第六話 自由探索:オートセーブ
目が覚めたとき、しばらく天井を見つめていた。薄い雲を通した光が、窓からやわらかく差し込んでいる。いつもの時間だ。身体に染みついた習慣は、休日だからといって融通をきかせてはくれないらしい。
今日は登校日ではない。制服は椅子の背もたれに掛けられたまま、整然と形を保っている。袖に触れる必要もない。急いで支度をする理由もない。――静かだ。屋敷で療養していた頃の朝に、少しだけ似ている。あの頃は、時間だけがあった。何も起きないことが当たり前で、窓の外の景色が一日の変化のほとんどだった。
今は違うはずなのに、と僕は思う。学園に通い始めてから、まだ一ヶ月しか経っていない。今日は休日だ。慌ただしい日々だった。調べることも、考えることも多い。気がつけば朝で、気がつけば夜だった。今日は、そのどちらでもない。
「……暇だな」
独り言は、やけに素直に口をついて出た。何をすべきか、ではなく、何をしてもいいという状況は久しぶりで、少し落ち着かない。机の上には読みかけの本が積まれている。続きを読んでもいい。だが、急ぐ理由がないと分かると、逆に手が伸びない。そのとき、控えめなノックが響いた。
「お目覚めですか?」
「起きてる」
扉が開き、セシルが一礼する。白髪がさらりと揺れ、その奥の新緑の瞳が静かにこちらを映していた。
「本日は登校日ではありませんが、いつもの時間に目覚めたんですね」
「習慣になってるから、急に変わるものでもない」
「左様でございますか」
わずかに口元が和らいだ気がした。気のせいかもしれない。普段なら、この時間にはすでに支度を整え、彼とともに屋敷を出ている。学園の門までの道のりも、今ではすっかり覚えてしまった。送り迎えがあることに、疑問を持つことすらなくなっている。
「本日は外出の予定はありますか?」
問われて、僕は少し考えた。
「特には。……何も決めていない」
「そうですか、なら……」
わずかな間。
「外出なさいますか?」
「外出?」
「入学されてから、街へは出ていないでしょう?気分転換も必要ですから」
彼の口からそんな提案が出るなんて、意外だった。その時、背後から穏やかな声が落ちる。
「それは良い案だね」
振り向くと、扉の側にリューヌが立っていた。
「聞いていたのですか」
「廊下でね。入学するまでは屋敷で静養していたでしょ?入学してからも慌ただしいかったし、休日くらい、街へ出ればいいと思うよ」
自然な提案だった。
「……護衛の仕事が増える」
「問題ありません」
セシルは即座にそう答えたが、声音に特別な力みはない。ただ事実を述べるだけの調子で、そこに感情の揺れはほとんど見えなかった。
「職務ですから」
付け足された一言に、リューヌが小さく笑う。
「相変わらず真面目だね」
「あなたが軽いのです」
淡々と返されても、空気は険悪にならない。長く続いたやり取りの延長のような、慣れた応酬だった。僕は二人を交互に見てから、視線を窓の外へ向ける。空は高く、薄雲がゆっくりと流れている。こうしていると、本当に何も起こらない一日が始まるような気がしてくる。
「……本屋に行きたい」
考えた末に出てきたのは、いちばん無難で、いちばん自分らしい選択だった。
「やっぱり」
リューヌは予想していたという顔で頷く。
「好きだったよね?」
その言い方に、わずかに引っかかるものを覚えながらも、否定はしなかった。屋敷で療養していた頃、時間を持て余すたびに本を読んでいたことを、彼は知っている。
「準備しましょう」
セシルが一礼して部屋を出ていく。その背中はいつもと同じように整然としているが、歩調がほんのわずかに軽いように見えたのは、気のせいだろうか。
ほどなくして三人で屋敷を出る。門をくぐると、街の空気が肌に触れた。学園へ向かうときとは違う道を選ぶと、景色もまた新鮮に映る。露店の呼び声や子どもたちの笑い声が混ざり合い、穏やかなざわめきを形作っていた。
セシルは半歩後ろに位置を取りながらも、周囲への注意を怠らない。視線の動きは滑らかで、何かを探すというより、常に全体を把握しているようだった。
「久しぶりですね、こうして街を歩くのは。最近は学園と屋敷の往復だけでしたから」
「それで足りていると思ってたから……」
自分でも意外なほど素直に答えていた。必要なことだけをこなせばいいと、どこかで決めつけていたのかもしれない。
「足りているかどうかは、やってみなければ分かりません」
セシルの言葉は穏やかで、押しつけがましさはない。ただ、選択肢を差し出すような響きがあった。
本屋は中央通りの奥にひっそりと建っていた。重い木扉を押し開けると、紙とインクの匂いが満ちる。その瞬間、胸の奥で緊張していた何かが、ゆっくりとほどけていくのを感じた。
棚に並ぶ背表紙を眺めながら歩くと、時間の流れが外とは違う速さになる。手に取った本の紙質や装丁を確かめるたびに、意識が静かに整っていく。
「穏やかな顔をしている」
「していない」
「否定が早いね」
隣でリューヌが言う。わずかに笑いを含んだ声音だった。少し離れた位置で様子を見ていたセシルが、静かに口を挟む。
「本がお好きなのは存じていますが、ここまで分かりやすいとは思いませんでした」
「……そんなに分かりやすかった?」
「ええ」
その言葉に、反論はできなかった。ただ、本に囲まれているときだけは、余計なことを考えなくて済むのも事実だった。
本を読んでいるときだけは、誰かの期待や視線から切り離される。何を考えているのか問われることもなく、答えを求められることもない。紙の上の文字はただそこにあり、こちらが近づけば応えてくれるが、無理に引き寄せようとはしない。その距離感が、僕にはちょうどよかった。
学園では常に周囲の気配を意識している。調査のこともある。油断はできない。屋敷にいても、完全に気を抜いているわけではなかった。それでも今、棚の前に立っているこの瞬間だけは、肩に乗っていた見えない重みがわずかに軽くなっているのが分かる。
そんな自覚を、二人に見抜かれていることが、少しだけくすぐったかった。
数冊を選び終えた頃には、紙袋がひとつ増えていた。自然な動きでセシルが受け取る。
「お持ちします」
「重くない?」
「問題ありません」
店を出ると、陽は少し傾き始めていた。行きとは同じ道を通っているはずなのに、帰り道はどこか違って見える。買った本の重みが、今日という日を形にしているようだった。
「無理はしないことだよ」
不意にリューヌが言う。
「何を」
「慣れない環境にいるのは、思っている以上に消耗する」
軽い調子のままだが、その視線は真剣だった。彼なりの気遣いの言葉に、少しだけ心が温かくなった。
「自覚はある」
「ならいいけど」
それ以上は踏み込まない。彼はいつもそうだ。必要な分だけ言い、あとは委ねる。
屋敷の門が見えてきたとき、僕はふと、今日が特別な日ではなかったことに気づく。何かが解決したわけでも、進展したわけでもない。ただ静かな時間を過ごしただけだ。それでも、その何も起こらなかったという事実が、妙に心に残っていた。
嵐の前の静けさという言葉を、どこかで聞いたことがある。けれど今は、まだ風も吹いていない。ただ穏やかな午後が、ゆっくりと暮れていくだけだった。
けれど、この穏やかさが永遠ではないことも、どこかで理解している。だからこそ、何も起こらなかった一日を、心の奥にそっとしまっておきたかった。忘れないように。次に嵐が来たとき、自分が立っていられるように。
ここにいる間だけは、何者でもなくていい。ただ本を読むのが好きな、一人の人間でいられる。だが、それが許される時間は、長くはないと知っている。だからこそ――今は、この静けさを覚えておきたかった。




