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【062/1000】 洋館の地下貯蔵庫と、名もなきボトルの沈黙


【投稿記録:No.062】

┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓

 Photo Filter: “Shadow_Play”

 Caption:

 言葉を脱ぎ捨てて、

 ただ、この闇と溶け合う。

 名前というラベルさえ

 今はもう必要ない。

 あなたが私を定義し、

 あなたが私を名付けるなら、

 私は、あなただけの

 完璧な一節になれる。

 静寂の中で、

 本当の私を見つけた気がします。

 #地下貯蔵庫 #沈黙の美 #名前のない私

#愛の定義 #永遠の帰属

┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛


 地下貯蔵庫の冷気は、数時間を経て依織の骨髄にまで浸透し、彼女の脳から「外界と自分を繋ぐ境界線」を剥ぎ取ろうとしていた。暗闇の中で唯一の光源であったランタンの火は、もはや油を吸い尽くして断続的な死の瞬きを繰り返し、そのたびに石壁に映る依織の影を大きく、不自然に揺らした。石壁の隙間から染み出す湿り気が、依織の指先を石のように硬化させ、感覚を麻痺させていく。もはや自分の意思で腕を動かすことさえ、途方もなく重い鉛の塊を持ち上げるような、絶望的な重労働に感じられていた。この空間において、時間は等速で流れることを拒絶し、粘り気のある闇となって彼女の足元に堆積し、彼女を底なしの沼へと引きずり込んでいた。

 灰次は、震える依織の顎を冷たい指先で掬い上げ、彼女の瞳を真正面から覗き込んだ。彼の瞳には、一人の女性に対する情愛などは微塵も宿っていない。そこにあるのは、自らの蒐集品コレクションの品質を検品し、劣化がないか、あるいは望み通りの「変質」を遂げているかを確認する、冷徹な鑑定士の視線だけだった。彼は依織が発しようとした、凍えきった喉からの微かな呻きを遮るように、その唇に、節くれだった人差し指を立てた。

 「……ねえ、灰次。暗闇が、あまりにも深すぎるわ。さっきまで考えていたはずの、自分が誰であったのか、どんな声で笑っていたのか、どんな空を見ていたのか……そのすべてが、砂時計の砂のように指の間から零れ落ちて、思い出せなくなっていくの。お願い、私の名前を呼んで。あの、光が溢れていた場所で、私が私であった頃に呼んでくれた、あなたのあの温かい声を一度だけ聞かせて。このままでは、私はこの地下に並ぶ、埃を被った古いワインボトルのように、ただの日付と記号だけで管理される『何か』になってしまう。私が、依織という一人の人間であったことを、あなたが覚えているうちに……その名を、一度だけでいいから……」

 依織の掠れた声は、湿った石壁に吸い込まれ、反響することなく虚無へと消えていく。彼女は必死に、自分の名前という、人間界と自分を繋ぎ止める最後の手がかりに縋り付こうとした。だが、灰次は彼女の切実な訴えを慈しむどころか、むしろ極上の喜劇を観るかのように口角を歪め、彼女の耳元に、氷の刃のような冷たい吐息を吹きかけた。

 「依織……? ふむ、懐かしい響きだね。だが、そんな安っぽい固有名詞は、地上という不潔な墓場に置いてきたはずだよ。今の君は、そんな脆く、誰にでも使い古されるような記号で縛られるべき存在ではないんだ。君がその名前に固執するのは、まだ君の中に、誰かに呼ばれたい、誰かと繋がっていたいという、未練がましい『個』の執着が残留している証拠だ。この地下貯蔵庫に、個人の名前など必要ない。ワインのラベルが湿気で剥がれ落ち、中身が不明になったとしても、その液体が至高のヴィンテージであることに変わりがないように、君もまた、名前を失うことで初めて、不変の価値を手に入れるんだよ。君はもう『依織』ではない。私の物語を構成する、最も美しい『沈黙』という名の断片だ。自分の名前を忘れるたびに、君の魂は社会的な不純物を取り除かれ、純化され、磨き上げられていく。それを拒むことは、自ら美を放棄し、再びあの醜悪な外界の喧騒へ戻ることを意味する。君は、それを望むのかい?」

 灰次は、依織の首筋に蛇のように指を滑らせた。そこには、彼女がかつて自らのアイデンティティの一部として大切に身に付けていた、華奢なイニシャルネックレスが光っていた。灰次は、その細い鎖に指をかけ、容赦なく引きちぎった。金属が弾ける小さな、しかし決定的な音が、静寂の貯蔵庫に響き渡った。依織にとって、それは自分をこの世界に繋ぎ止めていた最期の糸が断絶した音だった。灰次は、その千切れたネックレスを、見向きもせずに暗闇の隅へ投げ捨てた。

 「……ああ、私の名前が、私の歴史が、この闇に溶けていく。灰次、あなたは私からすべてを剥ぎ取って、空っぽになった私の中に、あなたの色、あなたの意志だけを流し込んでいる。私が自分の名前さえ思い出せなくなったとき、私はあなたの鏡になるのかしら。それとも、あなたの影になるのかしら。名前を失った私は、もう誰に助けを求めることもできない……。助けを呼ぶための『私』という言葉さえ、あなたが奪ってしまったのだから。私は、あなたの指先が奏でるままに形を変える、魂を抜かれた楽器にされていくのね。あなたがシャッターを切るたびに、私は一歩ずつ、人間であることを辞めていく……」

 依織の瞳から、最後の一滴の光が零れ落ちた。それは悲しみという動的な感情ではなく、己という存在を維持することを完全に放棄し、重力に身を任せた、完全な崩壊の雫だった。灰次は、その「虚無」へと回帰していく彼女の表情に、これ以上ないほどのインスピレーションを感じ、狂喜に満ちた手つきでスマートフォンの位置を固定した。彼は、依織の唇をわざと少しだけ、だらしなく開かせ、そこから漏れる虚ろな呼気が、まるで世界への最期の別れの言葉であるかのように見える角度を、偏執的に追求し続けた。

 「その絶望の深さこそが、君という器を満たす、世界で唯一の美酒なんだ。さあ、見ろ。君は今、名もなきボトルのように、誰の手にも触れられぬ静寂の中で完成されようとしている。世界が君を『依織』と呼ぶことは二度とないし、君自身もその響きに反応する必要はない。彼らはただ、私が加工し、美化し、差し出すこの完璧な『聖像』を崇め、そこに映る名もなき美しさに、己の醜い幻想を投影し続けるんだよ。君の名前が消えた瞬間に、君は肉体という檻を抜け出し、永遠という情報の海へと解き放たれたんだ。これは、私からの究極の贈り物だよ」

 灰次は、依織の意識が混濁し、もはや自分の腕が石なのか肉なのかさえ把握できなくなった、その「自我の臨界点」を狙い澄まし、シャッターを切った。密室のような貯蔵庫の中で、一瞬だけ弾けたスマートフォンの無機質なフラッシュ光は、彼女を現実へ引き戻す救いの光などではなく、彼女を死後の世界にも似た「虚構」の中に永遠に封印するための、死神の閃光であった。

 パシャリ。

 フィルター“Shadow_Play”が適用された画面の中では、依織の絶望的な虚脱と自己喪失は、「自分を解き放った者の、崇高なまでの沈黙」へと、鮮やかに、そして無残に偽装された。ちぎり取られたネックレスの代わりに、彼女の首筋に落ちる濃密な影は「気高き孤独と神秘の象徴」へと変換され、彼女が名前を失ったことによる精神の瓦解は、「愛する人に全存在を委ねた、至福の帰依エクリチュール」へと、致命的なまでの欺瞞をもって書き換えられていった。

 「六十二枚目。……無垢なる欠片。名前を捨てた君は、今、この洋館で最も純粋な『物』になった。誰にも汚されない、私だけの芸術作品だ」

 灰次が冷淡な指先で投稿ボタンをタップした瞬間、世界中のフォロワーからは「神秘的すぎる」「言葉を超えた愛の極致」「彼女の瞳に吸い込まれたい」という称賛の嵐が、無邪気に、そして残酷に降り注いだ。彼らの称賛は、依織という人間を殺すための最後の一撃となっていた。依織は、自分が誰であったのか、どこから来たのか、なぜここにいるのかさえも霧の彼方へと消し去ったまま、灰次の足元で、冷たく重い石の床と同化していく感覚を、ただ無抵抗に、静かに受け入れ続けていた。

 あと、九百三十八枚。


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