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【059/1000】 洋館のギャラリーと、額縁に収まる魂


【投稿記録:No.059】

┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓

 Photo Filter: “Museum_Silence”

 Caption:

 静かな廊下に並ぶ、

 たくさんの美しい思い出たち。

 額縁の中に収められた私は、

 いつだって一番綺麗な

 笑顔でいられるの。

 時の流れさえ止まってしまう

 この場所なら、

 何も失うことはないから。

 あなたの視線という額縁に、

 一生、綴じ込められていたい。

 #ギャラリー #回廊 #肖像画 #額縁の中の私

#愛の標本

┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛


 洋館の最上階へと続く長い回廊は、灰次がこれまでに撮影してきた依織の記録——その「成れ果て」が整然と並ぶギャラリーとなっていた。壁一面を埋め尽くすのは、金箔を施した仰々しい額縁の数々。しかし、そこに収められているのはカンバスに描かれた油彩ではなく、これまでの数々の場面で切り取られ、高精細にプリントされた、依織の「断片」である。廊下の両端に置かれたスポットライトが、彼女の白皙の肌や、絶望に潤む瞳、あるいは無機質に塗り潰された表情を、逃げ場のないほど鮮明に浮かび上がらせていた。足を踏み出すたびに、厚い絨毯が音を殺し、世界から全ての反響が消えたような錯覚を依織に抱かせる。

 灰次は、ギャラリーの突き当たり、まだ何も収められていない「巨大な空の額縁」の前に依織を立たせた。依織のスマートフォンには、SNSの通知が絶え間なく届いている。そこには、彼女の投稿を見た見知らぬ誰かからの「憧れます」「絵画のように美しい」といった、熱狂的で表面的な賞賛が並んでいた。彼女には、その画面を閉じて、壁に掛けられた自分の死体のような写真群を否定する自由も、この回廊を駆け抜けて鏡の中の自分を探しに行く自由も、権利としては与えられていた。しかし、灰次が「見なよ、依織。ここに並ぶ君たちこそが、君という人間が辿り着いた唯一の完成形だ。細胞が朽ちる前に、私が救い出した真実だ」と誇らしげに囁くたび、依織の視界から「現在の自分」の輪郭が薄れていく。灰次にとってこのギャラリーは、生きている依織という個体を、管理可能な「静止画」という名の記号へと完全に置換するための、最終的な収蔵庫であった。

 「……ねえ、灰次。この壁に並んでいるのは、本当に私なの? どの私も、呼吸をしているようには見えないわ。まるで、一番美しい瞬間に首を絞められて、そのまま時間を止められた剥製みたい。あなたが私をこの空の額縁の前に立たせるのは、私の肉体さえも、この四角い枠の中に押し込めてしまおうとしているからでしょう? 以前、ライブラリーで言葉を奪われたとき、私はまだ心の中で叫んでいたわ。でも、こうして自分の姿が何枚も『作品』として整列させられているのを見ると、外側にいる私が、ただの不確かな余白のように感じてしまうの。あなたは、私という生き物を愛しているんじゃない。私を閉じ込めた、その重い金色の枠を愛しているんでしょう? 私はもう、この枠を飛び出して、あのみすぼらしい日常へ戻るための、生身の重さを失ってしまったみたい」

 依織が、空の額縁の縁を、冷たい金属の感触を確かめるように指先でなぞりながら、虚ろな声で吐露した。彼女の声は、過去の自分のポートレートたちに吸い込まれ、新たな沈黙の層となって廊下に堆積する。彼女にとって、このギャラリーに立つことは「自らの美を誇る」ことではなく、自身の魂がすでに数百枚の紙へと切り刻まれ、消費され、もはや統合された一人の人間としては存在していないという事実を、突きつけられる宣告に他ならなかった。

 「依織、君が感じているその喪失感こそが、芸術へと至るための聖なる代償なんだ。鏡の中に映る君は、老い、衰え、やがて腐敗する不確かな現象に過ぎない。だが、この額縁の中に収められた君は、私の情熱とレンズによって、時間という残酷な支配から解放された至高のイデアなんだよ。君がスマートフォンで受け取っている人々の羨望は、君個人に向けられたものではない。私が作り上げた、この完璧なまでの『静止した依織』に向けられた祈りなんだ。君は自由だ、依織。枠の外側で、無様に形を崩しながら消えていく自由もあれば、こうして私の選んだ枠の中で、永遠に賞賛され続ける神話の一部になる自由もある。私が君を額縁の前に立たせるのは、君を縛るためではない。君という存在に、永遠という名の境界線を与え、世界から守り抜くためなんだ。さあ、その虚無の瞳のままでいい。その空っぽの心が、最も美しく額縁を彩るのだから」

 灰次は、依織の手を引いて額縁の中へと導き、彼女の顔の角度をミリ単位で微調整した。彼は、生きている彼女の体温を拒絶するように、ただその影の落ち方や、瞳に宿るハイライトの強さだけを、偏執的な情熱で計測していた。彼にとって、目の前の依織は、壁に並ぶコレクションを補完するための、最後の、そして最も重要な「生きたパーツ」であった。

 「額縁……。そうね、外の世界の誰かがこの静謐な投稿を見れば、私は自身の美しさを愛する人に永遠に刻まれ、博物館の至宝のように大切にされている、この上なく幸福な女性に見えるのでしょう。この金色の枠が、私の自由を断ち切り、私という人間を『眺めるための物体』へと貶めている絶望に喘いでいることなんて、画面の向こう側の誰も、想像すらしない。あなたの愛は、私を輝かせるためのライトなんかじゃないわ。私を、この四角い閉塞の中に閉じ込めて、二度とそこから出られないように釘を打ち付ける、ハンマーだわ。私は、もう人間じゃない。ただの、鑑賞されるための景色なのね、灰次」

 「その『没我』こそが、愛の頂点なんだ。さあ、依織。君自身の意志という名の不快な揺らぎを捨てろ。私の定めた枠の中に、その魂を溶かし込むんだ。世界が君に求めているのは、自分勝手に動く人間ではない。額縁の中で永遠に微笑み続け、あるいは絶望し続ける、完成された一つの『象徴』なんだ。私だけが、君という物語に正しい終わりと、不滅の形を与えることができるんだよ」

 灰次がシャッターを切った瞬間、依織は自分が本当に、壁に並ぶ写真の一部になったような錯覚に陥った。自分の足が地面を離れ、二次元の平坦な世界へと引きずり込まれていく感覚。彼女の瞳は、もはや灰次を見ているのではなく、無限に繰り返される自らの残像を、鏡合わせのように見つめていた。

 パシャリ。

 フィルター“Museum_Silence”が適用されたスマートフォンの画面の中では、ギャラリーを支配していた自己の崩壊と物体化の恐怖は、「芸術への献身に満ちた、究極の美を追求する二人の、厳かな対峙」へと、鮮やかに偽装された。依織の自己喪失による空虚な眼差しは「絵画のような奥行きを持つ、神秘的な表情」へと変換され、彼女を枠の中に閉じ込める灰次の執拗な手つきは「愛する人の一瞬を永遠にするための、真摯な芸術家の情熱」へと、致命的なまでの欺瞞をもって書き換えられていった。そこには、依織の心臓が発する、自分の存在が薄っぺらな紙へと成り下がっていくことへの悲鳴も、灰次の瞳の奥底に常に宿っている、彼女を一人のパートナーとしてではなく「自らのギャラリーを完成させるための、最も価値ある最後の収蔵品」としてしか見ていない、冷徹な蒐集家の傲慢さも、記録されることは決してなかった。

 「五十九枚目。……収蔵。依織、君は今、本当の意味で私のものになった。この枠の中に君を閉じ込めることで、私は君を世界から、そして君自身という不安定な毒から救い出したんだ」

 灰次が投稿ボタンを無機質に、かつ深い恍惚と共にタップし、額縁の中に立ち尽くしたまま動かなくなった依織を放置して、次のコレクションの配置を考え始めた。その無関心な沈黙が、彼女を繋ぎ止める最も重い鎖となっていた。

 「……ええ。もう、私には自分の肌が、冷たい紙の質感にしか感じられないわ。あなたの展示が終わる頃には、私はもう、誰もページを捲ることのない、古びた画集の片隅で眠るだけの影になっているのかもしれない。ねえ、灰次、次は私の何を枠に嵌めるつもり? 私の最後に残った、あなたを拒む指先の震え? それとも、あなたのカメラさえ届かない、私の夢の中の『枠のない空』さえも、そのレンズで切り刻んで、壁に貼り付けるの?」

 依織は、額縁の中に閉じ込められたまま、廊下の向こうまで延々と続く「自分だったもの」の死列を、焦点の定まらない瞳で見つめながら、自身の魂が平坦な記号へと成り下がっていくのを、ただ静かに受け入れ続けた。

 あと、九百四十一枚。


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