も、二回。


修治は毎朝、パソコンを開いては、小さく「ふむ」と唸り、何も言わず画面を閉じた。


「やっぱり、お茶じゃ地味なんじゃありません?」


「派手に淹れたら、茶がまずくなる」


「そういう意味じゃなくて」


「意味は同じだ」


典子には、さっぱり分からなかった。


それでも修治は諦めなかった。


翌週には『鉄瓶の錆止めの仕方』を投稿した。


その次は『包丁の研ぎ方(中砥石千番)』。


さらに『急須の茶渋を落とす方法』。


どれも無言の時間が長く、音楽もなく、愛想笑いひとつない。


ただ、職人の節くれだった手が、淡々と動くだけだった。


修治は相変わらず、毎朝六時に起きた。


けれど、玄関の時計を眺めることはなくなった。


代わりに台所へ立ち、鉄瓶に水を張り、茶筒を並べるようになった。


ある朝、典子は気づいた。


夫が鼻歌を歌っている。


工場に勤めていたころも、聞いたことのない鼻歌だった。


「楽しそうですね」


そう声をかけると、修治はぴたりと歌うのをやめた。


「別に」


「そうですか」


典子は笑って、朝食の支度を続けた。


再生回数は、まだ二桁にも届いていなかった。


それでも、夫の朝に行き先が戻ってきた。


典子には、それだけで十分な気がしていた。


変化があったのは、最初の投稿から三週間ほど経った夜だった。


修治が風呂に入っている間、典子は何気なくパソコンを開いた。


動画の再生回数が、二十三回になっていた。


「おや」


少し増えている。


それから、コメントが一件ついていた。


英語だった。


典子は翻訳機能を使ってみた。


『今日はひどい一日だった。でも、このお茶を淹れる音を聞いていたら、少しだけ眠れそうです。ありがとう。』


典子は、しばらく画面を見つめていた。


誰だろう。


どこの国の人だろう。


名前も顔も分からない。


けれど、遠い国のどこかで、つらい一日を過ごした人が、修治のお茶を見て眠ろうとしている。


それが、なんだか不思議だった。


風呂から上がってきた修治に、画面を見せた。


「あなた。コメントがついてますよ」


「何?」


修治は老眼鏡をかけた。


「……読めん」


「外国の人ですって。あなたのお茶を見て、眠れそうだって」


「眠れそう?」


「ええ」


「……俺の動画は睡眠薬じゃないぞ」


「そういうことじゃありませんよ」


修治はしばらく黙っていた。


それから、椅子に腰を下ろした。


「……ちゃんと、見たんだな」


「え?」


「最後まで見たんだろうな、その人は」


典子は頷いた。


「そうでしょうね」


修治はもう一度、画面を見た。


「……そうか」


それだけ言って、パソコンを閉じた。


翌朝。


修治はいつもより三十分早く起きた。


「今日は何を撮るんです?」


「ほうじ茶だ」


「またお茶ですか」


「寒い夜には、あれがいい」


修治は茶筒を取り出した。


「香りが立つ。身体も温まる」


典子は、昨夜の英語のコメントを思い出した。


けれど、何も言わなかった。


修治も、何も言わなかった。


ただ、その日の動画には、最後にひと言だけ増えていた。


「……温かいうちに、お飲みください」


それから一週間後。


修治がパソコンの前で固まっていた。


「……典子」


「なんです、朝から」


「これ、壊れてるんじゃないか」


台所から覗き込んだ典子は、画面の数字を見て目を丸くした。


再生回数、142,850回。


「……え?」


「桁が、おかしい」


画面には、見慣れないアルファベットが並んでいた。


英語。


フランス語。


スペイン語。


典子には、どれがどこの言葉なのかも分からなかった。


翻訳機能を使うと、次々と日本語が現れた。


『これこそ本当の癒しだ。大きな声も、うるさい音楽もない。ただ静かな時間がある。』


『このおじいちゃんがお茶を淹れる動画を見ながら、毎晩眠っています。』


『水を注ぐ音が素晴らしい。まるで芸術だ。』


『父を思い出しました。父も、何をするときも丁寧な人でした。』


『言葉は分からない。でも、この人が大切なことを教えてくれているのは分かる。』


どうやら、最初にコメントをくれた外国人が、海外の掲示板で修治の動画を紹介したらしい。


『眠れない夜に見つけた、日本の小さな奇跡』


そんな言葉とともに。


そこから動画は、海の向こうへ広がっていった。


「……じぇん?」


修治が眼鏡のブリッジを押し上げた。


「なんて書いてあるんだ、これは」


「禅、ですって。静かで落ち着くってことみたいですよ」


「俺は坊さんじゃないぞ」


「分かってますよ」


「それに、これは何だ。グランパ?」


「おじいちゃん、ですって」


「俺は爺さんではない。まだ六十五だ」


典子はとうとう吹き出した。


チャンネル登録者の数字が、みるみる増えていく。


千人。


三千人。


一万人。


修治はその数字を、黙って見つめていた。


「あなた、広告ってやつがつくらしいですよ。もしかして、本当にお金が入ってくるんじゃありません?」


「……ふむ」


「どうします? 何か買います?」


修治はしばらく考えた。


それから、ぽつりと言った。


「新しい茶筒が要るな」


「茶筒?」


「今のは蓋が緩い。湿気が入る」


典子は笑った。


「世界中の人が見てるっていうのに、茶筒ですか」


「茶葉が湿気たら、台無しだ」


そう言って、修治は立ち上がった。


「どこへ?」


「湯を沸かす」


鉄瓶をガス台に置き、火をつける。


青い炎が、静かに底を舐めた。


典子は、夫の背中を眺めた。


四十年間、毎朝見送ってきた背中だった。


若いころはもっと広く、もっとまっすぐだった。


今は少し丸くなり、髪も白くなった。


けれど、鉄瓶を持つ手には、昔と変わらない力があった。


いや。


もしかしたら、昔からこうだったのかもしれない。


ただ、自分が知らなかっただけで。


典子はふと、夫に尋ねた。


「あなた」


「何だ」


「工場でも、そんなふうに丁寧に仕事をしていたんですか」


修治は振り向いた。


「当たり前だろう」


「そうですか」


「金型はな、一ミリ狂ったら使い物にならん。場合によっちゃ、百分の一ミリでも駄目だ」


「へえ」


「だから、手を抜けん」


修治は鉄瓶へ視線を戻した。


「茶も同じだ」


典子は、小さく頷いた。


そうか。


この人は、四十年間、ずっとこうしていたのだ。


誰も見ていなくても。


誰にも褒められなくても。


目の前の仕事を、ただ丁寧に。


その積み重ねを、世界中の人が今、初めて見ている。


典子は少しだけ、誇らしい気持ちになった。


「……あなた」


「今度は何だ」


「私も、見ていていいですか」


修治は不思議そうな顔をした。


「今までも見ていただろう」


「そうですけど」


典子は笑った。


「今度は、ちゃんと」


修治はしばらく妻を見ていた。


それから、照れくさそうに鼻を鳴らした。


「……好きにしろ」


撮影の準備が始まった。


三脚の高さを合わせ、照明を置き、茶筒を並べる。


修治はいつものように襟元を正した。


典子は、スマートフォンの録画ボタンに指を置いた。


「いいですか」


「ああ」


「世界中の人が見てますよ」


「分かっている」


「緊張しません?」


「せん」


そう答えた修治の耳が、少し赤かった。


典子は笑いをこらえながら、録画ボタンを押した。


赤いランプが点灯する。


修治は、カメラに向かって深々と頭を下げた。


正確な、四十五度。


「……みなさん、こんにちは。修治です。本日は、茶葉の香りを殺さない、ほうじ茶の火入れについて解説します」


声は相変わらず硬かった。


音楽もない。


派手な挨拶もない。


ただ、鉄瓶から白い湯気が立ち上っている。


修治は茶葉を手に取り、静かに説明を始めた。


典子はその横顔を見つめていた。


六十五歳の、新米ユーチューバー。


世界中の人が、この頑固な夫を見ている。


けれど、典子にとっては、やっぱりいつもの修治だった。


口数が少なくて、融通が利かなくて、少しばかり面倒くさい。


それでも、何かを大切にするときには、驚くほど優しい手つきになる人。


動画の最後、修治は湯呑みをひとつ、カメラの前に置いた。


それから、もうひとつ。


典子の前に置いた。


「……どうぞ」


「まあ、私にも?」


「二人分淹れたんだ。当たり前だろう」


典子は湯呑みを両手で包んだ。


あたたかかった。


湯気の向こうで、修治が少しだけ笑った。


その笑顔は、カメラには映っていなかった。


典子だけが見ていた。


「……おい、典子」


「はい?」


「まだ録画中だ」


「あら、また」


二人は顔を見合わせた。


今度は修治も、声を出して笑った。


安普請の居間に、ことりと湯呑みの鳴る音が響く。


世界を相手取るユーチューバーの朝は、今日もいつもどおりだった。


鉄瓶の湯が沸き、茶葉が開き、七十度の湯気が静かに立ち上る。


その向こうには、四十年間知らなかった夫の顔を、今になって少しずつ見つけている妻がいる。


世界中の何十万人が見ていようと、いまいと。


修治は明日も、きっと同じように湯を沸かすのだろう。


そして典子も、隣でその手元を眺めるのだろう。


それが二人には、ちょうどいい温度だった。


――了――



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― 新着の感想 ―
夫婦のほんわかした雰囲気は良かった。 ただ、茶を淹れる動画の再生数が、それだけ伸びる理由を 読者に納得させられる書き方をしてあるかな、と思った
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