第十五話 強襲フラグ:戦闘準備
喧騒から半歩離れた石柱の影。灯りは届くが、人の視線は届きにくい。フローレンスは扇子を軽く閉じ、僕を見る。
「今夜は、思った以上に動きがありそうですの」
「うん。だからこそ確認したい」
彼女の若葉色の裾が、夜風に揺れた。
「フローレンスはどうして学園の調査依頼を受けたの? 」
ほんの一瞬、金糸が揺れる。
「そういうあなたはどうしてですの? 」
問い返しは柔らかいが、逃げ場はない。僕は視線を会場へと戻す。
「僕は……少しでも聖王国の影からこの場所を守りたいと思ったから」
言葉にして初めて、自分の本心がはっきりする。彼女はしばらく何も言わなかった。そして静かに、微笑んだ。
「私も同じなのだわ」
その声は、先ほどまでの社交の響きとは違う。
「私、好きな人がいますの」
驚くほど平坦な告白だった。
「その人には、お互いを愛し合う婚約者がいますの。私には入り込む隙なんてないのだわ」
夜風が吹き、彼女の髪が揺れる。
「でも彼女に、少しでも平穏に毎日を送ってほしいと思っているのだわ」
“彼女”という言葉が、静かに落ちる。僕は何も言わない。言うべき言葉は、きっとない。ただ――
「……優しいんだね」
それだけが、精一杯だった。フローレンスは扇子を開き、いつもの微笑みを浮かべる。
「誤解しないでほしいのだわ。これは、自己満足ですの」
その声音は軽い。けれど、握られた扇子の骨がわずかに軋んでいるのを、僕は見逃さなかった。
「さあ、戻りましょう。舞台はまだ終わっていませんの」
彼女はもう、いつも通りの顔に戻っている。僕たちは並んで歩き出す。緋色のカーペットへと。
会場へ戻った僕たちは静かに距離を戻す。フローレンスの視線が一瞬だけ僕を捉え、微笑む。その笑みの中に、何も語らずとも通じる信頼を感じる。
青葉たちの方へ戻ると、既に卓上には細いグラスがいくつか並べられていた。淡い琥珀色と、赤い液体が光を受けて揺れている。
「ラフェル! 見ろよ、すげぇの出てきたぞ」
青葉が声を弾ませる。紫水が小さくため息をついた。
「騒ぎすぎ。形式上は宴だよ。当然、酒も出るだろう」
菜乃花がグラスを覗き込み、目を丸くする。
「きれい……宝石みたい」
「ここって十五歳から酒飲めるんだよなー」
青葉がにやりと笑った。その言葉に、茉莉が少しだけ眉を上げる。
「帝国法ではそうね。成人扱いだもの」
菜乃花がくるりとこちらを振り返る。
「ラフェルくんはジュースみたいだけどお酒は飲めないの? 」
差し出された透明なグラスの向こうで、灯りが揺れる。僕は一瞬だけ視線を落とした。
「いや、そういう訳じゃないけど……」
指先がグラスの縁に触れる。飲める。問題はない。だけど、今夜は――
「今日はやめておくよ」
青葉が「ラフェルらしいな」と肩をすくめ、菜乃花が小さく笑う。紫水は何も言わないが、その視線はわずかに柔らいだ。僕は周囲を見渡す。酒の匂いが、ほんの少しだけ空気を緩めていた。
周囲の歓声は続くが、僕の意識は会場全体を巡る。貴賓席、青葉たちの位置、そしてリューヌとセシルの影。何かが起こる。すぐにではない。だが、この華やかな舞台の裏に潜む不穏は、確かに存在している。
無意識に耳元に手を添える。深紅が光を受けて、かすかに揺れる。フローレンスの若葉色と、僕のライトグレー。その組み合わせは完全に調和しているように見える。しかし、目に見えぬ波は、すでに動き出していた。
夜はまだ始まったばかりだ。歓談も踊りも、すべてはこれから――だが、僕の胸は静かに、けれど確実にざわついている。
楽団の調べが、ひときわ澄んだ音を描いた。それまで緩やかに散っていた人々の視線が、ゆっくりと中央へ寄せられていく。命じられたわけではない。ただ、自然にそうなるのが当然だとでもいうように、空気が滑らかに流れていた。
中央に立ったのはステラだった。桃色の淡い色合いのドレスは光を受けるたびに柔らかく揺れ、胸元のブローチが静かに煌めく。宝石とも魔石ともつかない透明な石は、光を反射するというより、吸い込んで均しているように見えた。
あれは確か、今夜のための贈り物だったか。善意という名目の。
彼女の前に進み出たのはアルベルン。整った所作で一礼し、手を差し出す。その動きは自然で、迷いがない。ステラは微笑み、指先を重ねる。同時に、もう一つの輪ができる。
ローゼルディアとアレクシス。こちらもまた、申し分のない組み合わせだった。周囲の期待を裏切らない、完成された構図。まるで舞台の上に二つの主役が並び立つような光景だ。
三拍子が流れ始める。二組が同時に歩み出す。広場の中央に、二つの円が描かれた。完璧な配置だと、誰もが思っただろう。完璧すぎる、と僕は思った。耳元のピアスが、かすかに熱を帯びる。干渉はまだ微弱だ。だが、確実に広がっている。
ステラのターンは滑らかだった。アルベルンの視線が、彼女から離れない。情熱というより、引力に近い集中。彼は元より誠実な男だが、今夜の視線はやや強すぎる。周囲の視線もまた、同じ方向へ揃う。称賛、羨望、当然という納得。
一方で、ローゼルディアとアレクシスの円は、少しだけ空気が薄い。踊りに乱れはない。アレクシスの足取りも正確だ。だが、彼の意識がほんのわずかに散っている。視線が一瞬、中央へ流れかけ、すぐ戻る。その微細な遅れ。
ローゼルディアは気づいているのだろうか。彼女は微笑み、優雅にステップを踏む。だが周囲の視線が、ほんのわずかに温度を失っている。誰も何も言わない。否定も賞賛も。ただ、重みが変わる。均されているのに、選別が起きている。
それがひどく不気味だった。フローレンスが、僕の隣で小さく息を吐く。
「広がっている」
「ええ」
ブローチの石が、ターンのたびに淡く光を帯びる。音楽に同調しているように見えるが、違う。視線に、同調している。
楽団の調べが空間に柔らかく漂う。中央のステラの周りだけ、世界がわずかに揺れているようだった。僕の目には、普段なら何気ない光景がどこか歪んで見える。笑い声の輪郭がぼやけ、足音が遅れて届く。空気の層が微かに歪み、誰もが自然にステラを中心に視線を寄せるその光景すら、どこか現実感が薄かった。
「……ん? 」
小さく口をつく。青葉の声も、紫水の立ち位置も、少し前の自分の視界と微妙に食い違う。フローレンスが隣で静かに息を吐く。
「加護の影響が強くなっているのだわ……」
その声には驚きや恐怖はない。観察者としての静かな確信が混ざっていた。ステラは中心で微笑み、アルベルンの腕の中で旋回する。光を受けたブローチが淡く揺れるたび、空気に見えない波紋が広がるようだ。その加護は、周囲の注意を自然と吸い込み、観客の心を微かに逸らす。誰かが近くにいても、記憶には残らない――そんな不思議な感覚。
僕は息をひそめ、周囲を見渡す。セシルとリューヌの動きを確認するためだ。二人は軍の関係者らしく、警戒態勢を崩さない。重々しい武器を腰に佩く姿は目立つが、今のこの会場の魔力の中ではあまり目立たない。
その時だった。気配は突如、視界の端から滑り込む。刃。小さな光の線のように、音も無く迫った。心臓が跳ねる。直感が告げる。
リューヌが一歩前に出た。彼の長剣が刃先を回し、暗闇から飛び出した攻撃を弾く。金属が擦れる音が一瞬だけ耳に届き、空気が鋭く震えた。
僕は反応が一歩遅れる。攻撃はリューヌにより間一髪で逸れたが、すぐにもその危険性を理解した。フローレンスの手元でも、わずかに光が瞬く。魔術ではなく、彼女の錬金術の反応だ。魔力の痕跡が空間に残り、かすかな波動が揺らめいた。
周囲の人々は何も気づかない。笑い声も、音楽も、ステラの加護の影響で濁っており、誰も正確に事態を把握できない。刃が迫ったのを、目で追えた者は誰もいない。僕は視線をリューヌに戻す。彼の瞳には冷静な炎が宿る。
間に合った。その言葉は胸の内だけに響いた。ステラは旋回を終え、微笑んだまま静かに立つ。その姿はまるで何事もなかったかのようだ。だが、彼女の胸中に、妙な空白が同時にあることを僕は見逃さなかった。
「これは……事故なんかじゃない」
確信が、胸の奥で重く沈む。誰かが仕掛けた意図――それが、間違いなく存在した。影は消え、刃も跡形もなくなる。だが、空間にはわずかな違和感だけが残る。ステラの加護によって、すべてが「正常」に見える。けれど、僕たちには確実に感知できた。フローレンスが肩越しに小さく言う。
「……近くにいたはずなのに、存在が残らない」
セシルとリューヌは再び警戒の姿勢を取り直す。だが、会場の人々は拍手や笑いに戻り、危機の痕跡など知る由もない。僕は深呼吸し、ステラの笑顔を見据えた。
「……油断できない」
思考の端で、わずかにブローチの瞬きを感じる。それは危険を告げる信号なのか、加護の兆しか――判断はつかない。ただ確かなのは、このダンスパーティーは、始まったばかりだということ。




