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【007/1000】 絶縁の雨音


【投稿記録:No.007】

┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓

 Photo Filter: “Vintage_Study”

 Caption:

 書斎の静寂。

 積み重なった知識と、

 並んで読書する時間。

 言葉を交わさなくても、

 ここには確かな繋がりがある。

 #読書の時間 #二人の書斎 #静かな休日

┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛


 辞書が、増えていた。

 書斎の棚には、三十七冊の辞書が並んでいる。国語辞典、英和辞典、医学用語辞典、専門用語辞典。灰次の仕事道具であり、同時に、彼の世界そのものだった。

 灰次は、その中から一冊を取り出した。国語辞典。第七版。ページを開く。「あ」の項から始める。一つ一つの見出しを、目で追う。定義を読む。用例を確認する。それだけの作業だった。

 思考は、介在しない。ただ、文字を追い、意味を確認し、次に進む。機械的な反復。それが、灰次にとっての安息だった。

 扉が開いた。依織が、入ってきた。手には、染色したばかりの布を持っている。藍色に染まった布が、まだ湿っていた。水滴が、床に落ちる。依織は、何も言わずに灰次の向かいの椅子に座った。布を膝の上に広げる。それを、じっと見ている。

 灰次は、辞書から目を上げなかった。上げる理由がなかった。依織が入ってきたことは認識している。認識しているが、反応する必要はない。反応しなければ、システムは維持される。維持されれば、一〇〇〇枚まで到達できる。

 「あ」の項が、終わった。灰次は、次のページをめくる。「い」の項が始まる。最初の見出しは、「愛」だった。定義は、五行で書かれていた。灰次は、それを読んだ。読み終えた。何も思わなかった。ただ、次の見出しに進んだ。

 「遺棄」という言葉があった。定義は、三行で書かれていた。灰次は、それを読んだ。読み終えた。何も思わなかった。ただ、次の見出しに進んだ。

 依織は、布を見ていた。藍色の濃淡が、不規則に広がっている。染色液に浸した時間と、引き上げた速度によって、色の濃さが変わる。同じ布は、二度と作れない。作れないことを、依織は知っていた。知っていたから、見ていた。見ることで、この布の存在を確認する。確認することで、自分がまだ何かを作り出せることを認識する。認識することで、まだ生きていることを感じる。感じることは、禁止されていない。ただ、表出することが禁止されているだけだった。

 依織は、布を畳んだ。畳まれた布は、小さな四角形になった。それを、膝の上に置く。

 灰次は、辞書を読み続けていた。「い」の項が、終わりに近づいていた。「依存」という言葉があった。定義は、四行で書かれていた。灰次は、それを読んだ。読み終えた。何も思わなかった。ただ、次のページをめくった。

 「う」の項が始まる。最初の見出しは、「憂鬱」だった。定義は、三行で書かれていた。灰次は、それを読んだ。読み終えた。何も思わなかった。ただ、次の見出しに進んだ。

 窓の外で、雨が降り始めた。音は、小さかった。窓ガラスに当たる雨粒の音が、規則的に響く。依織は、その音を聞いていた。聞きながら、布を撫でている。指先が、湿った繊維をなぞる。繊維は、柔らかかった。柔らかさが、指先に伝わる。伝わった感触は、すぐに消える。消えた感触を、依織は追いかけない。追いかけても、戻らない。戻らないものを追いかけることは、無駄だった。無駄を排除することが、システムの維持に繋がる。

 灰次は、「う」の項を読み終えた。次のページをめくる。「え」の項が始まる。「永遠」という言葉があった。定義は、二行で書かれていた。灰次は、それを読んだ。読み終えた。何も思わなかった。ただ、次の見出しに進んだ。

 「冤罪」という言葉があった。定義は、三行で書かれていた。灰次は、それを読んだ。読み終えた。何も思わなかった。ただ、次の見出しに進んだ。

 時間が、過ぎていた。どれくらい過ぎたのか、灰次は把握していなかった。把握する必要がなかった。時計を見れば、時刻は分かる。だが、見なかった。見る理由がなかった。時刻を知ることに、意味はない。意味がないことは、しない。しないことで、エネルギーを節約できる。節約されたエネルギーは、一〇〇〇枚の達成に使われる。

 依織が、立ち上がった。布を持ったまま、扉に向かう。灰次は、辞書から目を上げなかった。上げる理由がなかった。依織が出ていくことは認識している。認識しているが、反応する必要はない。反応しなければ、システムは維持される。

 扉が、閉まった。音は、小さかった。灰次は、辞書を読み続けた。「え」の項が、終わった。次のページをめくる。「お」の項が始まる。「恩」という言葉があった。定義は、三行で書かれていた。灰次は、それを読んだ。読み終えた。何も思わなかった。ただ、次の見出しに進んだ。

 雨が、強くなっていた。窓ガラスを叩く音が、大きくなる。灰次は、その音を聞いていた。聞いているが、意識していなかった。意識する必要がなかった。音は、ただ存在するだけだった。存在することと、認識することは、別だった。認識しなければ、影響を受けない。影響を受けなければ、システムは維持される。

 辞書を閉じた。今日は、ここまでだった。どこまで読んだのか、灰次は覚えていなかった。覚える必要がなかった。明日、また最初から読めばいい。読み返すことに、抵抗はない。同じ定義を、何度読んでも構わない。定義は、変わらない。変わらないものを確認することが、安定に繋がる。安定すれば、一〇〇〇枚まで到達できる。

 灰次は、椅子から立ち上がった。書斎を出る。廊下を歩く。依織の部屋の前を通り過ぎる。扉の向こうから、何か音が聞こえた。水が流れる音だった。依織が、染色液を捨てているのだった。灰次は、立ち止まらなかった。立ち止まる理由がなかった。音を聞いたことは認識している。認識しているが、反応する必要はない。反応しなければ、システムは維持される。

 自分の部屋に入った。扉を閉める。照明をつける。部屋の中は、昨日と同じだった。何も変わっていない。変わらないことが、正常だった。変わらなければ、予測できる。予測できれば、管理できる。管理できれば、安全だった。

 灰次は、ベッドに座った。スマートフォンを取り出す。画面を開く。依織が、投稿していた。書斎で撮った写真だった。二人が、それぞれ本を読んでいる写真。実際には、依織は布を見ていただけだった。灰次は、辞書を読んでいただけだった。だが、画面の中では、二人とも本を読んでいる。それが、投稿の目的だった。

 コメントが、すでについていた。「素敵な時間ですね」「知的な夫婦」「憧れます」。言葉は、いつも同じだった。灰次は、それを読んだ。読み終えた。何も感じなかった。感じないことが、正常だった。感じてしまえば、システムが揺らぐ。揺らげば、一〇〇〇枚まで到達できない。到達できなければ、心中は成立しない。成立しなければ、二人は永遠に、この状態のまま生きることになる。それは、耐えられない。

 だから、感じなかった。

 画面を閉じた。照明を消した。暗闇の中で、ベッドに入った。体温が、少しだけ下がった。布団の中は、冷たかった。冷たさが、体を包んだ。包まれている間、灰次は何も考えなかった。考えないことが、唯一の休息だった。

 依織も、同じ時刻に眠りについていた。依織の部屋では、藍色の布が干されていた。まだ湿っている布から、水滴が落ちる。落ちた水滴は、床に染みを作る。染みは、すぐには消えない。消えないまま、そこに残る。残った染みを、誰も拭かない。拭く理由がなかった。拭かなければ、染みはそのまま残る。

 残った染みは、やがて乾く。乾いた染みは、床の一部になる。床の一部になれば、もう染みではない。ただ、床の色が変わっただけだった。変わった色は、元には戻らない。戻らない色で、床は少しずつ変質していく。変質した床は、誰にも気づかれない。気づかれないまま、時間が過ぎる。過ぎた時間の中で、変質は進行する。進行した変質は、いつか限界を迎える。限界を迎えたとき、何が起きるのか。それは、まだ誰も知らない。知らないまま、あと九百九十三枚。

 雨は、夜通し降り続けた。朝になっても、止まなかった。止まらない雨が、窓を叩き続ける。叩かれた窓は、何も応えない。応えないまま、ただ雨を受け続ける。受け続けることが、窓の役割だった。役割を果たすことで、窓は存在する。存在することで、雨を遮る。遮られた雨は、外に留まる。留まった雨は、やがて地面に落ちる。落ちた雨は、土に染み込む。

 染み込んだ雨は、二度と戻らない。戻らない雨で、土は湿る。湿った土は、やがて乾く。乾いた土は、また雨を待つ。待つことが、土の役割だった。役割を果たすことで、土は存在する。存在することで、雨を受け入れる。受け入れられた雨は、土の一部になる。土の一部になれば、もう雨ではない。ただ、土の湿度が変わっただけだった。変わった湿度は、元には戻らない。

 戻らない湿度で、土は少しずつ変質していく。変質した土は、誰にも気づかれない。気づかれないまま、時間が過ぎる。過ぎた時間の中で、変質は進行する。進行した変質は、いつか限界を迎える。限界を迎えたとき、何が起きるのか。それは、まだ誰も知らない。知らないまま、あと九百九十三枚。


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