表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/42

第一話 神が堕ちた日


 side:Lune


 馬車の中に、短い沈黙が落ちた。揺れる車体、車輪の軋む音。冬の森を抜ける風の音だけが、静かに耳に届いている。


「君たちには、隠す必要はないと思った」


 ラフェルが言った。


「僕の真名(まな)は……フィエル・ハイペリオン」


 それだけだった。ただ名前を告げただけ。それだけなのに。僕は、わずかに目を細めた。――初めてだ。胸の奥に、小さな違和感が生まれる。驚きではない。むしろ逆だ。どこか懐かしいような、妙な感覚。けれど、確かに初めてだった。


 馬車の中では、それぞれ違う反応をしていた。フローレンスはきょとんとした顔でラフェルを見ている。


「フィエル……?」


 小さく首を傾げて、名前を繰り返した。


「それが本当の名前なんですの?」

「うん」


 ラフェルは軽く頷く。


「今まで名乗ってきたラフェルは偽名」


 あまりにもあっさりした口調だった。まるで大したことじゃない、とでも言うように。


「随分と、あなたらしい名前なのだわ」

「そうかな?ありがとう」


 それだけだった。それ以上説明するつもりはないらしい。


 フローレンスは一瞬、まだ何か言いたそうな顔をしたが、結局「ええ」と小さく息を吐いて背もたれに体を預けた。


 馬車の中に再び静寂が戻った。車輪が雪の残る道を踏む音が、規則的に響いている。窓の外では、冬の森がゆっくりと流れ、灰色の空の下で枝に積もった雪がかすかに揺れていた。どこにでもあるような冬の景色。特別なものなんて何もない。


 けれど、僕の胸の奥には言葉にしづらい違和感が残っていた。理由は分かっている――フィエル。ラフェルが口にした、本当の名前。その名前を、僕は今まで一度も聞いたことがなかった。少なくとも、この世界では。


 僕は視線を窓の外へ向ける。空から、白い粒が静かに落ちてきているのに気がついた。いつの間にか、雪が降り始めていたらしい。細かな雪は、風に流されながら木々の上を漂い、枝や地面にゆっくりと積もっていく。冬が、少しずつ深くなっていくようだった。


 その景色をぼんやりと眺めていると、不意に視線を感じた。顔をあげると、向かいに座っているセシルと目が合った。彼は何も言わず、ただ静かな瞳でこちらを見ていた。


 ほんの一瞬のことだったが、それだけで十分だった。言葉にする必要はない。僕と同じ違和感を、セシルも感じているのだと分かったからだ。


 ラフェル――いや、フィエルが自分の真名を口にする。それがどれだけ珍しいことなのかを、この馬車の中で理解しているのはおそらく僕とセシルだけだろう。どれだけ賢くても、フローレンスにとっては、ただ少し変わった自己紹介に過ぎないはずだ。けれど、僕にとっては違う。この世界でその名を聞くのは、初めてだった。


 馬車の揺れに身を任せながら、ゆっくりと息を吐く。規則的に続く車輪の音は単調で、耳にしていると不思議と記憶を呼び起こす。考えないようにしていても、どうしても思い出してしまいそうになる。


 僕は、幾つの世界を見てきたのだろう。正確な回数は覚えていない。途中で数えるのをやめてしまったからだ。百回目だったか、千回目だったのか、それとももっと前だったのかすら曖昧になっている。ただ確かなのは、どの世界でも、ラフェルという存在が大きく変わることはなかったということだ。


 彼はいつも自分のことを多く語らない。過去を隠し本当の名前を使うことなんてほとんどない。何を考えているかわからないような顔をしながら、それでも人を惹きつけるところがあって、気がつけば周りに人が集まっている。そんな人物だった。


 そして――最後には、決まって何か壊れる。


 世界が違っても、出会い方が違っても、細かな出来事が変わっても、そこだけはなぜか似たような結末にたどり着いてしまう。避けようとすれば別の歪みが生まれ、選択を変えれば違う形で崩れていく。――まるで、最初からそう定められたように。


 僕はラフェルを見る。窓の外の降り始めた雪を眺めるその横顔はいつもと変わらないように見える。穏やかで、どこか肩の力が抜けたような表情で、まるで何も知らないかように静かに景色を見ている。


 その姿を見ながら、僕は胸の奥で小さく考える。今回は、少し変わるかもしれない。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              


 ほんの些細な違いだ。名前を明かした、それだけのことに過ぎない。けれど今までの世界では、その「それだけ」が一度も起きなかった。


 その事実が、僕の心にわずかな波紋を広げている。


 期待など、とっくの昔に捨てたはずだった。それでも完全に消えてはいなかったらしい。雪の降る森を眺めながら、僕は自分でも呆れるほど小さな希望を抱いていることに気づく。


 もしかしたら。今度こそ。そんな考えが頭をよぎる。けれど同時に、過去の記憶も静かに蘇ってくる。何度も見てきた結末と、何度も繰り返してきた選択の重さが、僕の胸の奥に沈んでいた。


 僕は目を閉じる。雪の音と馬車の揺れが重なり合い、記憶がゆっくりと過去へ引き戻されていく。あれは、今よりも少し暖かい季節だった。まだ僕が、運命というものを今ほど諦めていなかった頃の話だ。


 そして――僕が初めて、ラフェルという存在に出会った世界でもあった。




 side:Ci⬛︎l


 昔々――世界がまだ若くて、空と大地の境が曖昧だった頃の話。世界には、三柱の神がいたと言われていた。


 一柱は、すべての始まりを司る神。万物を生み出した、創造神。その名を――シエル。


 一柱は、大地と命を育む神。森を生み、海を満たし、命を育てた神。地母神――アデル。


 母なる大地と呼ばれているが、その神は男神(おがみ)であったと言われていた。


 そして最後の一柱。すべての命の行く末を定める神。始まりでも終わりでもない。ただ、その間にある道を決める神。運命の神。その名を――フィエル。


 三柱の神は世界を作り、命を生み、そして見守った。長い長い神話の時代。人も魔族も獣人も、まだ弱く、幼く、神を恐れていた。


 だが、人はやがて知ることになる。自分たちの人生が、見えない糸で結ばれていることを。どれだけ努力しても、

どれだけ願っても、決して変わらない未来があることを。人々はそれを――運命と呼んだ。


 そして恐れた。自分たちの未来が、神に決められていることを。人は祈りながら、同時に憎むようになる。運命の神を。


 やがて囁かれるようになった。運命を定める神は、自由を奪う神だと。未来を決める神は、災いの神だと。邪神だと。


 それがいつ、誰の口から始まったのかは分からない。ただ一つ確かなのは、その囁きはやがて炎のように広がり、ついには――神を殺そうとする者が現れたということだ。


 神話の終わり。神殺し。創造神シエルも、地母神アデルも、その戦いには加わらなかった。


 ただ一柱、運命の神だけが狙われた。なぜなら、人は未来を決める神だけを恐れていたからだ。


 その戦いの詳細を知る者は、もういない。神話は語り継がれるうちに形を変え、真実は霧の向こうへ消えてしまった。


 ただ一つだけ、確かに語り継がれていることがある。運命の神フィエルは――殺された。


 神としての肉体は滅び、神格は砕け散り、魂は堕ちた。そしてその魂は、人として生まれ変わったと言われている。


 運命の神だった男は、ただの人間として、この世界に生まれ落ちた。もっとも、それを知る者など、ほとんどいなかったのだが。


 ――いや。正確に言えば、一人だけいたか。神話の時代から生き続けている、古い魔族。始祖の血を引く者。その男の名は、――リューヌ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ