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第二話 新NPC:フリューゲル


 それから少しの間、応接室に静かな時間が流れていた。窓の外からは街のざわめきが遠くに聞こえ、カーテンが風に揺れている。フローレンスは手帳を見つめたまま何か考え込んでいるようだったし、リューヌはそんな彼女の様子を面白そうに眺めていた。


 やがて、廊下の向こうから二人分の気配が近づいてきた。扉が開かれる。先に姿を見せたのはオペラだった。


「待たせたわね。紹介するわ」


 軽く手を挙げてそういうと、オペラは横に半歩ずれた。その後ろから、もう一人が静かに部屋に入ってくる。


 少年のような、人物だった。長い髪が左右で結ばれていて、肩の後ろに流れている。片方の目は前髪で隠れ、もう片方の目は黒い布で覆われている。その姿だけ見れば年齢は二十代前後にも見えるけれど、人間とは違う、どこか現実味の薄い雰囲気をまとっている。


 その人物は部屋の中をゆっくりと見渡し、それから静かに一礼した。

 

「初めまして」


 明るい声だった。


「ボクの名前はフリューゲル。天使陣営の外交役をしている」


 天使。その言葉を聞いた瞬間、僕は思わずフリューゲルを見直した。確かに、人間とも魔族のそれとも違う雰囲気ある。翼や天環は見えなけれど、どこか透明感のある存在だった。


 ――天使。その言葉の響きは、この世界では決して珍しいものではない。神話や伝承の中では何度も語られる存在だ。けれど、こうして目の前に立っているとなると話は別だった。


 ただ、何かが違う。上手く言葉にはできないが、人とも魔族とも違う、もっと根本的な何かが違うように感じる。気配とでも言えばいいのか、それとも存在の密度のようなものなのか。目の前に立っているだけなのに、空気の質がわずかに変わったような感覚があった。

 

 フリューゲルはこちらの視線に気付いたのか楽しそうに首を傾げた。


「ん?そんなに珍しかった?」


 その声には悪意も警戒もなく、本当に不思議そうな響きだけがあった。


「いや……」


 僕が返答に困っていると、リューヌが肩をすくめた。


「天使を見るのは初めてなんだよ、ラフェルは」

「ああ、なるほどね」


 フリューゲルは納得したように頷くと、軽い足取りでテーブルの方へ歩いてくる。その動きは妙に軽やかで、足音がほとんど聞こえない。人間の歩き方とは、どこか違っていた。そして、テーブルに置かれた手帳に、ふと視線を落とす。


「へぇ……」


 興味深そうに身を乗り出した。


「これ、キミの?」

「そうだけど……」


 僕は頷く。フリューゲルは手帳を覗き込み、しばらく黙って文字を眺める。かがみ込むことで(あらわ)になったターコイズ色の瞳が、わずかに細められた。


 フリューゲルはさらに数ページめくり、紙面に並ぶ文字を興味深そうに眺める。指先で軽くなぞりながら、何度か小さく頷いた。


 その仕草は研究者というより、珍しい玩具を見つけた子供のようだった。けれど、ただ眺めているだけのように見えて、視線の動きは妙に正確だった。文字の配置や線の形を、一つ一つ確かめるように追っている。


 その様子を見て、僕は少しだけ背筋が伸びた。この天使は、見た目こそ無邪気だが、間違いなくこの文字について、深く理解している。

 

「ふぅーん……」


 それから、くすっと笑う。


「面白いね」


 その言葉に、フローレンスが勢いよく身を乗り出した。


「何か、ご存知ですの?」

「うん」


 フリューゲルはあっさり頷く。


「これ、迷宮の文字だよ」


 部屋の空気が、ぴたりと止まった。フローレンスが息を呑む。


「やはり……!」


 セシルもわずかに目を細めた。


「断言なさるのですね」

「うん、だって」


 フリューゲルは指先で文字をなぞる。


「これ、ボクたちが作った文字だし」


 さらりと、とんでもないことを言った。僕は思わず聞き返していた。


「……作った?」

「うん」


 フリューゲルはあっさり頷く。


「正確には、迷宮を作った連中だけどね。ボクはその時いなかったから」


 言いながら、楽しそうにソファの肘掛に腰掛けた。


「でも、同じ系統の文字だよ。間違いない」


 フローレンスは完全に研究者の顔になっていた。


「つまり、この文字は迷宮と同じ文明圏のもの……?」

「たぶんね」


 フリューゲルは肩をすくめる。


「少なくとも、この世界の文字じゃない」


 その言葉に、僕は無意識に手帳を見た。そこに書かれているのは、僕の世界の文字だ。けれど今、目の前の天使はそれを迷宮の文字だと言った。胸の奥に、小さな違和感が広がる。


「ねえ」


 フリューゲルが楽しそうに僕を見た。


「キミ、迷宮に行きたい?」


 フローレンスがぱっと顔を上げた。


「行けるんですの?」

「うん」


 フリューゲルはあっさり頷く。


「ボクが連れていけるよ」


 その言葉に、リューヌが少しだけ笑った。


「相変わらず気軽に言うね」

「だって簡単だし」


 フリューゲルは肩をすくめる。それから立ち上がると、部屋の中央へ歩いていった。僕たちの視線が自然とその背中を追う。


「ここでいいかな」


 そう言って足を止める。そして、何でもないことのように右手を軽く持ち上げた。――次の瞬間だった。空気が、わずかに震える。僕は思わず息を呑んだ。フリューゲルの背中から、光が滲むように広がっていく。


 最初は淡い光だった。それが次第に輪郭を持ち、やがてはっきりとした形を取る。――翼だった。白い羽根が幾重にも重なり合った六対の翼が、静かに広がる。羽ばたくわけでもないのに、そこにあるだけで周囲の空気が変わるようだった。


 そして同時に。フリューゲルの頭上に、ひとつの輪が現れる。金属のような質感を持った円環――天環。静かに浮かび、淡く輝いている。


 その光は眩しいほどではないのに、目を離すことができない不思議な存在感を持っていた。フローレンスが小さく息を呑む。


「……天使」


 その呟きが、静かな部屋に落ちた。フリューゲルは振り返る。翼を背に広げたまま、まるで何でもないことのように笑った。


「そんなに珍しいかなぁ?」


 リューヌが肩をすくめる。


「まあ、普通はそう簡単には見せないものだからね」

「そうなの?」


 フリューゲルは少し驚いたように目を瞬かせる。


「別に減るものでもないのに……オペラも行く?」

「いいえ、私には執務があるから」

「そっか」


 そう言いながら、片手を軽く振る。すると床の上に、淡い光の線が浮かび上がった。


 幾何学的な紋様がゆっくりと広がっていく。円が重なり、その間を複雑な線が結び、見たこともない文字がいくつも浮かび上がる。


 魔法陣だった。それは床いっぱいに広がり、淡く輝きながらゆっくりと回転している。その瞬間。僕の背筋を、冷たい感覚が走った。


「……ぁ」


 思わず声が漏れる。その模様、その配置、その文字。どこかで見たことがある。いや、どこかじゃない。――あの時だ。召喚された時。あの神殿の床に描かれていた、あの魔法陣と。どこか、似ている。完全に同じではない。でも。同じ理屈で組まれている気がする。


 フリューゲルはそんな僕の様子に気づいたのか、不思議そうに首を傾げた。


「どうしたの?」


 僕は少し迷ってから言った。


「……この魔法陣」


 ゆっくりと、言葉を続ける。


「見たことある気がする」


 その言葉に、セシルが静かに視線を向けた。


「……召喚の時ですか?」


 僕は小さく頷く。フリューゲルは一瞬だけ考えるように目を細め、それから楽しそうに笑った。


「へえ」


 興味深そうな声だった。


「それは面白いね」


 そして、軽く手を振る。


「まあ、その話はあとでいいや」


 魔法陣の光が強くなる。翼がゆっくりと広がり、天環が淡く輝いた。


「とりあえず……」


 フリューゲルは、子供のように楽しそうな声で言った。


「迷宮、行ってみようか」


 次の瞬間。光が視界を包み込んだ。

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