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第一話 新拠点:辺境伯領



 side:Raphael


 丘を超えたところで、車窓から黒い石で築かれた城壁が見えてきた。城壁の内側には街が広がっていて、遠くからでも人の往来の多さがわかる。けれど、近づくにつれて僕は少し意外に思った。


 街を歩いているのは人だけではない。狼の耳を持つ男性や角の生えた女性、肌の色が人とは違う子供など、魔族や獣人の姿が普通に混ざっていたからだ。帝国ではそれほど珍しくない光景ではないけれど、人族の国――たとえば聖王国で育った者が見ればきっと驚くだろう。


「……思っていたより、普通だね」


 思わずそう言うと、隣に座っていたリューヌが小さく笑った。


「何を想像していたの?」

「もっとこう……物騒な感じかなって」

「それは人間たちの偏見だね。ここは帝国の同盟領だよ。人間の国よりも、よっぽど落ち着いてる」


 その会話を聞いたセシルが、穏やかな声で言った。


「この辺りは特に治安がいいですからね。交易も多いですし、領主も穏やかな方です」

「セシルは会ったことあるの?」

「ええ。一応、私の所属は辺境伯領なので」




 領主館の前には一人の女性が立っていた。領主と聞いていたから、もっと年上の人物を予想していたのだが、彼女は十代後半ほどにしか見えない。肩にかかる長い茶髪をサイドでまとめ、黒いドレスを着ている。落ち着いた装いだが、その濃いピンク色の瞳が妖しく煌いている。


 女性は僕たちを見ると柔らかく微笑み、その視線をリューヌに向ける。


「久しぶりね、リューヌ」


 親しげな口調だった。リューヌも軽く手を挙げる。どうやら、二人は知り合いらしい。


「元気そうで何よりだよ、オペラ」

「あなたが来るときは、だいたい仕事なのよね」


 オペラが少し呆れたように言う。


「今回もそうなの?」

「半分仕事で、半分休暇」

「相変わらず忙しそうね」

「外交官なんてそんなものだよ」


 二人のやりとりを聞きながら、僕は少し驚いていた。リューヌがこの領地と関わりが深いことは知っていたが、領主とこんなふうに親しく話しているとは思わなかったからだ。


 オペラの視線が僕に向いた。


「その子は?」

「ラフェルだ」


 リューヌが僕の方を示す。僕は軽く頭を下げた。


「ラフェルです。よろしくお願いします」


 オペラは小さく首を傾げ、それから穏やかな笑みを浮かべた。


「私はオペラ、この領地を預かっているものよ。よろしくね、ラフェル」


 続いて、オペラの視線がフローレンスに移る。


「あなたは?」


 フローレンスは丁寧に一礼した。


「フローレンスと申しますの。しばらくお世話になるのだわ」

「そう、よろしく。……セシルも一緒なのね」


 どこか親しみのある声音だった。


「お久しぶりです、オペラ。今回は護衛として同行しております」

「あなたがいるなら安心ね」


 セシルは穏やかな口調のまま、きちんとした礼の姿勢を崩さない。その動きは慣れたものだった。オペラは少しだけ目を細めて笑う。


「最近は顔を見なかったけれど、忙しかったの?

「ええ、少し帝国側の事情が立て込んでおりまして」

「リューヌのそばにいると、大変よね」


 そんなやりとりを見ながら、僕は小さく瞬きをした。どうやらセシルも、リューヌと同じくらいこの領地と関わりが深いらしい。案外、僕は彼らのことを知らなかった。


 オペラは改めて僕たちを見回すと、軽く手を叩いた。


「立ち話もなんだし、中へどうぞ。長旅だったでしょう?」




 屋敷の中は外観と同じく黒い石で造られていたが、内部は思っていたよりずっと明るかった。高い天井に見合う大きな窓があり、そこから差し込む光が廊下を柔らかく照らしている。 壁には古い絵画や紋章がいくつか掛けられている。装飾は控えめだが、手入れは行き届いていて、どこか落ち着いた雰囲気があった。


 案内されるままに歩いていると、フローレンスが小さく感嘆の声を漏らす。


「素敵なお屋敷なのだわ」

「古い建物なの」


 オペラは振り返りながら言った。


「三百年くらい前に建てられたものだから、ところどころ修繕はしているけれど」

「三百年……」


 その数字に僕は少しだけ引っ掛かりを覚えた。同じ頃、この辺りには――。そこまで考えたところで、リューヌが軽く肩を叩いた。


「ラフェル?どうかした?」

「ううん。なんでもない」




 やがて通されたのは広い応接室だった。窓からは辺境伯領の街並みがうかがえる。テーブルにはすでにお茶が用意されていて甘い香りが部屋に広がっていた。窓から入る風がカーテンをゆっくり揺らし、外の街のざわめきがかすかに聞こえてくる。


「どうぞ、楽にして」


 オペラがそう言って席に着く。僕たちもそれぞれ椅子に腰を下ろした。


 温かいお茶を口に含むと、ほんのりとした甘みが広がる。香りも柔らかく、旅の疲れが少しずつほどけていくようだった。


 しばらくは旅の話や帝国の様子など、取り留めのない会話が続いた。けれど、ふとした拍子にフローレンスが思い出したように僕の方を見た。


「そういえば、ミスターラフェル」

「うん?」

「あなたの世界の文字について、少しお聞きしてもよろしいかしら」


 突然の質問に、僕は少し首を傾げる。


「文字?」

「ええ」


 フローレンスは小さく頷いた。


「以前、あなたが書いていたメモを見せていただいたのだわ? あの文字、とても興味深いと思ったんですの」

「ああ……」


 そういえば、旅の途中で少しだけ見せたことがあった。


「もしよければ、もう一度見せていただけないかしら」


 僕は少し考えたが、特に断る理由もない。鞄から手帳を取り出してテーブルの上に置いた。フローレンスは嬉しそうにページを開く。そして、


「……あら?」


 小さく声を漏らした。


「どうしたの?」


 僕が聞くと、フローレンスは少し不思議そうな顔をしている。


「この文字……」


 指先でなぞりながら、ゆっくりと言った。


「どこかで見たことがある気がするのだわ」

「え?」


 思わず声が出た。フローレンスは少し考え込むように眉を寄せる。


「確か……文献だったと思うのだけれど……」


 その時だった。セシルが手帳を覗き込み、静かに言う。


「迷宮の文献ではありませんか?」


 フローレンスがはっと顔を上げた。


「……それですわ!」

「迷宮?」


 僕は思わず聞き返す。セシルは頷く。


「空に浮かぶ迷宮。あそこには独自の文字体系があります。私も一度だけ目にしたことがありますが……確かに、雰囲気は似ていますね」


 僕は手帳の文字を見る。それから、セシルを見る。


「つまり……」

「断定はできませんが」


 セシルは落ち着いた声で続けた。


「この文字と迷宮の文献が、何らかの関係を持っている可能性はあります」


 その言葉に、部屋の空気が少しだけ変わった。フローレンスはすでに目を輝かせている。


「もし本当にそうなら……とても興味深いのだわ」


 僕は少しだけ息を吐いた。まさか、自分の世界の文字がこんなところで関係してくるとは思っていなかった。


 ただ――胸の奥に、妙な違和感が残った。本当にこの文字が、迷宮と関係しているのなら。もしかすると、僕がここにいる理由も――。そこまで考えたところで、オペラが立ち上がった。


「ごめんなさい。少し席を外すわ」

「仕事?」


 リューヌが聞く。


「ええ、少しね。ゆっくりしていて、すぐに戻るから」


 オペラは軽く肩をすくめた。そう言って、部屋を後にする。扉が閉まったあと。フローレンスは、もう一度手帳の文字を見つめた。


「……迷宮の文献」


 小さく呟く。


「もし本当に同じ系統の文字なら」


 ゆっくり顔を上げる。


「直接見てみたいですわ」


 僕は窓の外を見た。遠くの空の向こう。あの空島に、何かあるのかもしれない。

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