【009/1000】 鏡の前の二人と、映らなかった表情
【投稿記録:No.009】
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Photo Filter: “Morning_Light”
Caption:
朝の支度。
鏡の前で並ぶ二人。
同じ空間を共有する、
何気ない日常の一コマ。
これが、私たちの幸せ。
#朝の風景 #二人の暮らし #日常の幸せ
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洗面所の鏡は、横幅が一メートル二十センチあった。二人が並んでも、余裕がある大きさだった。
灰次が先に立った。歯ブラシを手に取り、歯磨き粉をつけ、口に運ぶ。磨き始める。動作は、極めて機械的だった。上の歯、左奥から右奥へ。前歯、下の歯、右奥から左奥へ。順序は、毎日同じだった。
習慣化されていれば、思考が不要になる。思考が不要であれば、エネルギーが節約できる。節約されたエネルギーは、一〇〇〇枚の達成に使われる。
依織が、洗面所に入ってきた。灰次の隣に立つ。距離は、四十センチ。洗面台の幅が、物理的にその距離を規定していた。規定された距離が、現在の二人の関係性そのものだった。
依織もまた、歯ブラシを手に取った。動作は、灰次と完全に同期していた。上の歯、左奥から右奥へ。前歯、下の歯。
同じ順序で磨くことを、誰も決めていなかった。決めていないのに、同じになっていた。同じになることが、三年間の結果だった。結果として現れた同期が、システムを強化する。強化されたシステムが、一〇〇〇枚への到達を可能にする。
鏡の中に、二人が映っていた。
灰次は、鏡を見ていた。見ているのは、自分の顔だった。動いている口元を、客観的な標本として観測する。観測することで、作業の完了を判断し、次の行動に移る。
依織も、鏡を見ていた。見ているのは、自分の顔だった。自分の口元が動く様子を確認し、完了を判断する。
鏡の中では、二人が並んでいた。同じ動作をする二人は、一つの単位に見えた。一つの単位に見える二人が、画面に映る。映った二人が、投稿される。投稿された二人が、観測され、称賛され、幸福だと判断される。判断された幸福が、虚構の骨組みを補強し、一〇〇〇枚への到達を盤石にする。
灰次が、口をゆすいだ。吐き出された水が排水口に消える。消えた水は、二度と戻らない。
依織も、口をゆすいだ。吐き出された水は排水口に消える。消えた水は、二度と戻らない。
戻らない水で口を清潔にし、清潔になった口が、次の一日を進める。
灰次は、タオルで口を拭いた。拭いたタオルを、元の位置に戻す。
依織も、タオルで口を拭いた。拭いたタオルを、元の位置に戻す。
待つことが、タオルの役割だった。
二人は、洗面所を出た。
先に出た灰次は、廊下に立つ。後に出た依織は、洗面所の電気を消す。消された電気が、洗面所を暗闇に沈める。暗くなった洗面所は、次の使用まで静止し、保持される。
鏡には、もう誰も映っていなかった。暗闇の中にある鏡は、何も反射しない。反射しない鏡は、存在を停止する。停止した存在は、時間を消費しない。
灰次は、自分の部屋に戻った。スーツを着、ネクタイを締める。鏡を見る。姿が整っているかを確認する。
依織は、自分の部屋に戻った。服を着、髪を整える。鏡を見る。姿が整っているかを確認する。
自分を見ることで外見を確定させる。確定された外見が、世界に提示され、適切だと判断される。可能になった接続が、一〇〇〇枚へと一日を進める。
だが、鏡に映らないものがあった。
表情だった。
表情は、確かに顔にあったが、鏡には映らなかった。映らなかった理由は、表情そのものが欠落していたからだった。なかった表情は、観測できない。観測できないものは、鏡に映る余地がない。
その「空白」が、二人の顔を占めていた。提示された顔が、世界からは「穏やか」だと評価される。評価された穏やかさが、幸福の証拠として投稿され、称賛される。
灰次は、部屋を出た。依織も、部屋を出た。
二人は、玄関で会った。会ったが、視線は交わらなかった。交わらない視線が、安全な距離を保つ。
「行く」と依織が言った。
「ああ」と灰次が答えた。
二人は、家を出た。出た後の家は、静止する。二人の帰りを待つことが、家の唯一の役割だった。
外は、曇っていた。雨は止み、湿った地面が光を鈍く反射していた。二人は、駅に向かった。向かう道は同じだった。同じ道を、同じ速度で歩く。
歩きながら、灰次は依織を見なかった。見る理由がなかった。依織はそこにいる。いることを認識していれば、視覚情報を更新する必要はない。見なければ、意識の摩耗を防げる。
依織も、灰次を見なかった。見る理由がなかった。灰次はそこにいる。いることを認識していれば、見る必要はない。
駅に着いた。改札を通る。
男が先に通り、女が後に続く。
ホームに向かい、電車を待つ。待つことで、電車が来る。来た電車に乗ることで、目的地に近づく。
電車が来た。扉が開く。灰次が乗り、依織が乗る。
乗った二人は、車内に立つ。立った位置は、意図的に離れていた。離れた位置が、距離を保ち、システムを安定させる。
動いた電車が、二人を運ぶ。運ばれた二人は、それぞれの目的地で時間を消費する。戻らない時間の中で、一〇〇〇枚に近づく。
あと、九百九十一枚。
車内で、灰次は窓の外を流れる景色を見ていた。流れる景色を観測するだけで、何も思わない。
依織は、床を見ていた。何もない床を観測するだけで、何も思わない。
思う必要がなかった。
電車は、止まらずに進んだ。
駅に着き、人が降り、人が乗る。繰り返される循環が、電車の役割だった。役割を果たすことで、電車は存在し、人を目的地へ、そして一〇〇〇枚という終点へ運んでいく。
近づくことが、唯一の意味だった。
あと、九百九十一枚。




