第五話 スキル習得:歌唱
次の日、ウタシロは家の裏でリュートを取り出した。隣には、まだ使われた形跡のない、新しいリュートも置いてある。
朝は、まだ少し寒かった。家の中では、昨夜の火の名残が微かに残っている。それから、ウタシロは何事もなかったようにリュートを持った。特別な儀式みたいなものは、何もない。だからこそ、これは“稽古”なんだと思った。
「剣の稽古はしないの?」
「今はいい。君には、別のものを覚えてほしい。剣はあとからでも追いつく。でも――これは、今じゃないと駄目」
僕がそう聞くと、ウタシロは少しだけ首を振った。リュートの弦を軽く弾く。音は柔らかく、空気に溶けるようだった。
「歌唱術っていうんだけどね。戦うためだけの魔術じゃない。……生きるためのやつ。歌から入るのもいいけど、楽器と一緒にやるとやりやすいから」
置いてあったリュートを手に取り、構えと指の置き方を真似る。魔力を込めて弦を弾いた。音が鳴った瞬間、弦が震え、魔力が散った。
「……違う」
思わず声が漏れる。ウタシロは否定も肯定もせず、ただ聞いていた。
「今の音、どうだった?」
「全然ちがう。ばらばら、だった」
「分かってるね。じゃあ、もう一回」
正解は言われない。でも、不思議と焦りはなかった。
何度目かの音で、空気が少しだけ変わった。風が、止まった気がした。
「……今の」
「うん。今の感じ、忘れないで」
僕が言いかけると、ウタシロは小さく頷いた。……それ以上は言わない。いつの間にか空の色が茜色に変わっていた。
「明日もやる?」
「やる」
それが、日課になった。
家の中でも、気づいたら指は動いていた。食器を片づけながら、弦を弾く形をなぞる。音は出ない。でも、感触だけは残っている。
無詠唱の魔法なら、もっと簡単だ。そう分かっているのに、指は止まらなかった。これは、もう稽古じゃない。生活の一部になりかけている。ウタシロが見ているのは、きっとこの先だ。
三日目は、何も起きなかった。音は出る。指も動く。それでも、空気は変わらない。風も、音も、ただそこにあるだけだ。
「……昨日は、できたと思ったんだけど」
「気がしただけ、かもしれないね」
そう言うと、ウタシロは少し考えてから、肩をすくめた。否定でも肯定でもない。だから余計に、答えが分からなくなる。
無詠唱なら、もう少し早く結果が出るのに。そう思ってしまった自分に、気づいてしまった。少しだけ、ほんの少しだけ、ずるをしようとした自分が嫌になった。
十日目、その日、ウタシロが一度だけ音を外した。ほんの一瞬。気づかなければ、聞き流せる程度。
「珍しい……」
「忘れて」
僕が言いかけると、ウタシロはすぐに弦を押さえた。声が、少しだけ早かった。理由は聞かなかった。聞かれたくないことがある、というのは言われずとも分かったからだ。
この日の稽古は、少し早く終わった。
「今日は、ここまでにしよう」
そう言って、ウタシロはいつもより早くリュートをしまった。歌えるはずなのに、歌わない。その違和感を、言葉にするのはやめた。たぶん、これは“今は聞くな”という合図だ。
戦闘でも手合わせでも、ウタシロが歌いながら魔法を使うことはなかった。歌が終わってから、改めて術式を組む。その切り替えが、妙に丁寧だった。
僕は詠唱の代わりに空気中へと魔力を流した。ウタシロの水が、少しずつ僕の氷になる。
「……今の、もう無詠唱なんだ。他人の魔力を掴むのって、結構難しいんだけどな」
ウタシロは感心したように、でもどこか確認するように見ていた。
魔法は、強い。正確で、早くて、無駄がない。でも――音が、ない。それが、どうしても気になった。剣で言えば、型だけをなぞっている感覚に近い。間違ってはいない。ただ、何かが足りない。あと一歩で何かが掴めそうな気がした。
指は動いているのに、音だけが遅れる。いや、遅れているんじゃない。――追いつこうとしている。それに気づいた瞬間、少しだけ怖くなった。
何度か、そうして手合わせの形になった。魔法の精度は悪くない。詠唱もいらない。それでも、今回はどこか違う気がした。
一度、できそうになった。音と魔力が、重なりかけた。その瞬間、僕は無意識に“いつものやり方”を選んでしまった。
「……ちょっと待って」
ウタシロが、手を上げた。
「今のは、普通に強い。でも、それじゃ意味がない。君は、最後まで歌ってなかった。歌は、先。魔法は、追いかける」
ウタシロがリュートを構える。ゆっくりと、低い旋律が流れた。音に魔力を乗せる。いつもなら、術式を組む前に終わっている工程だ。それでも、待つ。旋律の隙間に、魔力を滑り込ませる。――空気が、二度揺れた。
水は、歌に合わせて形を変えた。完璧じゃない。でも、確かに――歌に引き寄せられていた。
「……今のって」
「うん。今のだよ。君ならもうできるはずだ」
その日、僕は初めて、魔法を「使う」のではなく、「合わせる」ことができた。歌に合わせる、ではない。歌を待つ、でもない。――ただ、そこにあるものとして受け取るのだ。
できた、とは言えない。でも、分かったことはある。歌唱術は、魔法を早くするためのものじゃない。――魔法を、一人にしないための技術だ。ウタシロが、これを選んだ理由も。たぶん、そこにある。
首都で暮らし始めて、だいたい一年が経った。朝は決まった時間に起き、昼には依頼をこなし、夜は家に帰る。特別なことは何もない。変わったことといえばCランクになったぐらいだ。でも、その“何もない”が、今はなによりも感慨深かった。
目を覚ます。リュートの音が、家のどこかで鳴っている。いつの間にか、この音が目覚まし代わりになっていた。枕元で、指先に柔らかい感触が触れた。いつからだろう、髪が肩を越している。
最初は邪魔で、そのまま後ろに流していただけだった。でも最近は、紐で軽く結うようになった。剣を振る時も、魔法を動かす時も、その方が楽だし、慣れている。短かった頃の感覚は、もう思い出せない。
家事をする時も、歌に合わせて魔法を動かすようになった。声に出すほどでもない旋律を、喉の奥でなぞるように歌う。すると、空気が少しだけ和らぐ。火種が、静かに息を吹き返した。以前なら、集中が途切れた瞬間に崩れていた。でも今は、違う。魔法は、歌から離れなかった。
今日は、近くの畑までの見回りをするという依頼を受けた。魔物というほどでもない、小さな影が草むらを動く。剣に手をかける前に、音が出た。
低く、短い旋律。それに合わせて、地面の霜が薄く伸びる。影は逃げるように散った。
「歌の、魔術……?」
一緒に来ていた村人が、首を傾げた。そう言われて、自然と声を出していたことに気がついた。
帰り道、市場で屋台の店主が声を返せてきた。
「今日は一人かい?」
「依頼の手続きをしてる。あとから、あの人も来るよ」
そう答えるのが、当たり前になっていた。ウタシロがいない時間を、自然に“待つ”ようになっていた。
「……最近、雰囲気変わったな」
「そう?」
「いや、悪い意味じゃない。落ち着いたっていうか……音と同じだな」
パンを受け取る時、店主がこちらを見た。無意識に、結った髪に指が触れる。何のことか分からず、首を傾げる。でも、否定はできなかった。
夜、ウタシロは時々、歌う。魔法でも、稽古でもない。ただの、静かな歌だ。それを聞きながら眠るのが、いつの間にか習慣になっていた。
――このままでも、いいんじゃないか。1年間何もなかった。これからも何も無いかもしれない。そんなことを、ふと思った。帝国にいて、ウタシロがいて、今日が、昨日の続きであるなら。それ以上、何を望む必要があるだろう。
この日の依頼はいつもより少し手間取った。依頼内容よりも強い魔物が出たのだ。いつも以上に疲れていた。だから、油断していたのかもしれない。
帰り道、家へと続く細い路地へと入った。今日は少し疲れたけど、家に帰れば、あの音がある。そう思った瞬間、路地の空気が、音がひとつ消えた。人の声が遠のく。風が止まり、空気が滞る。まるで、世界が少し剥がれ落ちたみたいだ。
「……動くな。何か、ある」
ウタシロが剣に手をかける。珍しく強い言い方。なにか、いつもと違うのは明白だった。足元に、見えない壁が立ち上がる。
魔力が、流れない。ウタシロが、前に出る。その背中を見た瞬間、嫌な予感だけが、はっきりと形を持った。




