第三章:倭国との戦での大勝利と権威の高揚
時代は660年頃に遡る――。
大唐帝国は東方外交・軍事戦略においても驚くべき成果を上げていた。朝鮮半島では新羅が唐と結び、旧来の強国・百済、そしてその再建を狙う倭国(日本)の支援を得た残党勢力と激しく対立していた。
倭国は旧百済王族を再興しようと、朝鮮半島西南域に艦を送り出し、朝鮮の一部勢力と共に、実権を握る皇后武照の唐・新羅連合に立ち向かった。
当時の倭国は「大化の改新」で実権を握った天智大王(当時皇太子)が実母である斉明大王を旗頭に(途中で病死)王族を含む大軍を自ら率いて九州に南下し、当時世界最大最強の大国であった唐との戦に備えて、禁軍大本陣を敷いていた。
この時、天智大王の王女であった後の持統大王も、九州に同行し、従軍している。
大唐の人口は五千万人、朝貢諸国を加えた最大動員可能戦力は三百万人以上ともいわれ、総人口が五百万人しかいない倭国に、到底勝ち目はなく、的確な国力と軍事力の分析ができていれば、外交交渉に委ね、このような猛虎と子猫のような戦はなかったとされる。唐の派遣軍団は十三万人で、新羅の五万人を加えても十八万人、倭国側からみれば、唐は大軍団であるが、最大動員可能戦力三百万人の唐からすれば、実態は、辺境の小さな戦にすぎない。もちろん、日本のように大王を含む統治者一族がほぼ総出で親征することはなく、皇帝らは長安の玉座にゆったりと座して、戦況の報告を受けるだけである。
皇后武照の狙いは二つ。一つめは、開戦前から大勝は確実な情勢で、いかにこの戦が、大戦であるかを、幅広く天下に誇大喧伝し、自らの指導力を示すこと。二つめは、実家の下級貴族である武家の親族や側近の軍人を将軍等に登用し、大勝後に戦功を高らかに皇帝から称賛させ、全軍における皇后自身と武家の指揮権を盤石にすることであった。
武家をはじめとする唐の将軍たちが率いる大軍団は、大唐帝国を実質的に率いる皇后武照の後押しで精鋭を揃え、海陸両面から東方へ侵攻する。名だたる戦略家が武照の意を汲み、あらゆる調略を駆使し、兵站を整えた。やがて、白村江の河口において、倭国と朝鮮の旧勢力が繰り出した連合軍は、唐・新羅連合の猛攻にさらされる。鉄壁の装備と周到な戦略、圧倒的な水軍力を誇る唐は倭国水軍を粉砕し、朝鮮旧勢力を駆逐してみせた。
結果は、唐連合軍の完膚なきまでの勝利であった。倭国側は惨敗し、多くの将兵と艦船を失って、多くの兵士を捕虜として連行され、国威を大きく損ねる。こうした大唐帝国の勝利は、長安の宮廷内で唐と武照皇后、武一族の威信を大いに高め、武照は「(現実には猛虎と子猫の戦であったが)、古来より中華に一国だけ従順せぬ東海の強国、あれほどの連合を打ち破った我が帝国は、まさに天命を受けた無敵の国」と内外に示す口実を得た。
一方で、唐王朝にもし日本侵略の意図があったなら、国を失っていた天智大王は、大敗の処理に奔走し、健康を害してゆく。唐の宮廷に遣唐使を派遣し、実権者の武照皇后のご機嫌を伺い、属国にならない実質属国待遇でかろうじて寸止めすると同時に、国内では「欠地大王」の不名誉だけは回避するべく、様々な唐を模範とした斬新な律令政策を打ち出し、民心の目線を変えさせようとした。
しかし、民衆の間では、「唐が倭国を討伐し、大王一族と高官を捕虜にし唐に抑留するらしい」という噂が拡散し、王族や貴族までがわなないていた。
倭国の宮廷内では、「蘇我父子の呪い」とまことしやかな陰口も流れ、かつて「大化の改新」を成し遂げた輝かしき天智大王は、後継者も確立できない混乱の渦中で「欠地大王」として、栄光と失意の生涯を閉じた。




