第四話 遠い世界の話
森の風が、ゆっくりと梢を揺らす。赤く染まりかけた空が、木々のすき間から覗いていた。父さんは少し息を整えてから、静かに続ける。
「俺たちは、“世界樹の民”と呼ばれている」
その名は、思っていたほど重々しい響きではなかった。雷が落ちるわけでも、森がざわめくわけでもない。ただ、昔話の続きを語るような声だった。
「世界樹って、あの森の奥の大きいやつ?」
僕がそう尋ねると、父さんはゆっくりとうなずいた。
「ああ。だが、あれは神でも奇跡でもない。ただ長く生きている木だ。何百年、何千年と、この森に根を張っているだけの、な。……少なくとも、今はそうだ」
その声音には、過剰な神秘を否定するような静かな強さがあった。
「俺たちも同じだ。魔法の扱いが少しばかり上手く、世界樹の祝福で寿命が人より長い。それだけの、ただの人間だ」
ただの人間。その言葉は、胸の奥にゆっくりと落ちていった。
「血に特別な力が宿っているわけでもない。不老不死でもない。世界を支配できる力など、どこにもない」
父さんは、そこで小さく息を吐く。
「だが――そう思い込んだ者たちがいた」
空気が、わずかに冷える。
「魔導王国だ」
その名を口にした瞬間、森の奥で風が鳴った気がした。
「奴らは、世界樹の民の血を研究すれば、永遠の命も、無限の魔力も手に入ると信じた。力は奪えるものだと、本気で考えた」
僕は、雪の夜に見た黒い影を思い出す。
「あれは、その残り滓だ。空の王国は滅びたが、地上に思想は残った。研究も、執念も、消えなかった」
父さんの声は始終穏やかだったが、その奥に深い疲労が滲んでいた。
「世界樹の民は狩られた。森を焼かれ、村を壊され、逃げる者も、隠れる者も、容赦なく」
淡々と語られる言葉のが、かえって重い。
「子どもも、大人も、関係なかった。力を持つ可能性がある、という理由だけで」
僕は息を呑んだ。
「……僕たち以外は?」
父さんは目を閉じた。長い沈黙のあと、かすかに首を振る。
「いない。お前が生まれる前に、村は滅びた。俺はお前を抱いて逃げた。それだけだ」
「母さんは?」
「……魔導王国から逃げる時に死んだ」
その一言は、森の音をすべて奪った。だから隠れていた。だから火を大きくしなかった。だから、森の奥へ行かせなかった。すべてが、一本の線で繋がる。
「俺たちは、選ばれた民でも、神の末裔でもない。ただ、少し長く生き、少し魔法が得意なだけの、人間だ」
父さんは、僕をまっすぐ見つめる。
「だが誤解は、時に真実より強い。恐れは、人を狂わせる」
森の奥の黒が、脳裏をかすめる。
「お前の力が強いのは、血のせいじゃない。お前自身が積み重ねたものだ」
その言葉は、胸の奥に静かに落ちた。生まれのせいじゃない。呪われた血でもない。僕の力は、僕のもの。
「だからこそ、狙われる」
父さんは苦く笑う。
「皮肉だな。普通であろうとしただけなのに」
夕暮れの光が、父さんの横顔を赤く染めていた。世界は広い。海の向こうにも、山の向こうにも、名も知らない民がいる。
父さんはその広さを、実際に見てきた人だった。
僕が物心つくより前、父さんは長い旅をしていたらしい。森の外の街を渡り歩き、王国を越え、時には海も渡った。だから父さんは、本で読んだわけでも、人から聞いたわけでもない話をたくさん知っている。
焚き火の前で語られるその話は、いつもどこか遠い風の匂いがした。
「世界には、本当にいろいろな民がいる」
父さんはゆっくりと言った。その声は落ち着いていたけれど、少しだけ息が浅い。僕はそれに気づきながらも、何も言わなかった。言えば、父さんはきっと「大丈夫だ」と言って、笑うからだ。
「西の山脈には、石の国がある。人より背の低い民でな、岩の中に都市を作る。頑固で、酒が好きで、鍛冶の腕は世界一だ」
父さんは焚き火の揺れる炎を見つめながら、懐かしそうに続ける。
「南の海には、水の民がいる。船で生き、魚を取り、歌を忘れない。嵐の夜でも、あいつらは笑って酒を飲む」
その光景を想像すると、森とはまったく違う世界が浮かんだ。波の音。潮の匂い。見たこともない広い空。
「北の国には、魔族や獣人も普通に暮らしている。角が生えている者、尻尾のある者、肌の色が違う者。だが、あそこでは誰もそれを珍しがらない」
父さんはそこで少し咳き込んだ。
「……父さん?」
「大丈夫だ」
案の定、父さんはすぐにそう言った。でも、焚き火の明かりの中で見る父さんの顔は、前よりも少し痩せて見えた。それでも父さんは話をやめない。
「旅をしていると分かる。人は違う。姿も言葉も考え方も、何もかもだ」
父さんは小さく笑う。
「だが、不思議なものだ。どこへ行っても、火を囲めば飯を食い、子どもが笑い、大人がくだらないことで言い争う」
その言葉には、どこか温かい響きがあった。
「人は結局、似たようなものなんだよ」
森の風が、ゆっくりと葉を揺らした。父さんは少し肩を落とすようにして座り直す。ほんのわずかな動きだったけれど、それが妙に重く見えた。
「だが、その中には――お前を見つければ、迷わず捕まえようとする連中もいる」
父さんは焚き火に小枝を一本くべた。ぱちり、と火がはぜる。
「世界樹の民だから、という理由でな」
その言葉は、もうさっき聞いた話の続きだった。魔導王国の研究。血を求める者たち。空の王国は滅びた。それでも、思想は残った。
「魔導王国そのものは、もうない」
父さんは静かに言う。
「だが、知識は散った。本も、研究者も、道具もな。それを拾い集める者は、どこにでもいる」
焚き火の光が、父さんの目に小さく映る。森の奥から、夜鳥の声が聞こえた。
「世界は広い。善い者も多い。だが、欲に取り憑かれた者もまた、どこにでもいる」
父さんは少しだけ息を整える。その間、僕は何も言わずに待った。最近、父さんはこうして息を整えることが増えた。ほんの数年前までは、森の中を一日中歩いても平気だったのに。
「お前が外へ出れば、優しい人にも会うだろう」
父さんは続けた。
「助けてくれる人、笑い合える人、守りたいと思える人」
炎が揺れ、父さんの影が大きく伸びる。
「だが同時に、お前を利用しようとする者にも出会う」
父さんは僕をまっすぐ見た。
「だから覚えておけ」
その目は、いつもの穏やかな色だった。
「人を疑え、という意味じゃない」
父さんは首を振る。
「だが、人が何を望んでいるのかは、よく見ろ」
その言葉は、旅人の言葉だった。本で読んだ教えではない。長い道を歩き、いろいろな人に出会った人の言葉。
「世界は広い」
父さんはもう一度言う。
「お前がまだ見たことのない場所が、山ほどある」
父さんは空を見上げた。赤い夕焼けは、もうほとんど紫に変わっていた。
「森の外には、大きな街もある。人が何万も集まる場所だ。石の城もあるし、海のように広い湖もある」
父さんは小さく笑った。
「最初に見たとき、俺も驚いた」
その笑顔は、どこか懐かしそうだった。
「……父さんは、また行きたい?」
僕が聞くと、父さんは少しだけ考えた。それから静かに首を振る。
「いや」
短い言葉だった。
「俺はもう、十分見た」
父さんは森を見渡す。
「ここでいい」
その声は、とても穏やかだった。
「お前がいるからな」
焚き火が、ぱちりと音を立てた。父さんはしばらく炎を見つめていたが、やがて小さく息を吐く。少しだけ、疲れたように。
「ラフェル」
「うん」
「もし、いつかここを出ることがあったら――」
父さんはそこで言葉を切った。風が森を渡る。
「世界を、ちゃんと見てこい」
その声は、どこか遠くを見るようだった。
「本で読むんじゃない。人から聞くだけでもない。自分の目で見て、自分の足で歩いて、自分の頭で考えろ」
父さんは僕を見る。
「それが、世界を知るってことだ」
焚き火の炎が、静かに揺れていた。




