第二話 バグ利用:死亡回避
勇者は死んだことになっている。そう思い込ませるための術は、確かに成功した。それでも、胸の奥に残る違和感はどうしても消えることはなかった。
外壁には、古い排水路があった。人が通ることを想定していない分、見張りもいない。外縁に沿って流れる用水路は、想像以上に狭く、冷たかった。水は膝下まであり、足を進めるたびに鈍い音が立つ。
息を殺し、壁際をなぞるように進む。光はほとんど届かない。魔法で光源を出したいところだけど、今はできるだけ痕跡を残したくない。鼻につく湿った土と腐葉の匂いが、逆に安心材料だった。
水路の出口が見えたところで、足を止めた。魔力を循環させようとして、違和感の正体がはっきりした。――軽い。いや、軽いのではない。少ないのだ。以前よりも、確実に。髪を代償にした分が、そのまま削り取られている。……これはしばらく回復しなさそうだ。
しかし今となっては好都合かもしれない。追手の知っている魔力とは多少なりとも変わってくるはずだし、少なければより気づきにくい。
用水路を抜けたところで、すぐには動かなかった。水の冷たさが残る足で地面を踏みしめ、呼吸を整える。追跡があるなら、ここだ。魔力を極限まで抑え、周囲の流れを読む。――反応は、ない。
正規の門を使う選択肢は、最初からなかった。通行には金と身分証が要る。そして何より、門番は“顔を見る”。今の僕は、どちらも持っていないし、何より痕跡を残したくない。
街の外に抜けることができても油断はできない。 街道は人の流れがある分、安全だ。だが同時に、情報も流れる。“ローブを被った不審者”の噂は、思った以上に早く広がるだろう。
だからその折衷案を取ることにする。街から十分に距離を取ったところで、進路を変える。夜だから人目も少ないし焚き火に使う枝を拾いに行くとでも思うだろう。
森はまだ浅い。この辺りは、街の薪や狩りのために人が出入りする。だからこそ、魔物は少ない。落ち葉を踏む音を殺しながら進む。足取りは遅いが、焦りはない。追われている時ほど、痕跡は少なく、確実に進むべきだ。
少し開けた場所を選ぶ。背後に倒木、正面は視界が利く。逃げる方向が二つ以上ある。ここなら、悪くない。魔力も元に戻る気配はしないし、警戒しっぱなしで体力も残り少ない。ここで野営するしかないだろう。
火は使わない。最低限の結界だけを張り、地面に腰を下ろす。――久しぶりに、誰にも見られていない感覚だった。
……静かすぎる。虫の声がない。風に揺れる葉の音も、どこか途切れている。この静けさは、自然のものじゃない。森の奥で、魔力の流れが歪んだ。一瞬だけ、強く。誰かが、力を使った。一度だけじゃない。間を置いて、もう一度。攻撃と、防御。この間隔は――戦闘だ。
関わらなければ、助かるだろう。今の僕は、追われる身だ。見捨てる理由なら、いくらでもある。この場所で戦闘が起きているのは不自然だ。街道に近い。人目につく。魔力の使い方が荒い。――追い詰められている。
嫌な予感がした。この世界で、僕が本来呼ばれるべきではないもの、見捨てられる側だったことを、思い出したからだ。ため息をひとつ吐く。ローブの奥で、短くなった髪が揺れた。……僕だって本調子じゃないんだけどな。
森は静かだった。風の音も、虫の声も、微かに聞こえる水のせせらぎも、僕の住んでいた森よりもずっと遠くに感じる。弓を握り、魔力の感覚を確かめた。髪を切ったことで、以前のような魔力の余裕はない。
枝が、揺れた。風じゃない。葉のざわめきが、微妙に違う。低く、うなり声が混ざっている。――狼か。次の瞬間、旋律が森に響いた。 歌、だ。声に乗る魔力、あれは魔法だ。詠唱じゃない。古い、歌唱魔法。
低く、地面に染み込むような歌声。その声の主――男が幹の陰から姿を現す。薄茶色の髪が肩にかかり、森の緑に溶けるように揺れた。瞳もまた、鮮やかな緑色で、魔力が揺らぐのに合わせて、光が揺れているように見える。
狼の群れが林の陰から飛び出した。 数は十匹近い。牙が光り、嗅ぎつけた獲物を囲むように動く。男の歌が防壁になる。旋律が低く沈み、狼たちの動きが鈍る。
だが、完全ではない。数匹が詠唱圏内に入ろうとしていた。矢をつがえる。最初の一匹――喉を貫いた。うなり声が森に響く。 飛びかかろうとする個体には跳び退きつつ間合いを保つ。
男がリュートを爪弾いた。弦に指を添える手は細く、しかし力強い。歌の魔力が森に広がり、狼たちの動きを鈍らせた。魔力を解き、地面を凍らせ足を止める。派手な術式は使わず、最低限の牽制に留める。これなら剣を抜かなくても大丈夫そうだ。弓を使えなくなるからできるだけ抜きたくはなかった。
旋律が止むと、森が一瞬静寂に包まれた。 狼の群れは後退し、やがて茂みに消える。
「助かったよ」
「……いや、こっちの台詞だ。あのままだったら、囲まれていた」
僕は弓を下ろす。男の声は少し震えていた。リュートを抱えたまま、男は深く息をついた。
「俺はウタシロ・リーベラ。見ての通り、ハーフエルフだよ。普段は吟遊詩人をしている。でも、こういう仕事もするんだ」
「ラフェル・リュノイア。……まあ、よろしく」
月の光が僕たちの影を揺らす。戦闘の余韻と、少し警戒心を解く。狼の群れが茂みに消えたことで、森は再び静寂を取り戻した。僕は弓を下ろし、呼吸を整え、闇の中でウタシロを見た。 瞳の緑が、わずかな月明かりに反射して揺れる。
彼はリュートを抱え、暗がりの中で静かに立っている。目を細め、僕を見つめるその視線は、何かを知っているような、でも深くは踏み込まない、そんな、見透かすような目をしていた。
「こんな時間に独りだなんてどうしたのかい?まあ、俺が言えたことじゃないんだけどね」
「……街から……逃げてきたんだ。事情があって、追われてる」
この人になら何となく話していい気がした。疲れていたのかもしれない。警戒が続かなくなっている。……だけど、本当のことは言えない。召喚なんて、絶対に。
「ふぅん……事情ね。でも、たしかに最近の聖王国は特に物騒だって言うしね。あそこから逃げてくる人を帝国からこっちに来るまで何人も見た。」
「そんな感じ。僕も聖王国にいられない事情ができたんだ。ねぇ、今帝国って言ったけど……」
ウタシロは闇の中、わずかに肩の力を抜いた。
「ああ、君も帝国へ逃げる口?それならちょうどいいや。俺、帝国に帰るところなんだよね。近くに幌馬車があるからさ、それに乗っていかない?歩いていくよりずっと早いよ。お礼、させてくれない?」
僕は少し間を置き、闇の中でウタシロの影を見つめる。
「幌馬車でも……安全とは限らないだろう?」
「ふふ、それはそうだね。今のように襲われるかもしれない。でも、森を抜けるには時間がかかる。このまま歩いて行くよりずっと安全だと思うよ。それに、君が来ればもっと安全になる」
言葉には押しつけがましさはなく、選択肢はちゃんと残されている。考え込む僕の様子を、彼はただ静かに見ていた。その落ち着きに、自然と背中を押されるような気分になる。……彼が追手なら、その時に考えればいいだろう。いつまでも追手のことを考える訳には行かない。
「……わかった。ウタシロ、君と一緒に行くよ」
短く答えた。剣と弓を確認し、準備を整える。ウタシロはにっこりと笑い、リュートを抱えたまま森の闇を抜ける準備を始めた。森の静けさが少しずつ後ろに残る。僕は深呼吸をひとつして、闇に紛れながらウタシロの後ろに続いた。




