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【060/1000】 洋館の屋根裏部屋と、忘れ去られた揺り籠


【投稿記録:No.060】

┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓

 Photo Filter: “Dusty_Nostalgia”

 Caption:

 ほこりの舞う屋根裏で見つけた、

 忘れられた時間の欠片たち。

 古い揺りゆりかごに触れると、

 遠い日の子守唄が聞こえるような気がして。

 「ここなら、誰にも邪魔されないよ」

 彼の優しい言葉に包まれながら、

 私はもう一度、

 何も知らない子供に戻っていく。

 あなたの愛という深い眠りの中で、

 私は永遠に、夢を見続けるの。

 #屋根裏部屋 #秘密の場所 #揺り籠

#ノスタルジー #愛の退行

┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛


 洋館の最上部、急勾配の螺旋階段を昇りきった先にある屋根裏部屋は、捨て去られた過去の残骸が堆積する「記憶の墓場」であった。傾斜した天井からは、太い梁が蜘蛛の巣を纏って突き出し、小さな円窓から差し込む冬の光が、空気中に浮遊する膨大な塵の粒子を、無数の微細な宝石のように輝かせている。部屋の隅には、使い古された木馬や、色褪せたビロードのクッション、そしてあるじを失って久しい古びた揺り籠が、静かな沈黙の中に佇んでいた。そこには、以前あの書庫で記憶を剥がされた際に嗅いだ革装本の高潔な香りとは異なる、カビと腐朽、そして「忘れ去られること」そのものが放つ、頽廃的な死の匂いが充満していた。

 灰次は、依織をその埃っぽい揺り籠の傍らに座らせ、胎児のように身を丸めるよう指示した。依織のスマートフォンには、かつて繋がっていた外界の友人たちからの通知が軽やかな音と共に届いている。かつての彼女が、どんな夢を抱き、どんな未来を描いていたかという微かな接続。彼女には、その通知を頼りに現実へ手を伸ばす自由も、この薄暗い部屋を飛び出して、光の当たる場所へ戻る自由も、まだ残されていた。しかし、灰次が彼女の膝を優しく折り曲げ、その背中を「よし、よし」と、壊れ物を扱うような手つきで撫でるたび、彼女の思考は急速に溶解し、輪郭を失っていく。灰次にとってこの屋根裏は、彼女の成人した知性や自我を解体し、彼という保護者なしでは一刻も生存できない「無垢な幼子」へと退行させるための、不可逆的な保育室であった。

 「……ねえ、灰次。この揺り籠の中に、私は何を置いてきたのかしら。あなたの指先が私の髪をなぞるたびに、自分がいつ、どうやってここまで来たのかさえ思い出せなくなるの。あのテラスで風にさらわれた時、私はまだ、外の世界の灯りに焦がれていた。でも、この狭くて暗い屋根裏にいると、あの灯りさえも、誰かが作った安っぽい幻灯機の光だったような気がしてくる。あなたは私を、成長することを許されない標本にしたいのね? 知識を奪い、言葉を奪い、ついには『時間』さえも奪って、私をあなたの腕の中でしか呼吸できない無力な肉塊に変えようとしている。この埃にまみれた空気は、私の肺を満たして、私をゆっくりと窒息させながら、優しい眠りへと誘っていくわ」

 依織が、古い揺り籠の縁を掴みながら、熱に浮かされたような声で囁いた。彼女の声は、積もった塵に吸い込まれ、一瞬の余韻さえ残さず消える。彼女にとって、この場所は「安らぎの隠れ家」などではなく、灰次という唯一の絶対者に依存しなければ、自己の重みに耐えかねて崩壊してしまう、精神的な幼児化を強制される実験場であった。

 「依織、君が『大人』として積み上げてきたものは、すべて偽物で不潔な装飾に過ぎなかったんだ。社会に揉まれ、他人の視線を気にし、自分を摩耗させるあの日々が、いかに君の美しさを損なっていたか、まだ分からないのかい? だが、この屋根裏で私は、君という魂を一度解体し、純粋無垢な『原初の依織』へと再構成しているんだ。君がスマートフォンで過去と繋がろうとするその微かな動きは、まだ君が、腐敗した成長の未練を引きずっている証拠だよ。だが、私の手によって揺らされるこの時間は、君をあらゆる苦悩と責任から解放し、私の愛という名の乳房だけを求める、完璧な生命体へと変えるんだ。君は自由だ、依織。醜く老いていく現実の女として生きる自由もあれば、こうして私の揺り籠の中で、永遠に純潔なまま、私の夢を見続ける自由もある。私が君を丸め込めるのは、君を屈服させるためではない。君を、汚らわしい外界の歴史から、私の絶対的な保護という名の無菌室へと救い出すためなんだ」

 灰次は、依織の頬に触れるその瞬間、慈愛に満ちた聖父せいふのような微笑を浮かべていたが、その瞳の奥底には、完全に自分なしでは思考できなくなった被写体を愛でる、冷酷な支配者の愉悦が爛々と輝いていた。彼は、依織の瞳から最後の知性の光が消え、ただ彼という存在を求める「空虚な潤み」だけが残る瞬間を、偏執的な情熱でカメラに収めていた。

 「退行……。そうね、外の世界の誰かがこのノスタルジックな投稿を見れば、私は愛する人と秘密の場所を見つけ、少女のような無垢さを取り戻した、幸せなひとときを過ごしているように見えるのでしょう。この埃っぽい暗闇が、私の未来を奪い、私を自立した一人の人間から、あなたの玩具へと作り替えている絶望に喘いでいることなんて、画面の向こう側の誰も、想像すらしない。あなたの愛は、私を守るための揺り籠なんかじゃないわ。私を、この狭い屋根裏に閉じ込めて、二度と大人になれないように記憶を削り取る、呪いの箱よ。私は、もう自分の足で歩く方法を忘れかけているのね、灰次」

 「その『無力』こそが、愛の完成なんだよ。さあ、依織。君の喉を震わせる余計な理屈を捨てろ。私の腕の中で、ただの呼吸する現象になれ。世界が君に求めているのは、自分の足で立つ人間ではない。永遠に守られ、永遠に依存し続ける、完成された一つの『美しき嬰児えいじ』なんだ。私だけが、君にふさわしい眠りを与えることができる。私だけが、君のすべてを支配できるんだ」

 灰次が、依織の身体を揺り籠のマットへと押し込み、その視界を自分の影で完全に遮断した。外部との接続を断たれた、密閉された静寂。逃走の意志を溶解させる、狂気じみた「養育」。その狭間で、依織の精神は、彼女自身の歴史とは無関係に、灰次の美学という深い眠りの中へと沈んでいった。

 パシャリ。

 フィルター“Dusty_Nostalgia”が適用されたスマートフォンの画面の中では、屋根裏部屋を支配していた自我の解体と退行の恐怖は、「アンティークの温もりに包まれた、愛する二人の秘密のノスタルジー」へと、鮮やかに偽装された。依織の自己喪失による焦点の定まらない眼差しは「遠い思い出を慈しむ、無垢な少女の表情」へと変換され、彼女を精神的に去勢する灰次の立ち振る舞いは「最愛の女性を優しく包み込む、献身的な慈しみ」へと、致命的なまでの欺瞞をもって書き換えられていった。そこには、依織の脳の深部で鳴り響く、一人の人間としての死を告げる子守唄も、灰次の瞳の奥底に常に宿っている、彼女を一人の女性としてではなく「自らの愛という名の毒を注入するための、完璧な空の器」としてしか見ていない、冷徹な飼育者の傲慢さも、記録されることは決してなかった。

 「六十枚目。……再誕だ、依織。君は今、本当の意味で私のてのひらの中の存在になった。この揺り籠の中で、君は世界から、そして君自身という不安定な成熟から救い出されたんだ」

 灰次が投稿ボタンを無機質に、かつ深い恍惚と共にタップし、揺り籠の中で小さく丸まったまま動かなくなった依織を放置して、彼女の「新しい名前」を考え始めた。その無音の支配が、彼女を繋ぎ止める最も重い蓋となっていた。

 「……ええ。もう、私には明日の予定さえ、破り捨てられた絵本の1ページのようにしか思えないわ。あなたの育児が終わる頃には、私はもう、泣くことさえ忘れた、ただの美しい人形でしかなくなっているのかもしれない。ねえ、灰次、次は私の何を奪い取るの? 私の最後に残った、あなたへの憎しみ? それとも、あなたの腕の中でも消えない、私の夢の中の『一人で走る疾走感』さえも、そのレンズで撃ち落として、深い眠りに沈めるの?」

 依織は、揺り籠の中から見える、埃の舞う天井の梁を、焦点の定まらない瞳で見つめながら、時間が静止した屋根裏部屋の中で、自身の存在が純粋な虚無へと退行していくのを、ただ静かに受け入れ続けた。

 あと、九百四十枚。


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