第五話 火の傍で
十三歳になった。森の朝は、いつも静かだった。夜露を含んだ空気が冷たく、吐く息はまだ白い。鳥の声が遠くでいくつか聞こえ、葉の擦れる音がかすかに続いている。
僕は小さな鍋に水を入れ、火にかけた。火打石を打つと、乾いた火口がすぐに燃え上がる。火はもう慣れたものだった。五歳の頃は何度も失敗したが、今ではほとんど迷うことはない。
背後で咳が聞こえた。振り返ると、父が木に背を預けて座っていた。
「父さん?」
声をかけると、父さんは軽く手を振った。
「大丈夫だ。少し喉がな」
そう言って笑う。いつもの穏やかな笑みだった。けれど、その呼吸が少し荒いことに、僕は気づいていた。
ここ数日、父さんはあまり森へ入らなくなっていた。狩りもほとんど僕が行っている。父さんは道具の手入れをしたり、火のそばに座っていることが多かった。
「今日も僕が行くよ」
そう言うと、父さんはゆっくり首を振った。
「無理をするな。罠を見てくるだけでいい」
「分かってる」
父さんはそれ以上何も言わなかった。ただ、少し遠くを見るような目をしていた。火の上で、鍋の中の水が小さく泡立ち始める。父さんはその音を聞きながら、ぽつりと口を開いた。
「ラフェル」
「うん」
「お前は、よく覚えた」
僕は顔を上げる。
「火も起こせる。罠も作れる。剣も振れる。魔法も扱える」
父さんはゆっくりと言葉を選ぶ。
「……もう、一人でも生きていける」
その言葉に、少しだけ眉をひそめた。
「どうしてそんなこと言うの」
父さんはすぐには答えなかった。パチパチと、火の爆ぜる音が小さく続く。しばらくしてから、父さんは静かに言った。
「逃げた時の話をしたな」
僕は頷く。母が死んだ夜。雪の中を逃げたこと。黒い影が追ってきたこと。
「その時だ」
父さんは自分の胸元を軽く叩く。
「呪いを受けた」
僕は何も言わなかった。父さんは淡々と続ける。
「すぐに死ぬものじゃない。時間をかけて、少しずつ命を削る」
「……治せないの?」
「無理だ」
あまりにもあっさりと言うから、僕は言葉を失った。父さんは肩を竦める。
「魔導王国の呪いはそういうものだ。逃げた者への置き土産みたいなものだな」
声に恨みはなかった。ただ事実を語るだけの響きだった。僕は火を見つめる。ぱち、と枝が弾けた。
「いつから?」
「ずっとだ」
父さんは苦笑する。
「最近、少し早くなってきただけで」
森を風が抜けていく。葉が揺れ、光が揺れる。
「……そっか」
それだけ言った。それだけしか、言えなかった。父さんは僕を見て、少しだけ安心したような顔をした。
「お前は強いな」
「別に」
「いや、強い」
父さんは小さく笑った。
「泣きわめくと思っていた」
「泣いても治らないし」
僕がそう言うと、父さんはしばらく笑っていた。
「その通りだ」
しばらく僕も父さんも、何も言わなかった。火が静かに燃え続ける。父さんはゆっくりと空を見上げた。木々の間から、朝の光が差し込んでいる。
「ラフェル」
「うん」
「人をよく見ろ」
突然の言葉に、僕は首をかしげた。
「世界にはいろんな国がある。いろんな民がいる」
父さんの声は、旅の話をする時の声に少し似ていた。
「優しい奴もいれば、愚かな奴もいる」
「……魔導王国みたいに?」
父さんは少し笑う。
「そうだな。あれほど極端なのは珍しいが」
そして、静かに続けた。
「だが、全部が敵じゃない。……人は恐れる。知らないものを」
森の奥で鳥が鳴いた。父さんは僕を見る。
「だから、お前の力は見せるな」
「……うん」
「だが、絶対に捨てるな。隠して持っているんだ。いざという時のためにな」
父さんはそう言って、小さく息を吐いた。その呼吸は、さっきより少し重くなっていた。
その日の午後、森は音がしなかった。ただ、いつも以上に静かだった。
朝の霧はすでに消え、木々の間から柔らかな光が落ちている。僕は罠を見て回り、小さな兎を一匹だけ持ち帰った。多くはなかったけれど、父さんと二人で食べるには十分だった。
焚き火のそばに戻ると、父さんは朝と同じ場所に座っていた。ただ、姿勢が少し崩れている。背を預けていた木から、体がわずかに滑り落ちていた。
「父さん?」
声をかけると、父さんはゆっくり目を開いた。
「……戻ったか」
声はかすれていたけれど、意識ははっきりしているようだった。
僕は火を起こし直し、鍋をかける。兎の皮を剥ぎ、肉を小さく切り分ける。刃を入れる位置も、骨の外し方も、もう迷うことはない。父さんに何度も教わった通りに、血の匂いが広がらないよう土で押さえながら処理していく。
作業を終えて顔を上げると、父さんが僕を見ていた。
「……手際がいいな」
小さく笑う。
「昔は指を切りそうで見ていられなかった」
「もう切らないよ」
「そうだな」
父さんは頷いたけれど、その呼吸は浅かった。長く続くものではないことは、もう分かっていた。肉を煮る香りがゆっくり広がる。森の匂いと混ざり、夕方の空気の中へ溶けていく。
父さんはその匂いを吸い込み、目を細めた。
「……久しぶりだな」
「何が?」
「こうして、ただ飯を待つのは」
僕は何も返さず、鍋をかき混ぜた。しばらくして肉が柔らかくなり、湯気が静かに立ちのぼる。木の器に盛って、父さんの前に置く。父さんはそれを見て、少し困ったように笑った。
「……すまん。今日はあまり食えそうにない」
「少しでいいよ」
僕が言うと、父さんは器を手に取った。ほんの少しだけ口に運び、ゆっくり飲み込む。それだけで息が乱れる。やがて父さんは器を膝の上に置いた。沈黙が、焚き火の周りに落ちる。
夕方の光が森の奥へ沈み、影が少しずつ長くなっていく。
「ラフェル」
父さんが呼ぶ。
「なに?」
「近くに来い」
僕は火の向こう側から父さんのそばへ移動した。父さんはゆっくり手を伸ばし、僕の頭に触れる。昔と同じように、髪を軽く撫でた。
「……大きくなったな」
その手は思っていたより軽かった。長い旅をしてきた手。剣を握り、地図を描き、火を起こしてきた手。その温かさが、少しずつ弱くなっている。
「ラフェル」
父さんはもう一度呼んだ。
「お前は、よく生きろ」
命令ではなく、願いのような声だった。
「隠れてもいい。逃げてもいい。だが、生きろ」
僕は黙って聞いていた。
「お前の人生は、お前のものだ」
父さんの視線は森の奥へ向いている。遠い道を思い出しているようだった。
「俺はいろんな国を見てきた」
ゆっくりと、続ける。
「砂しかない国もあった。雪しか降らない山もあった。人が人を助ける場所も、平気で裏切る場所もあった」
息を整えるために、言葉が少し途切れる。
「……世界は広い」
僕はその言葉を聞きながら、火を見ていた。
「だから、どこかで生きろ」
父さんは小さく笑う。
「この森に縛られる必要はない。……お前なら大丈夫だ」
そのあと、父さんは何も言わなかった。僕の頭の上に置かれていた手は、まだ温かかった。でも、その手はもう動かなかった。
僕はすぐには動かなかった。呼吸を確かめることもしなかった。ただ、森の音がゆっくり戻ってくるのを聞いていた。
やがて夜が来るだろう。
僕は父さんの体を焚き火のそばに横たえ、森の奥から枝や倒木を運んできた。父さんに教わった通り、魔法を使わず、少し離れた場所に穴を掘る。根が絡んだ土は固く、掘るのに時間がかかった。
それでも、急ぐ必要はなかった。森は静かで、風は穏やかだった。
穴が十分な深さになったところで、僕は父さんの体を運ぶ。思っていたより軽かった。昔は肩に乗せられて歩いたのに、今は僕の方がしっかり支えている。
父さんの身体を穴の中に横たえた。少しだけ考えて、父さんの剣を隣に置いた。もう錆び始めている、古い剣だった。けれど、父さんがずっと持っていたものだった。
僕はしばらくそこに立っていた。祈りの言葉なんて知らない。墓標の作り方も知らない。だから、ただ静かに言った。
「……ありがとう、父さん」
それから土を戻した。夜が深くなる頃には、土はすっかり元に戻っていた。目印に小さな石を積む。イファ、と小さく名前を刻んだ。誰に見せるわけでもない墓だった。
焚き火の場所へ戻る。そこにはもう、父さんはいない。火だけが静かに燃えていた。僕はその火を見ながら、父さんの言葉を思い出していた。
――隠れてもいい。逃げてもいい。だが、生きろ。
森は変わらず静かだった。けれど、もう父さんと生きる森ではない。今日から、僕一人だ。




