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第六話 長い時間のあとで


 父さんが死んでから、数日が過ぎた。


 朝になると、僕はいつも通り森へ出る。水を汲み、罠を見に行き、薪を集める。獣の足跡を探して歩き、弓を引く。火を起こして、肉を焼いて食べる。


 父さんと一緒に覚えた、森で生きるための当たり前の作業だ。水の流れを読むこと、獣の足跡の違いを見分けること、湿った薪でも火を起こすコツ。どれも父さんが教えてくれたことだった。

 

 やることは、父さんがいた頃と変わらない。けれど、どこかが違っていた。罠を外す時、背後から父さんの足音が聞こえる気がする。弓を構えた時、横から姿勢を直される気がする。焚き火の前に座ると、向かいに父さんがいるような気がする。


 もちろん、そんなことは起きない。振り向いても、そこには誰もいない。父さんがいないという事実は、もう分かっている。頭では理解している。けれど、体の方はまだそれに慣れていないらしい。


 森は相変わらず静かだった。風が木々を揺らし、遠くで鳥が鳴く。昨日と同じように、今日も朝が来て、夜になる。


 変わったのは、父さんがいないことだけだった。


 それだけのはずなのに、森は少し広くなった気がした。

足音が一つ減っただけなのに、静けさが増えたように思える。


 以前なら、何か見つければ父さんに話していた。面白い薬草を見つけた時も、罠にかかった獣を見つけた時も。けれども今は、それを話す相手がいない。




 焚き火の前に座りながら、僕は父さんの言葉を思い出していた。――隠れてもいい。逃げてもいい。それでも生きろ。父さんはそう言った。


 僕は魔導王国に狙われている。世界樹の民だからだ。長く生きる祝福を持つその血を、あの国は利用しようとしている。


 この森に隠れていれば、しばらくは大丈夫だろう。けれど、それだけでいいのだろうか。魔導王国は強い。魔法――呪いも扱う。父さんにかけられた呪いも、その一つだった。


 知らなければ、対抗することはできない。僕は火の中で赤く光る炭を見つめながら、ゆっくり考えていた。生き延びるためには、力がいる。けれど、力を見せれば狙われる。ならば、隠したまま力を持つしかない。


 知識が必要だった。知識とは力だ。薬草の知識。怪我や病気を治すための知識。森でも、人の中でも役に立つもの。そして、魔法。


 魔導王国が使う魔法を知らなければ、いつか父さんや母さん、他の世界樹の民の二の舞いになるかもしれない。それだけは許せなかった。


 父さんは剣と魔法を教えてくれた。森で生きる術も教えてくれた。けれど、呪いだけはどうにもならなかった。あの時、もし僕にもっと知識があったなら。呪いを解く方法を知っていたなら。父さんは、まだ生きていたのだろうか。

 

 僕は枝を一本拾い、火にくべた。炎が小さく揺れ、夜の森を照らす。――生きる。父さんが言ったその言葉は、思っていたよりずっと重く、長い意味を持っている気がした。




 それから、僕は少しずつ生き方を変えていった。


 森で薬草を集める。乾かし、試し、効果を確かめる。時々森を離れて村へ行き、薬草を売ることもあった。紙や本を手に入れるためだ。


 本は高い。けれど、僕が知ることのできる魔法の知識は、そこにしかなかった。魔法陣の構造。魔力の流れ。古い術式の断片。


 すぐに理解できるものばかりではなかったが、それでも少しずつ理解できるようになっていった。季節は何度も巡る。雪が降り、春が来て、また葉が落ちる。


 父さんの墓の石は、いつの間にか苔に覆われていた。周囲の木々も少しずつ姿を変えていく。小さかった苗木が、気づけば背の高い木になっていた。


 最初に置いた石は風雨で角が削れ、周囲の草も季節ごとに姿を変える。墓の前に立つたび、時間が流れていることだけが分かった。


 それでも、僕はあまり変わらなかった。鏡を見る機会は少ないが、たまに水面に映る自分の顔を見ると、昔とほとんど同じままだと分かる。


 時間は流れているのに、僕だけがその外側にいるようだった。




 やがて、僕は森を離れることにした。理由は単純だった。森だけでは、知識が足りない。薬も、本も、人のいる場所にしかない。隠れて生きるとしても、人の世界を知らなければ意味がない。


 父さんは言っていた。――世界は広い。その言葉を思い出しながら、僕は荷物をまとめた。必要な道具と、薬草と、今まで集めたたくさんの本。


 父さんの墓の前で、祈りを捧げる。それから、森を出た。




 それから、さらに長い時間が過ぎた。


 僕は小さな町に住むようになっていた。街道から少し外れた、静かな町だ。人の出入りは多くないが、その分落ち着いている。そこで僕は、小さな薬草店を開いた。


 店と言っても大したものではない。木の棚に乾燥した薬草を並べ、簡単な薬を作るだけの店だ。それでも風邪薬や傷薬はよく売れた。


 町の人たちは僕を、少し変わった薬師だと思っているらしい。それで構わなかった。余計なことを詮索されない方が、生きやすい。


 父さんが死んでから、およそ百年が過ぎていた。



 

 その夜、締めの作業を終えて、夕食の準備に取り掛かろうとしたとき、足元が鈍く光った。最初は窓から月明かりが差し込んだのかと思ったが、何かが違う。そう、その光は僕に着いてきたのだ。


 僕は思わず動きを止める。木の床の上に、光が線を描いていた。円があり、複雑な文様が重なり、その中に見慣れない文字が並んでいる。魔法陣だった。しかも、かなり高度なものだ。


 文字は知らない。けれど、術式の構造は読める。魔力の流れと陣の配置から、何をする魔法なのかはすぐに分かった。転移魔法。しかも、かなり強引な形式のものだった。


 急いで家にあるものを魔法空間にしまい込む。それをあらかた終えた頃には、魔法陣も痺れを切らしたのか、僕の意識を飲み込んだ。意識を失う瞬間、転移特有の浮遊感と視界が歪む感覚が襲ってきた。




 馬車の中に、しばらく沈黙が落ちていた。僕が話し終えてから、誰もすぐには口を開かなかった。車輪が石を踏む音だけが、静かなリズムで続いている。窓の外では、冬の森がゆっくりと流れていく。


 百年という時間は長い。けれど、こうして語ってしまうと、不思議と短く感じられた。


「……そうですの」


 最初に声を出したのはフローレンスだった。驚きというより、どこか納得したような声だった。


「だからあなたは、あんなに古い魔法体系を知っていたのかしら」


 リューヌが腕を組んだまま、小さく息を吐く。


「百年生きて研究してれば、そりゃあ詳しくもなるよね」


 軽い口調だが、茶化しているわけではない。セシルも黙ったまま、わずかに頷いた。僕は少しだけ視線を落とす。


「……もう一つだけ」


 三人の視線がこちらに集まる。


「ラフェルって名前」


 一度、言葉を切った。


「これは偽名なんだ」


 フローレンスのまつ毛が、わずかに揺れる。


「本当の名前は、別にある」


 馬車のランプが揺れ、柔らかな光が天井を照らす。リューヌが静かに言った。


「真名か」


 僕は頷く。真名は、簡単に人に明かすものじゃない。少なくとも、僕の世界ではそうだ。真名を知られるということは、自分の存在そのものを相手に預けることに近い。だから――ずっと隠してきた。でも。


 僕は三人を見た。


「君たちには、隠す必要はないと思った」


 静かに息を吸う。そして言う。


「僕の真名(まな)は――」


 一瞬だけ、言葉を止める。父の声が、遠くで響いた気がした。――名前は大事なものだ。


「フィエル・ハイペリオン」


 馬車の中に、その名前が落ちる。


「それが、僕の本当の名前だ」


 冬の光が窓から差し込み、静かに揺れていた。

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