第九話 それでも歌は残った
side:Utasiro
指先が、わずかに弦を弾き損ねた。ほんの一音。リュートの音が、意図した高さから外れる。俺は、すぐに手を止めた。
今のは、技術の問題じゃない。弦の張りも、指の位置も、呼吸も合っていた。問題は、同時だったこと。歌と、魔術。二つを、完全に重ねようとした。音が外れた瞬間、指先よりも先に、胸の奥がわずかに遅れた。魔力が歌に追いつこうとして、半拍、迷った感触。――重ねようとした、その一瞬だけ、空気が噛み合わなかった。
「珍しい……」
ラフェルがそう言って、譜面から顔を上げる。その言い方が、前と違った。ただの驚きじゃない。確認するみたいな、少し慎重な声だった。音のズレ自体よりも、「今のが意図したものじゃない」と分かった、という顔。音は、演奏の流れの中に埋もれる程度けど、もう分かるようになったらしい。
俺は、少しだけ間を置いた。――無理だ。出来ないというより、成立しない。歌を主軸にすれば魔術が浅くなる。魔術を通せば、旋律が削れる。どちらも「使えてはいる」のに、同時に「完成しない」。
「……忘れて」
そう言って、俺は弦を撫でた。 ラフェルは、何か言いたげに口を開きかけて、結局何も言わなかった。その沈黙が、少しだけ痛い。――聞かれたら、答えなければならない。出来ない理由も、出来なかった事実も。だから、俺の方から先に線を引いた。
「今日はここまでにしよう」
リュートを構え直し、今度は魔術を切る。純粋な伴奏だけを意識して、音を置く。旋律は、きれいに戻った。ラフェルの歌も、崩れない。
それを確認してから、俺は小さく息を吐いた。――やっぱり、教える側の技じゃないな。歌唱術は、元々そういうものだ。誰かを支えるための術であって、二つを誇示するための技じゃない。それでも、見せたかった。
魔術と歌が、同じ瞬間に存在できることを。理屈じゃなく、「可能性」として。けれど、今日は届かなかった。それだけのことだ。
俺は何事もなかったように、片付けを始める。さっき外した一音のことも、口にはしない。教える、という行為は、必ずしも成功例だけを見せることじゃない。
出来なかったことを、出来なかったまま受け止めるのも、また一つのやり方だ。
その日の依頼は、いつもより少し長引いた。内容そのものは難しくなかった。ただ、想定より一段階、強い魔物が出ただけだ。対応はできたし、怪我もなかった。――それでも、帰り道の足取りが、わずかに重かった。疲労は判断を鈍らせる。それを、分かっていなかったわけじゃない。
路地に入った瞬間、違和感があった。音が、減った。消えたわけじゃない。ただ、首都特有の雑音が、一層ぶん削ぎ落とされたみたいに薄くなる。風がない。人の気配が、遠い。――結界。
即座にそう判断した。遅くとも、その時点で引き返すべきだった。だが、足は戻らなかった。
「……動くな。何か、ある」
声が、思ったより低く出た。ラフェルがこちらを見る。瞳には困惑が滲んでいた。その目に、まだ事態の深刻さは映っていない。
歌えない。魔術も通らない。足元に立ち上がった見えない壁が、それをはっきり告げていた。結界は完成している。外から破るタイプじゃない。最初から、閉じ込める前提の配置だ。
――狙いは、ラフェル。
そう理解した瞬間、思考が一段深く沈んだ。魔術師。魔術と歌唱術を併用する支援型。単独では脅威にならなくても、戦場に一人いれば流れを変える。潰すなら、最初に。――俺なら、そうする。
ラフェルが剣を抜こうとした、その動きが終わる前だった。床に描かれた紋様が淡く光る。気配の薄かった影が、同時に距離を詰めてくる。迷いがない。配置も、手順も、完全に出来上がっている。――対魔術師用。狙いは、最初から決まっていた。
「やめろ!」
声を張るより早く、刃が振るわれた。ラフェルの剣が敵を捉えるより先に、別の角度から炎を帯びた斬撃が飛ぶ。避けきれない。判断する暇もない。肉を焼く匂いが、瞬間的に立ち上った。
「っ……!」
ラフェルの右手が弾かれ、剣が路地に転がる。背中から、右手から、赤黒い血が滲む。致命傷ではない。だが、戦える傷でもない。――計算された一撃だ。魔力は流れない。歌も歌えない。この結界の中で、俺たちはただの人間になる。それを、相手はよく分かっている。
俺は一歩、前に出た。身体が勝手に動いたと言った方が近い。考える前に、立ち位置を変え、ラフェルと敵の間に入る。――まだ、終わらせない。
敵は距離を詰めない。代わりに、包囲を狭める。焦らせるように、逃げ道を削る。ラフェルが、歯を食いしばって立ち上がろうとする。その動きだけで、胸の奥が冷えた。次に狙われるのは、確実に致命点だ。
ここで抗えば、勝てない。逃げ道もない。結界の解除も、不可能。それでも、俺一人なら――。もし、ここで一歩引けば。もし、無理にでも斬り込めば。そんな仮定が、頭を掠める。
「……分かった」
自分の声が、驚くほど静かに響いた。敵の視線が、一斉にこちらへ向く。狙い通りだ。最初から、俺は“付属品”扱いだった。魔術が使えない魔術師など、後回しにしていい存在だと思われている。だが、それでいい。
「剣を置く。抵抗もしない」
ゆっくりと、両手を上げる。敵の一人が一瞬だけ躊躇した。判断が遅れたのは、想定内だ。彼らにとって重要なのは、ラフェルの確保だ。
「ウタシロ、逃げて……!」
ラフェルの声が震える。戸惑いよりも、焦りと恐怖が滲んでいた。俺は振り返らなかった。振り返れば、迷う。
「大丈夫だ」
それだけ言った。本当かどうかは、自分でも分からない。次の瞬間、鎖の冷たい感触が手首に絡みついた。
馬車の中は暗く、狭かった。揺れに合わせて、鎖が鳴る。ラフェルは向かいに座らされている。傷は止血されているが、顔色は明らかに悪い。
敵が、こちらを見やる。会話を許すつもりはないらしい。
ラフェルとは目を合わせなかった。合わせたら、きっと言ってしまう。大丈夫だ、と。約束してしまう。そんなこと、出来る立場じゃないのに。――生きている。それだけで、今は十分だ。胸の奥で、ひとつの考えが静かに固まっていく。この先、救出が来る可能性はある。帝国が、彼を見捨てるとは思えない。
問題は、その時だ。戦闘になれば、確実にラフェルが盾に使われる。俺は歌えない。魔術もない。それでも――身体は、残っている。覚悟を決めよう。最初から、選択肢は一つしかなかった。
倉庫の外で、音が変わった。金属音。短く、鋭い衝撃。敵の緊張が、一段上がるのが分かる。――来た。
結界の内側で起こる戦闘は、異様なほど静かだった。魔力の奔流がない。歌も、詠唱もない。ただ、刃と身体だけがぶつかる音。
敵は、すぐにラフェルを前に押し出した。盾だ。予想通り。視界の端で、刃が閃くのが見えた。彼の動きは正確で、迷いがない。だが、盾がある限り、決定打は打てない。
「大丈夫、絶対に大丈夫だから」
今度は確信を持って言えた。ラフェルが、必死に声を上げようとするのが分かった。――その前に。
身体が、勝手に動いた。鎖の制限を無視して、一歩、前へ。ラフェルと刃の間に、割り込む。衝撃は、思ったよりも重かった。刃が身体を貫く感触。一番最初に感じたのは、重さだった。次に、熱。痛みは、ずっと後から追いついてきた。――ああ、ちゃんと刺さったな。そんな、どうでもいい感想が浮かぶ。
視界が揺れる中で、ラフェルの声だけが、やけに鮮明だった。
「ウタシロ……!」
血が床に落ちる音がする。それでも、後悔はなかった。――これでいい。
俺は、何も出来なかった。歌も、最後まで教えられなかった。それでも、守ることは出来る。視界の端で、敵が制圧されていく。剣の主の声が遠くで響く。戦闘は、もう終わる。
意識が薄れていく中で、ラフェルの無事だけを確認して、俺は目を閉じた。




