第六章:すり替えられた持統大王への密書と武則天の真意
奥の院の対話
月の光が静かに奥の院を照らしていた。長安の喧騒から離れたこの静寂の場所で、一人の男が広間の中央に跪いている。伊波源城――かつて唐に渡り、武則天の生家の武惣領家に医師・薬師として長く仕える寡黙な者である。その前に立つのは、大唐の統治者である武則天だった。
彼女は華麗な衣を身にまといながらも、どこか疲れたような表情を浮かべている。その目には鋭さと同時に、かすかな温情が宿っていた。
「源城よ。今宵、そなたをここに呼び出したのは、まず、感謝を伝えるためだ。それとな……」
武則天の声は穏やかでありながら、朗々と威厳に満ちている。
伊波源城は深く頭を垂れた。「恐れながら、陛下の仰せのままに。女官長様の快癒が叶い、微力ながらお力添えができたこと、光栄に存じます」
武則天は微笑を浮かべる。「あの侍女は、朕がまだ武家の庶子であった頃から仕えてくれた者だ。朕がかつて屋敷の小さな離れに暮らし、名もなく、未来の希望もなかった頃、彼女はいつも朕を支えてくれた。侍女というより年子の妹だ。だからこそ、そなたが尽力してくれたことを心から感謝している」
源城は静かに頷く。「陛下のお心が女官長様の癒しとなりました。私はただ、陛下のお志を形にしたまでです」
持統への密書の真意
武則天は一歩進み出て、源城の前に座した。通常の謁見とは異なる、親密な雰囲気が漂う。
「源城、そなたに隠すつもりはない。倭国の持統大王に送った密書の内容を、朕自身がすり替えたことをそなたに明かしておこう」
源城は一瞬、顔を上げかけたが、すぐにまた伏せた。「陛下がそうされたのは、深いご意図があってのことでしょう」
武則天は静かに息をついた。「そうだ。その密書には、もともと長年のご無沙汰を詫びる丁重な時候文に続き、天武大王及び太子逝去への深い弔意と哀悼、大王の健勝を祈る単純な内容が記されていた。大唐の実情など一言も触れていなかった。そなたの朕と大唐への忠誠心を感じた。だが、朕はそれを極めて深刻な内容に変えた。倭国で混乱を引き起こす意図ではない。むしろ、持統の決断を後押しするとともに、真の忠臣を見分ける助けになればと思ったのだ」
源城は一瞬迷いを見せたが、やがて口を開いた。「恐れながら、陛下は持統大王をどのようにご覧になられているのですか」
武則天の本心
武則天は微笑み、遠くを見るような目をした。「持統は朕より二十歳も若いが、統治者としての手腕は優れている。朕は彼女を女帝としての同志として高く評価している。東方の女人が、あのように強い意志で混乱と陰謀が渦巻く倭国を立て直してゆく姿は、朕にかつての自分を思い起こさせるのだ。
実は……朕が今年の十月に中華史上で初めての女帝としての即位を決断できたのも、持統大王が一月に即位したという事実が、支えのひとつにもなっている。持統は、引退して優雅な余生を送る選択肢もあった。朕にも同じ選択肢があった。持統は倭国の民のために、敢えて渦中の栗を拾った。倭国の民数は多くても四百万人から五百万人と聞く。朕の大唐は五千万人、朝貢国を含めれば一億人を超える。わが息子らとはいえ、無能な宗室に委ね、民数を再び、路頭に迷わすわけにはいかぬ。かりに朕の息子らや宗室が滅びようとも朕は民数の太平の方を選ぶ。それが朕がイナンナ天照さまと、遠い昔日に誓いし、天界との約束だ」
武周創始の真意
武則天は自らの膝の上に手を置き、言葉を続けた。「私はしばしば残酷であると言われる。その通りだ。私の行動は時に冷酷に映るだろう。だが、それは本来の私自身ではない。すべては唐という国を再び強国にするための手段だ。私の評価は、それがいかに過酷なものであれ受け入れる。遠い未来の評価に委ねる。よって、登壇の日に朕の墓碑銘は無碑銘とすると決めている。亡き高宗陛下と永遠の静寂を共有できればそれでよし。ほかになにを望まんや。
実は、朕が『武周』を創始したのには深い想いがある。隋と唐は異民族の王朝だ。煬帝の生母と唐の初代皇帝李淵の生母は姉妹であったが、彼らは漢民族ではない。私の母は皇室の傍系の楊氏だが、武家は商家とはいえ代々漢民族の家系だ。
本来、この中華は漢民族の国だ。『周』という国号に込めた朕の想いは、漢民族の誇りを取り戻し、唐の体制を盤石化するための一時的な施策であった。盤石にした上で、再び『李』に戻す意図があり、簒奪ではなかったのだ。しかし、朕の真意を知る者は少ない」
源城は、沈黙の中でその言葉を受け止めた。
「やがて、朕亡きあと、この国は武家の者か宗室である息子らに委ねる。息子らは統治者として優秀とは言えず、凡庸な高宗陛下の複製に過ぎぬ。朕の守護神である「イナンナ天照」様が下賜された「未来写しの鏡」は、この大唐国の数多くの未来絵のひとつとして、朕の愛する孫の隆基が前半こそ善政を敷くが、後半は楊貴妃なる妃に溺れ反乱軍に長安を占拠され国難を招くという可能性を映し出した。むろんそうではない未来絵の方が多い。朕が若い頃に、煬帝の娘である太宗陛下の側室「楊妃」とその息子2人を策略により排斥したことが悪夢となって映っただけやもしれぬ。いや、おそらくそうであろう。そうであってほしいと思う。それでも、朕はこの大唐と1億人の帝国の民のために最悪の事態に備えておきたい。かりにそのような事態になったとしても、朕の敷いた体制が唐王朝を救えるようにな。朕の代に振興した『漢民族』の有能な家系が、国難の収束に貢献するはずだ。朕にできるのは、平穏な民の日々を一日でも長くすることだけだ」
「かつて、私はただの一宮女だった。無力だったが、それでも夢を抱いていた。書画と詩で名を成すことだった。今の私は、国民と唐を守るために、その夢を捨てる覚悟をした。ただ、それでも守りたいものがある」武則天はそっと天を仰ぐ。「それは、私を守り、評価してくださった神々――イナンナ天照への恩返し。そして、私の行動が持統に対する縁とつながることを願っているのだ」
李隆基(玄宗皇帝)の持統大王への憧れ
武則天は微笑を浮かべた。「実はな、そなたも良く知っておろうが、朕の孫に隆基がいる。侍女によれば、男の子だが、容姿が子供の頃の朕に生き写しだそうだ。自称『隆基大侠』。後宮で木剣を振り回して宦官や侍女を追い回しているやんちゃだ。朕はやんちゃではなく性格は少し違うがな。まあ、あの子は無敵だから、朕とは育った環境が違うし。同じだったら朕もああなったか?あの子は、倭国との大戦の物語が好きで、十五歳で大唐との対戦に従軍した敵方の持統を『王女大侠、倭国の英雄』と憧れているのだ。今の持統が、悪役を成敗し、東方の国で成し遂げつつある改革にも感銘を受けているらしい」
源城は少し驚いた様子で聞いていた。「それほどまでに、倭国の持統大王は陛下のご家族にも影響を及ぼしているのですね」
武則天は頷いた。「そうだ。隆基は私の宝だ。あの子の憧れが持統に向けられることを、私は決して悪いこととは思わない。あの子は朕が亡き後、この大唐でたくましく生きていかねばならぬ。持統の生涯がいつまでか、朕より長いか短いかもわからぬが、昔日の想い出の中であっても、あの子の手本、光明、心の支えになろう。朕は、良くは書かれぬだろうから。また、女帝としての同志を見出すことは、朕にとって、政治的にも得難い力となるだろう」
持統との未来図
武則天は再び立ち上がり、深い決意を込めた声で語った。「これでわかったと思うが……朕には倭国を侵略する意図などない。それは噂に過ぎぬ。だが、その噂を流したのも朕だ。持統が真の忠臣を見分け、国内の体制を整える手助けになると考えたからだ。ここまで話したのはな、朕にはそなたの大唐への忠誠と持統への忠誠がわかっているからだ。大唐の情報網は、そなたは知らぬだろうが、世界中に張り巡らされている。そなたについていえば、宗室と傍流の別はあるも、幼少より持統とは兄と妹のような関係だったと聞く。天智大王や天武大王に妙薬を届けて命を長らえさせたのもそなた。持統の嫡男皇太子の病気に妙薬が間に合わずに若くして崩御してしまい深く後悔したのもそなた。今の持統が信頼できる忠臣は不比等ほかの数名のみだ。ただ、あれらは家臣だから持統を導けない。そなたしかいないからだ」
源城は、武則天の言葉にしばし驚愕し呆然としながらも、気を取り直し慌てて深く礼を取る。「陛下の御代が永らく続きますことを。陛下のお心を深く深く理解しました。深く深く感謝いたします」
「恐れながら、陛下は持統大王との関係修復も視野に入れておられるのですね」
「その通りだ」武則天は毅然とした表情で言葉を締めくくる。「持統が『天皇』を名乗り、東方の雄となるのであれば、それを認めよう。『天皇』はかつて朕が高宗に奏上し、しかし朕自身は使うことのなかった天子の名。持統は朕より二十歳若い。名づけ親としてもよかろうかと持統がその名『天皇』を受けるなら、倭国でその名は紡がれ、名づけ親としての朕の名も、未来の歴史に紡がれるやもな。真の同志として共にそれぞれの国の未来を築ける日を待ちたい。それにな。そなたもわかるだろう。この名はかつての高宗皇帝が名乗られた名、諸国の王よりは高位であると……源城よ。これを持統への親書にしたゆえ、朕の真意とともに、持統に伝えるようそなたに託す」
源城は、深く拝礼し、「陛下の恩寵に深く感謝し、その役目仰せつかりました」と答えて、武則天から親書を受け取った。
柔らかくも清冽な月光の下、二人の影は静かに広間に落ちた。武則天の言葉は、奥深い決意とともに、未来への微かな希望を宿していた。




