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第三話 この森だけが、世界じゃない


 森はまだ暗い。朝の光は葉っぱのすき間から少しだけ落ちていた。父さんの手は昨日よりも少しだけ冷たくて、でも強くて、ぼくは離れられなかった。


「今日は、ちょっと遊ぼうか」


 父さんの声は小さくて、少しだけかすれていた。咳も混じってる。ぼくはちょっとだけびっくりしたけど、すぐに手を握り返した。


 父さんは、地面に小さな石を置いた。丸くて、ざらざらしてる。ぼくの手のひらよりも、少しだけ大きい。


「ほら、見てごらん。こうやって手を置くんだ」


 父さんはぼくの手を取り、動かした。


「魔力は、こう動かすんだよ。命令するんだ。浮遊しろってね」


 ぼくは真似して手を動かす。でも、手が震えてうまく力が伝わらない。石も、びくともしない。父さんは笑った。小さく咳をして、肩を揺らした。ぼくは心配になったけど、何も言わなかった。父さんはきっと、「平気だよ」って言うから。


 ぼくは息を止めて、もう一度、ぐっと手を握る。石がふわりと浮いた。ほんの少しだけ。ぼくはびっくりして手を離すと、石はぽとんと落ちた。父さんは手を伸ばして、また握らせてくれる。


「もう一度、ゆっくりでいいんだ」


 ぼくはまた、手に魔力を込める。今度は少し長く、石が浮いた。ふわっと、軽くなった。父さんはうなずいた。うなずいて、咳が少し長く出て、肩が小さく揺れる。ぼくは手を握り直した。父さんの手はあたたかいけど、前より少し軽くなったみたいだ。


 父さんは次に、水をくるくる回す魔法を教えてくれた。川の水を、小さな渦にするだけの魔法。ぼくは手をかざす。水は、少しだけ動いた。父さんはうなずいて、また咳をする。ぼくは背中をさすったけど、父さんは笑って言った。


「平気だよ」

 

 父さんはぼくの手を見た。少しだけ、目を細める。


「……覚えるのが早いな」


 ぼくにはよくわからなかった。ただ、もう一度やりたいと思った。石を浮かせる。水を回す。火を揺らす。何度もやった。何度も。最初は父さんの手が一緒にあった。でも、だんだんと添えなくなった。


「自分でやってみなさい」


 そう言われて、できた。できないと思ったのに、できた。父さんは笑った。でも、そのあと少しだけ黙った。



 

 森は色を変えていった。濃い緑になって、黄色くなって、落ちて、また緑になる。雨の日もあった。風の日もあった。雪が、静かに積もる日もあった。そのたびに、ぼくは魔法を使った。石はもう落ちないし、水も思った通りに形を変える。火だって、指の上で小さく踊る。


 父さんは、長く立っていられなくなった。魔法を教えるときも、決まって石に腰を下ろす。咳も増えた。でも、言葉は変わらない。


「平気だよ」


 ぼくは、平気という言葉が嫌いになった。



 

 ある日、父さんが何も言わなかった。ぼくが川の水を、渦ではなく細い柱みたいに持ち上げたとき。教わっていない形だった。父さんはしばらく黙って、それから小さく息を吐いた。


「どうしたの?」

「なんでもない」


 聞くと、父さんは首を振った。でも、その目は森ではなく、遠くを見ていた。


 その日から、父さんはときどき同じ目をするようになった。


 川の水は渦だけじゃなくて、細い柱にも、丸い玉にも、蝶の形にだってできる。火は指先で揺れ、消したいときにすぐ消える。煙も、ほとんど出ない。


 父さんは教えるより、見ている時間の方が長くなった。咳も長くなった。それでも言う。平気だよ、と。その言葉を聞くたびに胸の奥が少しだけ重くなる。




 いつの間にか、父さんに手を引かれなくても川まで歩けるようになった。森の匂いの違いも、少し分かる。湿った匂い、獣の匂い、知らない匂い。知らない匂いが混じると立ち止まる。父さんみたいに。


「どうして隠れなきゃいけないの?」


 父さんは少しだけ困った顔をした。


「まだ、早い」

「何が早いの?」


 風が鳴る。父さんは、ぼくの頭を撫でた。


「ラフェルが全部を知るには、まだ早い」


 全部、と言う言葉が胸に残った。森の外には何があるのだろうか。どうして森の奥に行ってはいけないのか。どうして父さんは、火を大きくしないのか。疑問は増えるだけだった。




 八つになったころ、ぼくは一人で森を歩けるようになっていた。父さんは家の前の切り株に座って、ぼくを見る。


「遠くへ行きすぎるな」


 そう言うけれど、声は強くない。森は広い。でも、怖くなかった。木の根の位置も、水の流れも、魔力の通り道も、なんとなく分かる。


 ある日、森の奥で立ち止まった。空気が、少しだけ違った。ぴん、と張ったみたいに。ぼくは手を伸ばす。魔力をそっと広げる。見えない糸みたいなものが、森の奥からこちらへ伸びている気がした。それは冷たくて、でも、ぼくに触れようとしているみたいだった。


「……だめだよ」

 

 小さくつぶやくと、糸はすっと消えた。家に戻ると、父さんが立っていた。立って、いた。いつもは座っているのに。


「どこへ行っていた」


 声が、少しだけ鋭い。ぼくは初めて、父さんが怒るかもしれないと思った。でも次の瞬間、父さんは強く咳き込んだ。体を折るようにして、長く、苦しそうに。ぼくは駆け寄る。


「平気だよ」


 言いながら、父さんの手は震えていた。ぼくは、その手を握り返す。前より、ずっと軽かった。


 


 九つの冬、雪が深く積もった。父さんはほとんど外に出なくなった。代わりに、ぼくが薪を割り、水を運び、火を起こす。火はもう簡単だった。指先で種火をつくり、薪に移す。風の流れも操れる。


「もう、教えることがないな」


 父さんが言った。ぼくは首を振る。


「まだあるよ」

「たとえば?」

「父さんが知ってること」


 父さんは、少しだけ笑った。その笑い方は、昔よりも静かだった。夜、目が覚めた。家の外で、低い音がした。うなるような、風のような音。


 ぼくはドアを開ける。森の奥が、黒く見えた。闇が濃い、というより、そこだけ色が抜けているみたいだった。ぞわりと、背中が冷える。ぼくは魔力を広げる。防ぐように、包むように。


 そのとき。後ろから、強い力で抱きしめられた。父さんだった。


「見るな」


 初めて聞く、強い声。


「あれは呪いだ」


 ぼくは振り返る。父さんの顔は青く、額に汗が浮いている。森の奥の黒は、ゆっくりと薄れていった。父さんは、その場に膝をつく。雪に、赤いしみが落ちた。ぼくは、それが何か分からなかった。分からなかったけど、胸が痛かった。



 

 十になった春、僕の魔法は、父さんを越えていた。それは分かっていた。言葉にしなくても。森の流れが読める。魔力の脈が見える。遠くの気配も、感じられる。


 でも。父さんの体は、森の流れから少しずれていた。まるで、違う場所にいるみたいに。ある日、父さんは僕を呼んだ。


「お前は強い」


 静かな声。


「強すぎる」


 僕は何も言わない。


「だから、狙われる」


 その言葉の意味を、僕はまだ知らない。でも、森の奥の黒いものを思い出す。森は赤く染まり、影が長く伸びている。僕はそのそばに座っていた。父さんは続ける。ゆっくりと息を吐き、僕を見る。


「……聞いておけ」


 声は弱い。でも、いつもよりまっすぐだった。僕はうなずく。


「この森だけが、世界じゃない」


 知っている。けれど、知らない。

 

「海の向こうにも、山の向こうにも、たくさんの国がある。人がいて、獣人がいて、魔族がいて、精霊と生きる民もいる」


 僕は黙って聞く。


「みんな、生きている。ただ、生きたいと願っているだけだ」


 父さんは咳き込む。赤いのは出なかった。でも、苦しそうだった。


「だが、世界は均衡で保たれている。強すぎる力は、その均衡を崩す」


 その言葉は、冷たかった。


「お前の力は、本来この森に収まるものじゃない」


 ぼくは初めて、自分の手を見る。指先に、ほんの少しだけ光が宿る。


「昔、魔導王国という国があった」


 父さんの声が、低くなる。


「魔法だけを信じ、魔法で世界を支配しようとした国だ。力ある者を集め、研究し、縛り、武器にした」


 ぼくは、森の奥の黒い影を思い出す。


「空の国は滅びた。だが、地上の国は残った。思想も、血も、執念もだ」


 父さんの視線が、僕に落ちる。


「お前のような存在は、彼らにとって宝だ。いや――鍵だ」

「鍵?」

「世界を塗り替えるための、な」


 風が止まる。森が、静まり返る。


「だから狙われる」


 その言葉は、静かだった。怖い、とは思わなかった。ただ、理解した。あの黒い影は、森のものではなかったのだと。


「父さんは?」


 思わず聞く。


「父さんも……その国と無関係ではない」


 初めての告白だった。


「若いころ、関わった。止められると思った。だが、止められなかった」


 声に、悔いが滲む。


「そのときの“残り滓”が、今も俺を追っている」


 僕は、ゆっくりと息を吸う。父さんの病は、ただの病ではない。呪いなんだ。


「お前は、生まれながらにして標だ」


 父さんの手が、僕の頭に触れる。その手は、少し冷たかった。


「だが同時に、守る側にもなれる。話しておこう。俺たちが何なのかを」

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