第一話 風の当たる場所へ
リューヌの屋敷の朝は、どこか音が少ない。その空気は、まだ夜の延長線のようだった。首都の高台に建つその屋敷は、冬になるといっそう静まり返る。
冬の朝はとりわけ静かで、高い窓から差し込む光は淡く、冷たい。庭の噴水は止められ、霜をまとった薔薇の生垣が、じっと耐えるように立っている。
学園は、予定より早く冬季休暇に入った。侵入者騒動の影響で、警備体制の見直しと内部調査が必要になったためだという。表向きは整った理由。だが、生徒たちの間にはざわめきが残ったままだった。
聖王国の手の者、唆された教師、捕らえられた侵入者。すべては表面上、解決したことになっている。けれど、終わったという実感は薄い。
僕は自室の出窓に座り、庭を見下ろしていた。冷えたガラスに指先を触れると、じんわりと冷たさが伝わる。守れたのか。それとも、偶然うまくいっただけなのか。
「難しい顔をしているね」
背後から声が落ちた。振り返ると、リューヌが扉にもたれていた。黒髪が流れ、薄く微笑んでいる。吸血鬼の貴族らしい整った佇まいは変わらないが、その瞳にはわずかな気遣いがあった。
「そんな顔してた?」
「いや? 顔には出ていない。ただ、空気が重いから」
彼はゆっくりと室内へ入り、向かいの椅子に腰を下ろす。
「学園の件は片付いた。少なくとも、いまは」
「うん」
「だけど、君は納得していない」
言い当てられて、苦笑する。
「納得、というより……」
言葉が続かない。自分でも、何に引っかかっているのか、はっきりしないのだ。聖王国が動いたという事実か。内部に協力者がいたことか。それとも、自分が守る側に立てなかったという焦燥か。リューヌは少しだけ肩をすくめた。
「せっかくの休暇だし、魔族の国へ行くのはどう?」
「辺境伯領へ?」
不意の提案に、目を瞬く。
「首都から離れてみるのもいいと思って」
リューヌは淡く笑った。
「守られている場所にいると、どうしても視界が狭くなる。君は今、それが嫌なんだろう?」
図星だった。否定はできない。あの夜、侵入者が現れたとき、自分は受け身だった。結果として被害は抑えられた。だが、それは準備が整っていたからだ。自分が先回りしていたわけではない。――守られる。それが、胸の奥に引っかかっている。
「辺境伯領は最前線だ。聖王国の動きがあるなら、いちばん早く伝わる場所でもある」
静かな説明だったが、その言葉ははっきりと重みを持って落ちた。最前線。守る側が立つ場所。暖かな屋敷の中とは違う、風の当たる場所だ。
「……行くよ」
小さく答えると、リューヌは満足げに頷いた。
「決まりだね。通行証はこちらで手配するから。準備には半日もあれば足りるだろう」
そう言って立ち上がった、その時だった。
「フローレンス嬢がお越しです」
セシルの声だ。この屋敷では珍しくない報告。いつもと変わらぬ落ち着いた声音。だが、わずかに視線がこちらへ流れた気がした。旅の準備が進んでいることは、彼も察しているのだろう。
「どうぞ」
リューヌが応じる。扉がゆっくりと開いた。フローレンスが現れる。淡い冬色のドレスに身を包み、いつもと変わらぬ整った佇まい。けれど、その指先はわずかに強く組まれている。
「ご相談中だったかしら」
「いや、ちょうど決まったところだよ」
リューヌが軽く笑う。
「辺境伯領へ行くことにした」
一瞬だけ、彼女のまつ毛が震えた。驚きというより、確認のような間。廊下は静かだが、屋敷の中の情報は意外と早く巡る。使用人たちが準備を始めれば、察しはつく。
「そう……ですの」
小さく頷き、それからまっすぐにこちらを見る。
「私もついて行ってよろしいかしら」
思わず、目を瞬いた。
「もちろん。でもどうして? フローレンスは積極的に外出するタイプじゃないよね」
彼女は社交には積極的だが、自ら遠出を望むようには見えなかったリューヌが横から軽く口を挟む。
「傷心旅行ってやつかい?」
声音は軽い。だが、茶化しているわけではない。フローレンスはほんの少しだけ目を細め、それから柔らかく微笑んだ。
「あら、否定はしないのだわ」
その声は穏やかだった。
「……人間って鈍感ですの。私にとっては運命の人だったけど、彼女にとってはそうではなかった。ただそれだけの話なのだわ」
静かな言葉。そこに恨みはない。嘆きもない。ただ、受け止めた事実だけがある。僕は初めて、彼女の恋が終わっていたのだと理解した。学園ではいつも通りだった。笑って、話して、整然としていた。だから気づかなかった。いや、気づこうとしなかったのかもしれない。
「少し、空気を変えたくなっただけですの。辺境伯領には行ったことがありませんし」
「歓迎するよ。退屈はさせない」
リューヌが即答する。フローレンスは軽く頭を下げた。
「ありがとうございます」
それで決まった。四人での旅だ。それが決まると、屋敷の空気は目に見えて変わった。使用人たちが慌ただしく行き交い、厚手の外套や防寒具が運ばれてくる。その中心で、淡々と指示を出しているのはセシルだった。
「国境を越えます。防寒具はもう一段厚いものを」
「通行証の原本はこちらへ」
彼は感情を表に出さない。だが、動きに迷いはない。魔族の国へ入るには、帝国との同盟証明と通行証が必要だ。形式を整えなければ、国境で足止めを食う。
冬の旅支度は、思ったよりも重い。毛皮の外套、厚底の靴、携行用の保存食。荷をまとめる手を止めたとき、ふと窓の外を見る。白く凍った庭。安全な場所。ここにいれば、守られる。けれど、それでは足りない。
正午前、馬車が門前に用意された。黒塗りの車体に控えめな紋章。華美ではないが、長距離移動に適した造りだ。馬の吐く白い息が、冬の空気に溶けていく。
門が開かれる。冷たい風が頬を撫でた。屋敷を振り返る。静かな白壁。高い窓。ここ数日を過ごした場所。戻る場所はある。それでも、いまは離れる。
馬車に乗り込むと、内部は外よりも暖かかった。向かい合う座席、足元には厚手の毛布。小さなランプが吊られ、淡い光が揺れている。
扉が閉まり、鈍い音が響いた。車輪が動き出す。屋敷がゆっくりと遠ざかる。首都の石畳を進み、やがて城門を抜ける。検問で通行証が確認され、短いやり取りの後、道は北西へと伸びていく。
街並みが途切れ、冬枯れの野原が広がる。遠くに森の影。空は高く、澄んでいる。馬車の揺れは一定で、静かなリズムを刻んでいた。しばらく、誰も口を開かない。
フローレンスは窓の外を眺め、リューヌは腕を組んで目を閉じている。セシルは入口側に座り、外套をきちんと畳んで膝に置いていた。揺れに合わせて、わずかに体勢を調整する。常に、何かあればすぐ動ける位置だ。
僕は手袋越しに自分の指を見つめた。首都が視界から消えた頃、不思議と胸の奥が軽くなる。逃げているわけではない。ただ、立ち位置を変えるだけだ。守られる側から、風の当たる側へ。そのとき、静かな声が揺れの合間に落ちた。
「その話、私が聞いても良いのかしら」
顔を上げると、フローレンスがこちらを見ている。
「どの話?」
「あなたのことですわ。今しがた、考え込んでいた理由」
リューヌは目を閉じたままだが、聞いているのが分かる。馬車は進み続ける。冬の光が、窓辺に流れる。少しだけ、息を吸う。
「良いよ」
声は思いのほか静かだった。
「君たちにならいい。……これは、話そうとして話せなかったことだから」
胸の奥に、ひとつの名前が浮かぶ。本当なら、もっと早く話すべきだった。もっと違う形で。違う人に。 ――本当なら、ウタシロに話すべきだった話だ。
馬車は止まらない。魔族の国へ向かって、冬の道を進み続ける。




