第二十一話 帰れぬ者の歌
夜は、静かに降りてくる。
昼の喧騒が嘘のように、家の中は落ち着いていた。小さな窓の外には、群青に沈みきらない空が広がっている。炉の火は赤く、ゆっくりと息をするように揺れ、鍋の底でとろりと煮込まれたスープが、ときおり小さく泡を立てた。
僕は椅子に腰掛け、手の中のリュートの弦を一本ずつ確かめていた。指先で弾くと、澄んだ音が短く震える。音程を確かめ、少しだけ調整する。その繰り返し。
向かいで、ウタシロが火の番をしている。背中は丸めず、ただ静かに座っているだけなのに、そこにいるだけで部屋の温度が定まるような人だ。
「今日は冷えるな」
独り言のように言う。
「もう冬だからね」
僕は弦を弾いたまま答える。
「そうだった」
くすり、と小さな笑い。会話はそれだけで終わる。けれど、気まずさはない。言葉がなくても、同じ空間を共有できる関係。僕はそのことに、まだ少しだけ慣れていなかった。
ウタシロがふと立ち上がり、棚から古びた木箱を取り出す。蓋を開けると、中には薄く擦り切れた楽譜が一枚。羊皮紙は端が丸まり、何度も開かれた跡がある。
「久しぶりに歌うかな」
「……何の歌?」
「俺の父に教わった歌だよ」
手が止まる。ウタシロの父。そういえば、詳しく聞いたことはなかった。彼がどんな人で、どんな歌を歌っていたのか。
ウタシロは紙を見ずに、そっと息を吸った。低く、柔らかい声。決して張り上げない。それでも、部屋の隅々まで染み渡るような音だった。
旋律は素朴で、飾り気がない。けれど、どこか懐かしい。帰る場所を持つ者にも、持たない者にも届くような、不思議な広がりを持っていた。
歌詞は、遠い土地を想う内容だった。帰れぬ者のための歌。前に聞いたものとはまた別のもの。風に名を呼ばれながら、応えることのできない人の歌。僕は弦に触れたまま、音を出すことも忘れて聞いていた。
帰れない。その言葉が胸の奥で静かに揺れる。異世界に召喚され、帰ることを選ばなかった。いや、選ばなかったというより——選ぶ理由がなかった。あちらにも、こちらにも、強い執着はなかった。
けれど、帰れない、という事実が消えるわけではない。ウタシロの声が、最後の音をやわらかく落とす。パチパチと、火の弾ける音だけが残った。
「……いい歌だね」
「そう?俺もこの歌が好き」
それだけ。自分の歌を誇るでもなく、解説するでもない。ただ受け取る。僕は少しだけ視線を落とした。
「長く生きてるんだったね」
不意に、ウタシロが言う。火を見たまま、何気ない声色で。
「……うん」
「どのくらい?」
問いは穏やかだった。試す響きも、疑う気配もない。指先を弦から離す。
「百年ちょっと」
言葉にしてみると、あまりにも軽い。百年。重いはずの年月が、音にすると薄くなる。
「そうか」
ウタシロは頷いた。ただ、それだけだった。百年という言葉は、もっと重く受け止められるものだと思っていた。驚かれるか、遠ざけられるか、あるいは気味悪がられるか。
けれど、ウタシロは火を見つめたまま、何も変えない。炉の薪が、ぱちりと弾けた。
「驚かないの?」
「驚く必要があるか?」
気づけば、そんな言葉が口をついていた。ウタシロは首をかしげる。問い返されて、言葉が止まる。
「百年生きていようが、十年だろうが、今ここにいるのはラフェル、君だ」
さらりと言う。重みも、含みもない。ただ事実を述べる声。
「今ここにいる。それだけで十分だ」
それで話は終わった、というように、ウタシロは鍋をかき混ぜる。湯気が立ちのぼる。白い煙が、ふたりの間をゆらゆらと漂う。胸の奥で、何かが静かにほどけた。
百年という時間は、誰かに量られるたびに、形を変えてきた。長すぎると責められ、羨まれ、あるいは疑われた。けれど、ここでは違う。
ここでは、それはただの数字だった。ウタシロは、何も掘り下げない。どうやって生きたのかも、何を失ったのかも、聞かない。
「ウタシロは?」
今度は僕が問う番だった。
「ん?」
「どのくらい、生きてるの」
視線は火に向けたまま。何気ないふうを装う。ウタシロは少しだけ考える素振りをしてから、肩をすくめた。
「さあね」
「さあね?」
「めんどくさくて、数えなくなった。エルフの血を引く者に年齢なんて意味がないからね」
くすり、と笑う。
「十代の頃は、歳を数えるのが好きだったよ。早く大人になりたかったから」
その横顔は穏やかで、冗談のようにも聞こえる。けれど、ふとした拍子に見せる表情が、二十代には見えないことを僕は知っている。視線の置き方や、言葉の選び方。沈黙の扱い方。
長く生きている。それは確かだ。けれど、どれほどかまでは知らない。案外、僕よりも年下かもしれない。知らなくても、困らない。不思議なことに、それでよかった。
ウタシロは鍋を火から下ろし、椀にスープをよそう。湯気の向こうで、睫毛がやわらかく影を落とす。
「冷めないうちに食べな」
「うん」
スプーンを口に運ぶ。温かい。塩気は控えめで、野菜の甘みがじんわりと広がる。
「……さっきの歌」
自然と、言葉が続いた。
「ん?」
「帰れない人の歌、だったね」
「そうだね」
ウタシロは椀を持ったまま、少しだけ目を細める。
「俺の父親はね、旅人だった」
初めて聞く話だった。
「定住するのが苦手で、あちこち歩き回ってた。俺は半分引きずられるみたいについて回ってたよ」
半分。そう言った。ウタシロがハーフエルフであることを、僕は知っている。人とエルフのあいだに生まれた存在。
「歌は、そのとき覚えた」
「寂しくなかったの?」
問いは、思ったより素直に出た。ウタシロは少し考えてから答える。
「どうだろうな。寂しいって思う暇がなかった」
それから、ゆっくりと続ける。
「けど、焚き火の前であの歌を聞くと、不思議と落ち着いた。帰る場所がなくても、歌があれば大丈夫な気がした」
炉の火が揺れる。さっきまで聞いていた旋律が、まだ耳の奥に残っている。帰る場所がなくても。その言葉が、胸のどこかに沈む。
「ラフェル」
名を呼ばれて顔を上げる。
「帰れなくても、いいんじゃない?」
問いではなかった。許しのような声音だった。
「……うん」
短く返す。本当は、帰りたいのかどうかも分からない。ただ、ここにいることは嫌ではなかった。嫌ではない、という感覚が、少しだけ恐ろしい。失うことを考えてしまうからだ。
ウタシロは何も言わない。ただ椀を傾け、最後の一口を飲み干す。
「もう一曲、歌おうか」
「……さっきの、好き」
「そうか」
嬉しそうでも、誇らしげでもない。ただ静かに頷く。再び息を吸い、歌い出す。今度は、僕も弦に触れた。音は控えめに。旋律を邪魔しないよう、寄り添うように。
声と弦が重なる。火が揺れる。外では風が鳴っている。小さな家の中で、音だけが確かに存在していた。歌が終わる頃には、群青はすっかり夜に沈んでいた。
「寒いな」
「冬だからね」
さっきと同じ会話を、また繰り返す。それでも、少しだけ違う。百年という時間を告げても、何も変わらなかった夜。ウタシロは立ち上がり、窓の戸を閉める。
「寝るか」
「うん」
灯りを落とす。火だけが、赤く残る。寝台に横になりながら、さっきの歌を思い出す。帰れない人の歌。けれど今は、帰れないことが、孤独と同義ではなかった。隣の部屋から、ウタシロの小さな咳払いが聞こえる。それだけで、ここにいることが現実になる。
今ここにいる。それだけで十分だ。その言葉が、静かに胸の中で温度を持つ。百年生きても、初めて知る感覚はある。例えば、誰かに歳を量られない夜のこと。例えば、歌を共有するだけで満ちる空間のこと。
目を閉じる。父に教わったという歌が、遠くで揺れる。ウタシロは、踏み込まない。深く問わない。けれど、確かにそこにいる。それが、僕には十分だった。夜は、静かに更けていく。
ストックが無くなってきたので更新頻度を落とします。
だいたい週3更新になると思います




