第三話 新エリア:迷宮都市
風が頬を撫ぜた。
転移の光が消えた瞬間、僕は思わず目を細める。視界に飛び込んできた光景が、あまりにも予想からかけ離れていたからだ。足元には白い石畳が広がっている。だが、そこから少し視線を上げた瞬間、言葉を失った。
空だった。どこを見ても、空が広がっている。遥か下には雲海が広がり、白い雲がゆっくりと流れている。その上に、まるで島のように巨大な都市が浮かんでいた。
白い石造りの建物がいくつも並び、空中に架けられた回廊が建物同士を繋いでいる。さらに遠くには、宙に浮かぶ塔や神殿のような建造物も見えた。
迷宮、と聞いて想像していたものとはまるで違う。むしろ、これは――。
「……都市、だ」
思わず呟く。隣でセシルが静かに頷いた。
「ええ。迷宮というより、都市構造に見えます」
フリューゲルはくすりと笑う。
「まあ、そうだね」
両手を後ろで組みながら、くるりとこちらを振り返った。
「ここがボクたちの迷宮」
それから、少しだけ誇らしそうに続ける。
「天空迷宮。ボクたち天使の住処だよ」
フローレンスはすでに周囲を観察していた。建物の形や空中回廊の構造を、目を輝かせながら見上げている。
「信じられない……」
小さく呟く。
「この規模の浮遊構造物が安定しているなんて……しかも、支柱も重力制御装置も見当たりませんわ」
完全に研究者の顔だった。リューヌが肩をすくめる。
「フローレンス、少しは落ち着いたらどう?」
「落ち着いていられるわけがありません」
フローレンスは即答した。
「空に都市が浮いているんですのよ?」
もっともな意見だと思う。その時だった。遠くの回廊を歩いていた人影が、こちらに気づいたらしい。白い衣服をまとった人物が二人、こちらに歩いてくる。近づいてきて初めて気づいた。背中に、白い翼がある。二対の翼だった。
彼らはフリューゲルを見ると、自然な調子で声をかけてきた。
「おかえりなさい」
「フリューゲル様、お戻りでしたか」
フリューゲルは軽く手を上げる。
「ただいまー」
まるで近所行って帰ってきたかのような気軽さだった。天使たちはそのまま僕たちに視線を向ける。ほんの一瞬、空気が変わった。視線が鋭くなる。
「……こちらの方々は?」
片方の天使が静かに尋ねた。フリューゲルは気楽に答える。
「お客さん」
「客、ですか」
天使たちは一瞬だけ互いに視線を交わした。それから、わずかに表情を引き締める。
「迷宮への立ち入り許可は」
「まだ」
フリューゲルはあっさり言う。
「これからフィガロに会いに行くところ」
その名前を聞いた瞬間、天使たちはすぐに頷いた。
「そうでしたか」
「ではご案内いたしましょう」
フリューゲルは首を振る。
「いや、大丈夫。道は知ってるし」
それだけ言って、くるりと踵を返した。
「行こっか」
僕たちはその後ろについて歩き出す。石畳の道は広く、左右には白い建物が並んでいる。どれも古い建築のように見えるが、不思議なことに崩れている様子はない。
むしろ、今も使われているようだった。遠くでは天使たちが普通に生活している。回廊を歩き、空中庭園のような場所で話をしている者もいる。迷宮というより――街だ。
歩きながら、僕はフリューゲルに尋ねた。
「ここに、天使たちは住んでいるんだ?」
「うん」
フリューゲルは軽く頷く。
「まあ全員じゃないけどね。ここは迷宮だから」
「迷宮……」
僕は改めて周囲を見る。とてもそうは見えない。その時、セシルが小さく言った。
「……気配があります」
足を止める。僕も同時に感じた。鈍い音。どこか遠くから、重い振動が伝わってくるような感覚。フリューゲルが「あ」と声を漏らした。
「ありゃりゃ、起きちゃったか」
その瞬間だった。前方の通路の奥で、何かが動く。白い石の壁の向こうから、巨大な影が現れた。それは人型だった。だが、普通の人間とは比べものにならないほど巨大だ。三メートルはある。白い石で出来た体には、複雑な文字のような模様が刻まれている。ゆっくりと、こちらへ視線を向けた。
「守衛ゴーレム、ですね」
セシルが静かに言う。ゴーレムの体表に刻まれている文字を見て、フローレンスが息を呑んだ。
「……迷宮文字」
ゴーレムが一歩踏み出す。石が擦れるような低い音が響いた。その瞬間、体表の文字が淡く光る。
『侵入者、検知』
機械のような声が響いた。
『迷宮管理領域。未認証個体を確認』
空気が張り詰める。リューヌが一歩前に出た。
「フリューゲル」
「うん?」
「これは?」
フリューゲルは少し考えるような顔をして、それから言った。
「たぶん、防衛機構」
まるで他人事だった。
「たぶんって……」
リューヌが呆れたように言う。フリューゲルは肩をすくめた。
「だってボク、許可出してないし」
その瞬間、ゴーレムの目が光った。石の巨体がゆっくりと一歩踏み出す。石畳が軋み、低い振動が足元から伝わってきた。だが、その前に。
「ちょっと待って」
フリューゲルが軽く手を上げた。まるで「話の途中だよ」とでも言うような気軽さだった。ゴーレムは動きを止めない。だが、その一歩はどこか機械的で、判断を測っているようにも見えた。フリューゲルは僕たちの方へ振り返る。
「まあ、慌てなくていいよ」
のんびりした声で言う。
「ここは迷宮だからね。許可のない人は基本的に歓迎されない」
「歓迎されない、で済む話なの?」
リューヌが低く言った。フリューゲルは首を傾げる。
「うーん」
少し考える仕草をして、それから言う。
「まあ、50%くらい?」
あまり安心できる数字ではなかった。セシルが一歩前へ出る。剣に手をかけたまま、落ち着いた声で言った。
「フリューゲル様」
「なに?」
「迷宮の防衛機構であるならば、侵入者への警告段階があるはずです」
「あるよ」
「ならば」
セシルはゴーレムを見据える。
「まだ攻撃段階ではない、ということでしょうか」
フリューゲルは少し目を細めた。そして、くすっと笑う。
「察しがいいね」
その一言で、セシルは薙刀の構えを崩した。完全に油断したわけではない。だが、少なくとも今すぐ戦闘になる状況ではないと判断したらしい。フローレンスがゴーレムをじっと見上げる。
「……非常に興味深いですわ」
小さく呟いた。
「体表に刻まれている文字。迷宮文字ですわね」
ゴーレムの白い石の体には、複雑な文様のような刻印が刻まれている。それはただの装飾ではない。魔導回路のように、一定の規則性を持って並んでいた。淡く光るその文字を、フローレンスは食い入るように見つめる。
「こんな規模の魔導機構……帝国でも見たことがありませんわ」
「そりゃそうだよ」
フリューゲルが言った。
「だってこれは迷宮のものだから」
それから、少しだけ誇らしそうに続ける。
「ボクたちの迷宮は、ちょっと特別なんだ」
その言葉に、僕はふと周囲を見渡した。白い建物。空中回廊。浮かぶ石柱。天使たちの生活。迷宮という言葉から連想するものとは、あまりにも違う。それはまるで――どこかの国の都のようだった。
「……ここって」
思わず口に出る。
「本当に迷宮なの?」
フリューゲルは少しだけ考える顔をした。
「うーん」
それから肩をすくめる。
「元は違ったけどね」
さらりと言う。フローレンスがすぐ反応した。
「元は、というと?」
「うん」
フリューゲルは軽く頷く。
「ここは昔、国だった」
僕たちは同時にフリューゲルを見る。だが、彼はそれ以上説明しない。くるりと踵を返し、再び歩き出す。
「まあ、その話はあとで」
気楽な声だった。
「フィガロに会えば、たぶん聞けるよ」
僕たちは顔を見合わせ、それからフリューゲルの後を追った。ゴーレムはまだそこに立っている。巨体はゆっくりとこちらを見下ろしていた。石の顔には表情がない。だが、その視線だけは確かに僕たちを追っている。
フローレンスが小さく言った。
「監視されていますわね」
「迷宮だからね」
フリューゲルが答える。
「一応、ちゃんと管理してるんだよ」
それから少しだけ振り返る。
「暴走したら困るし」
「暴走?」
リューヌが眉をひそめる。フリューゲルは笑った。
「迷宮って、そういうものだろ?」
軽い口調だった。だが、その言葉の奥に何か別の意味があるような気がして、僕は少しだけ背筋に寒気を覚えた。
その時だった。ゴーレムがもう一歩、前に出た。石畳が軋む。低い振動が響く。体表の文字が、ゆっくりと光を強めていく。
『排除対象認定』
腕がゆっくりと持ち上がる。セシルが静かに剣に手をかけた。リューヌも同時に魔力を練る。フリューゲルは少し離れた場所に移動して、壁にもたれかかった。
「まあ、大丈夫大丈夫」
楽しそうに言う。
「死ぬほどじゃないから」
その言葉と同時に、ゴーレムが動いた。




