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第二話 半分このパン


 森は、朝が早い。光は白くて、冷たい。息を吐くと、白くなった。父さんの手はあたたかかった。でも、少しだけ強くて、痛かった。


「走るよ」


 そう言われた気がする。怒ってはいなかった。ただ、急いでいた。後ろは見なかった。見てはいけない気がした。


 母さんは、いなかった。どうしていないのかは、分からない。でも、もう一緒に走らないことだけは、分かっていた。


 森の地面はやわらかい。靴が沈む。転びそうになる。父さんに手を引かれる。父さんは、一度も振り返らなかった。


 


 川のそばで、やっと止まった。水はつめたくて、手が痛い。父さんはぼくの顔を洗った。


「大丈夫だよ」


 何が、とは言わなかった。ぼくはうなずいた。本当は、何も分かっていなかった。


 空は明るいのに、音が少なかった。鳥も鳴かなかった。父さんは少しだけ息をついて、それからぼくの頭を撫でた。その手は、いつもより冷たかった。


 父さんは、川のそばに小さな小屋を作った。小屋というより、木と枝を組んだだけの、雨をよける場所だった。屋根のすき間から光が落ちる。夜になると、そこから星が見えた。


 父さんは、地面を確かめるみたいに何度も踏んだ。足跡が残らない場所を探しているようだった。枝を拾う。石を動かす。川の流れをじっと見る。ぼくはその後ろをついて歩く。


 父さんの背中は大きかった。でも、ときどき、止まる。風の音が変わると、止まる。遠くで枝が折れると、止まる。そのたびに、ぼくも息を止めた。


 止まるとき、父さんの手は少しだけ強くなる。痛いけれど、離れないようにしているのだと分かった。ぼくも、握り返した。


 森の匂いは湿っている。土と葉っぱと、水の匂い。その中に、ときどき、知らない匂いが混ざる気がした。ぼくには分からない。でも、父さんは分かるみたいだった。


 だから、ぼくは父さんを見る。父さんが動けば、動く。止まれば、止まる。それだけでいいと思った。

 

「ここなら大丈夫だ」


 父さんがそう言う。何が大丈夫なのかは分からない。でも、父さんが言うなら、本当に大丈夫な気がした。

 

 パンは硬かった。石みたいで、かじると歯が痛い。父さんは川の水に浸してくれた。


「ゆっくり食べなさい」


 父さんはあまり食べなかった。


「父さんは?」

「父さんは平気だよ」


 いつもそう言う。平気、という言葉は便利だ。お腹が鳴っても、寒くても、少し咳をしても、全部“平気”になる。



 

 ある日、ぼくはパンを半分に割って差し出した。


「半分こ」


 父さんは少しだけ驚いた顔をして、それから笑った。


「優しいな」


 そう言って、ほんの少しかじった。本当は、全部食べてほしかった。


 


 夜、火を小さくした。


「大きいと見つかる」


 誰に、とは聞かなかった。火はあたたかいけど、暗いほうが父さんは安心するみたいだった。

 

 夜は、森が鳴く。風が木を揺らす音。遠くで何かが走る音。ぼくは父さんの外套を握って眠った。父さんの匂いがした。木の匂いと、少しだけ、鉄みたいな匂い。

 


 

 朝になると、父さんは川へ行く。ぼくもついていく。


「一人で動いてはいけないよ」


 それだけは、何度も言われた。どうして? と聞いたことがある。父さんは少しだけ困った顔をして、それから笑った。


「父さんが心配だからだよ」


 それで、納得した。父さんが心配なら、仕方ない。


 


 ある日、父さんが長く咳をした。体を折るみたいにして。ぼくは背中をさすった。


「大丈夫?」

「平気だよ」


 少しだけ、声がかすれていた。川の水で手を洗うと、指先が赤くなった。寒さのせいだと思った。


 夜中に目が覚めたことがある。父さんの背中が、小さく揺れていた。音を出さないように、咳をしていた。ぼくは寝たふりをした。起きていると分かったら、父さんは笑うから。“平気”って、言うから。




 森の奥には行ってはいけない。それも何度も言われた。


「どうして?」

「まだ、早い」


 何が早いのかは分からない。でも、父さんは森の奥を見るとき、少しだけ静かになる。だからぼくも見ないことにした。


 森の奥は、少し暗い。昼でも、光が届かない。風の音も違う。ぼくは一度だけ、こっそり足を踏み入れたことがある。すぐに父さんに見つかった。


「だめだ」


 強い声だった。怒っているのではなく、怖がっている声だった。それを聞いて、ぼくも怖くなった。

 


 

 その夜、父さんはよく話をしてくれた。世界のはじまりの話。星が落ちた夜の話。強い人は、必ずしも前に立つわけではない、という話。


「隠れるのも、強さだ」


 ぼくはよく分からなかった。強いなら、前に出ればいいのに。でも、父さんは前に出なかった。


「それ、本で読んだの?」


 ぼくが聞くと、父さんは少し笑った。


「そうだよ。本は便利だ」

「森にもある?」

「森にはないな」


 少しだけ寂しそうだった。前に住んでいた場所には、本があった。たくさんあった。高い棚。紙の匂い。少し埃っぽい空気。母さんと、一緒に行ったことがある。


 手を引かれて入った店は、静かだった。人がいるのに、音が小さい。ページをめくる音だけがする。


「好きなものを選ぶといいわ」


 そう言われた。ぼくは難しい文字ばかりの本を選んだ。読めないのに。母さんは笑わなかった。


「いい本ね」


 本当に、そう言った。


 夜、父さんがそれを読んでくれた。分からない言葉は、ゆっくり説明してくれた。


「これはね、世界のはじまりの話だ」

「これは、遠い国の話」

「これは、星の話」


 本の中には、森より広い世界があった。川より長い道があった。知らない人がいて、知らない空があった。本を閉じると、部屋はいつもの大きさに戻る。でも、胸の中だけが広いままだった。知らない場所へ行かなくても、知らないことは知れるのだと、そのとき初めて思った。


「どうして、こんなこと知ってるの?」

「知ろうとしたからだよ」


 知る、という言葉が好きになった。知らないことが、少し減る。分からないものが、名前を持つ。森には本がない。だから父さんは、覚えている話をしてくれた。ときどき、途中で咳をした。


「忘れちゃった?」


 聞くと、父さんは首を振った。


「忘れてない。ただ、少し休むだけだ」


 ぼくは、また本を読みたいと思った。母さんと並んで。静かな店で。紙の匂いのする場所で。そして父さんに読んでもらうんだ。


 だから、森の奥には行かなかった。外の世界には、本がある。父さんは、そういう場所を知っている。いつか、また連れていってくれると思っていた。

 

「世界は広い」


 父さんはそう言った。


「森の外も、川の向こうも、そのずっと先も」

「行ったことあるの?」

「あるよ」


 父さんは少し遠くを見る。そのときの目は、森を見ていなかった。


「また行きたい?」


 聞くと、少しだけ間があった。


「……どうだろうな」


 それから、ぼくの頭を撫でた。


「お前が行くなら、行きたいな」

 


 

 ある朝、目を覚ますと、父さんが座ったまま眠っていた。顔色が、少し白い。


「父さん」

「ああ、起きたか」


 肩に触れると、すぐに目を開けた。いつもの声だった。だから安心した。森は、何も変わらない。鳥は鳴くし、川は流れる。でも、父さんの咳は少しずつ長くなった。“平気”の回数も増えた。


 ぼくは、父さんの手を握ることが増えた。父さんの手は、あたたかい。でも、前より少しだけ、軽かった。


 


 ある日、父さんはぼくの頭を撫でながら言った。


「ラフェル」


 名前を呼ばれるのが、好きだった。


「お前は、生きるんだよ」


 意味は分からなかった。でも、その声は、いつもよりゆっくりだった。


 森は朝が早い。光は白くて、冷たい。その朝も、いつもと同じ匂いがした。――ただ、父さんの手は、少しだけ、冷たかった。

 

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