第六話 イベント発生:操作不能
夜の路地。足を踏み出した瞬間、音がひとつ消えた。それが何の音だったのか、すぐには分からなかった。風か、人の気配か、それとも自分たちの足音か。
「静かすぎる。首都の夜は、こんなふうに息を潜めたりはしない。どこかで必ず、誰かの生活音がする」
ウタシロが言った、その瞬間だった。風は止み、空気は重く、世界が息を止めたかのようだった。周囲に張り巡らされた見えない壁を見た。結界だ――魔力は完全に封じられている。ここでは歌も歌えないし、魔法も使えない。
「……止まれ」
ウタシロの声が低く響いた。その背中には、いつもより強い緊張が滲む。目の前に迫る人影――複数の影が、包囲網を形成している。振り返ると、後ろにも影があった。左も右も背後も、どこにも逃げ道なんて存在しない。
ウタシロが一歩、前に出た。反射的な動きだったのだと思う。歌えないと分かっていても、身体が先に僕を庇った。
「っ……」
だが、次の瞬間。床に描かれていた紋様が淡く光り、ウタシロの足が止まった。声にならない声が漏れる。――魔法使いを、最初に潰す。あまりにも手慣れていた。
「やめろ!」
ウタシロが制止するより先に、反射的に剣で攻撃した。瞬間、右手に鋭い痛みが走る。剣を落としたところを背中ごと裂かれた。炎を纏った剣のようだ。炎の熱が強い痛みと引き換えに血を止めてくれる。敵の仕掛けた魔道具なのか、それとも計算された“残酷な慈悲”なのか。じくじくと傷を焼く熱さと、痺れるような痛みが、逆に思考を鮮明にする。
敵の手に押さえつけられ、後ろから締め付けられる鎖。冷たい鉄の感触と、皮膚を刺す痛みに耐えながら、僕は必死に抵抗を試みる。しかし、魔力は封じられ、何もすることができない。身動きはほとんど取れず、恐怖と絶望が全身を駆け巡る。僕は自分の無力さを呪った。――僕の事情に、ウタシロを巻き込んでしまった。
「ウタシロ、逃げて……」
声は裏返り、喉を焼くように痛む。鎖がさらに締め付けられた。握りしめた手は虚しく、空を切る。頭の中では世界が揺れ、視界がぼやける。目の前のウタシロの姿が、ゆっくりと遠ざかっていく。意識の端で、鎖に繋がれたまま、馬車へ押し込まれる感覚があった。周囲の声も、馬の蹄の音も、遠く霧のように消えていく。
肩に響く鎖の重さと、背中の冷たい鉄の感触。魔力は封じられ、指先も思うように動かない。結界の壁が意識の隅々まで圧し潰す中で、目に焼き付いているのは、無抵抗に拘束されるウタシロの姿だった。
馬車は一定の速度で走り続け、止まる気配はない。揺れにあわせて、背中の傷が内側から引き裂かれるようにひどく疼いた。右手も、止血されていることは分かるがずっと熱い。この痛みのおかげか、思考は妙に冴えたままだ。
痛みで声が漏れそうになるのを、歯を噛みしめて堪えた。視界の隅にはウタシロの姿がある。向かいに座るウタシロは、一度もこちらを見なかった。それが、どうしようもなくつらい。
鎖に繋がれ、歌うことを許されない彼はとても無力そうに見える。歌えないというだけで、彼はここまで無力になる。それを知っているのに、守れなかった。それでも、その瞳はいつも通り、冷静さを強く孕んでいる。その冷静さに、胸の奥が締め付けられる。――僕が、何とかしなければならない。
言葉に出さずとも心の中で誓う。反撃しなければ、ウタシロがさらに危険に晒される。それだけは阻止しなければならない。血の匂い、痛み、恐怖。すべてが僕に現実を突きつけ、意識を揺るがす。――それでも、思考はウタシロを追いかけて、守る方法を探していた。
馬車が止まり、扉が開く。室内に入り込んだ冷たい空気が、鼻先を刺す。倉庫の奥、暗闇の中にウタシロが連れて行かれる。僕は鎖で縛られ、身動きできない。
魔力は封じられ、歌も唱えられない。手も足も自由にならず、ただ痛みだけが身体を支配する。炎の熱がじくじくと傷を押さえつける一方で、絶望が心を侵食していく。
何もできない自分が、守り切れなかった現実が、どうしようもなく嫌になる。倉庫の壁は冷たく、月明かりも届かない。全身に恐怖が張り付いて離れないままだ。
しばらくして、足音が戻ってきた。反射的に身体が強張る。だが、こちらに向かってくる気配はない。足音はウタシロのいた方向で止まり、短いやり取りのあと、再び遠ざかっていった。
それだけで、胸の奥がひどくざわついた。何をされたのか、何をされるのか。想像するしかない状況が、何よりも残酷だった。
名前を呼びたい衝動を、歯を食いしばって耐える。呼んだところで、助けに行けない。それどころか、余計に目をつけられるだけだ。
分かっている。分かっているのに、喉の奥が焼けるように痛んだ。守ると決めた相手を、こうして想うことしかできない現実が、ただただ悔しかった。
時間の感覚が、少しずつ曖昧になっていく。どれほど経ったのか分からない。ただ、結界の重さと鎖の冷たさだけが、確かに現実としてそこにあった。――生きている。ウタシロも、僕も。そう言い聞かせることでしか、意識を保てなかった。
side:Lune
首都の夜はいつも通り静かだ。魔族も人も、同じ灯りの下で眠る。帝国において、それは珍しい光景ではない。
――だが、今夜は違う。
「報告です、リューヌ様」
扉を叩く音は最小限だった。顔を上げると、部下の表情が固い。それだけで内容は察せた。
「結界の使用を確認。規模は大。詠唱・歌唱、いずれも完全封鎖型です」
「人数は」
「二名。片方は魔法で、もう一人は近接戦闘で抵抗した痕跡があります」
条件が、揃いすぎていた。結界。二人。魔法主体と、それを庇うように動いたもう一人。――そして、今日。
……やっぱり、見つかった。それだけで、十分だった。長い時間を生きてきたが、この感覚は何度味わっても慣れない。
胸の奥で、冷たいものが静かに沈む。結界の型を聞いた時点で、可能性はひとつしかなかった。偶然ではない。それを認めると、胸の奥で何かが軋む。
外交官として、帝国の同盟者として。それらすべてを横に置いたとしても、――僕には、行かないという選択肢を持つ事ができなかった。
「帝国に連絡を。最優先案件だ。――例の件、とだけ伝えればいい」
声は落ち着いていた。外交官として、それ以上の感情を表に出すわけにはいかない。
「対象は?」
「二人とも、だ」
上官としての体面を保つようにそう言ったがしかし、内心は騒ついたままだった。
「帝国側から通達です。救出部隊の編成を許可する、との事です」
「辺境伯領の軍を動かす。一時間後までに出立可能な者を集めておけ」
一瞬の沈黙のあと、部下が頷いた。異論はない。ここで遅れれば、取り返しがつかないことを全員が理解している。
剣を取り、外套を羽織る。腰の剣に手をかけた瞬間、指先がわずかに冷えていることに気づいた。深く息を吸い、吐く。今この瞬間、感情は不要だ。判断と速度、それだけが結果を左右する。それを、何度だって経験してきた。
それでも――胸の奥に沈んだままの違和感は、消えてはくれなかった。今回も、失敗はできない。理由を言葉にする必要はない。僕が動く理由は、いつだって同じだ。
夜の首都は、依然として眠ったままだ。――大丈夫、まだ間に合う。それは祈りに近い言葉だった。やっぱり、どれだけ長く生きていたって、この感覚にだけは慣れることが出来ない。
部屋を出る直前、足が止まった。ほんの一瞬。もし間に合わなかったら、という思考が浮かんだ。――それを、即座に切り捨てる。考える必要はない。僕は、そうなる前提で動いてきたことなど一度もない。外套を翻し、扉を開ける。夜の空気が、冷たく肺に流れ込んだ。




