【006/1000】 無味乾燥な献立
【投稿記録:No.006】
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Photo Filter: “Warm_Kitchen”
Caption:
手作りの朝食。
二人で並んで作る時間が、
一日の始まりを穏やかにしてくれる。
何気ない日常の中に、
幸せは潜んでいる。
#手料理 #朝食 #二人の時間 #丁寧な暮らし
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冷蔵庫を開けたのは、朝の六時十二分だった。
灰次が扉を引いた瞬間、冷気が顔に当たる。温度は摂氏四度。設定通りの数値だった。庫内には、整然と並んだ容器がある。卵のパック。牛乳。野菜室には、しなびた葉物が入っている。そして、奥の棚に、賞味期限を過ぎた食材が並んでいた。
豆腐。賞味期限は三日前。
ヨーグルト。賞味期限は五日前。
開封済みのハム。賞味期限は一週間前。
灰次は、それらを見ていた。見ているだけで、取り出さなかった。
取り出せば、廃棄しなければならない。廃棄すれば、その行為を認識しなければならない。認識すれば、管理の失敗を意味する。失敗を意味すれば、システムに欠陥があることになる。欠陥があれば、一〇〇〇枚という数字が揺らぐ。
だから、取り出さなかった。
背後で、足音が聞こえた。
依織が、キッチンに入ってきた。髪は、まだ濡れている。シャワーを浴びたばかりだった。白いシャツを着て、袖を肘まで捲り上げている。腕に、藍色の染料の痕が薄く残っていた。
「何を見ているの」
依織が言った。声は、昨日と同じ温度だった。
「確認していた」
灰次は冷蔵庫の扉を閉じた。「在庫の状態を」
「そう」
依織は、それ以上問わなかった。問えば、答えが返ってくる。答えが返ってくれば、会話が発生する。会話が発生すれば、感情が動く可能性がある。感情が動けば、システムが揺らぐ。だから、問わなかった。
依織は冷蔵庫を開け、卵のパックを取り出す。賞味期限内のものを選んだ。灰次は、フライパンを取り出す。火をつけ、油を敷く。
二人は、並んで作業を始めた。距離は、七十センチ。触れない距離。触れなかった距離。
卵を割る音が、キッチンに響いた。黄身が、フライパンに落ちる。白身が、広がる。灰次は、その様子を見ていた。見ながら、何も考えていなかった。考える必要がなかった。卵は、ただ焼かれるだけだった。
依織は、パンを焼いていた。トースターに入れ、タイマーをセットする。二分三十秒。正確な時間だった。依織は、正確さを好んだ。正確であれば、予測できる。予測できれば、管理できる。管理できれば、安全だった。安全であれば、一〇〇〇枚まで到達できる。
トースターが、音を立てた。パンが焼けた。依織は、それを取り出し、皿に置く。灰次の卵も、焼けた。灰次は、それを皿に移す。二つの皿が、テーブルに並んだ。
灰次が、椅子に座る。依織が、向かいに座る。二人の間には、テーブルがある。幅は、九十センチ。触れない距離。触れなかった距離。
灰次は、卵を食べた。味は、感じなかった。感じる必要がなかった。栄養を摂取するという行為が、目的だった。依織は、パンを食べた。味は、感じなかった。感じる必要がなかった。咀嚼し、嚥下し、胃に送る。それだけだった。
テーブルの上には、スマートフォンが置いてあった。依織のものだった。画面が、一度だけ光った。通知が来たのだった。
依織は、それを見なかった。見る必要がなかった。内容は、予測できた。昨日の投稿への反応。「素敵ですね」「羨ましい」「理想の夫婦」。言葉は、いつも同じだった。
灰次も、それを知っていた。知っていたから、見なかった。見れば、確認することになる。確認すれば、認識することになる。認識すれば、その虚構を意識することになる。意識すれば、システムが揺らぐ。だから、見なかった。
食事が、終わった。灰次が、皿を洗う。依織が、テーブルを拭く。分担は、決まっていた。決まっていたから、迷わない。迷わなければ、会話が不要だった。会話が不要であれば、感情が動かない。感情が動かなければ、安全だった。
皿を洗いながら、灰次は冷蔵庫の奥を思い出していた。賞味期限を過ぎた豆腐。ヨーグルト。ハム。それらは、まだそこにある。明日も、そこにある。明後日も、そこにある。
いつか、腐敗する。
腐敗すれば、臭いが出る。臭いが出れば、認識せざるを得ない。認識せざるを得なくなれば、廃棄しなければならない。廃棄しなければならなくなれば、その時が来る。その時とは、システムの欠陥が顕在化する瞬間だった。
灰次は、皿を洗い終えた。水を止める。タオルで手を拭く。依織は、テーブルを拭き終えていた。布巾を、シンクに置く。二人は、それぞれの部屋に向かった。廊下で、すれ違うことはなかった。灰次は左の部屋へ。依織は右の部屋へ。扉が、閉まった。
灰次は、机に向かった。辞書を開く。ページは、「ふ」の項だった。「腐敗」という見出しがあった。定義は、四行で書かれていた。灰次は、それを読んだ。読み終えた。
何も思わなかった。ただ、次のページをめくった。
「夫婦」という見出しがあった。定義は、三行で書かれていた。灰次は、それを読んだ。読み終えた。何も思わなかった。ただ、辞書を閉じた。
依織は、工房に向かっていた。工房は、家の裏にある小さな建物だった。扉を開けると、藍の匂いがした。発酵した匂い。腐敗に近い匂い。だが、腐敗ではない。発酵と腐敗の境界は、曖昧だった。
依織は、染色液を見た。容器の底に、沈殿物が溜まっている。藍色の、濃い沈殿。依織は、それをかき混ぜた。棒を入れ、ゆっくりと回す。沈殿物が、巻き上がる。液体全体が、濃い藍色に染まる。
依織は、その色を見ていた。見ながら、何も考えなかった。考える必要がなかった。色は、ただそこにあるだけだった。
依織は、白い布を取り出した。それを、液体に浸す。布が、藍色に染まり始める。繊維が、色を吸収する。吸収された色は、二度と抜けない。不可逆な変質。
依織は、それを知っていた。知っていたから、浸した。浸すことで、布は別のものになる。別のものになれば、元には戻らない。戻らなければ、前に進むしかない。前に進めば、一〇〇〇枚に近づく。
近づけば、終点に到達する。到達すれば、心中が成立する。成立すれば、二人は解放される。解放されるまで、あと九百九十四枚。
依織は、布を引き上げた。藍色に染まった布が、空気に触れる。酸化が始まる。色が、少しだけ濃くなる。依織は、それを干した。干された布が、風に揺れる。揺れながら、色を定着させていく。消えない色で、依織は何を作るのか。依織自身も、知らなかった。知る必要がなかった。ただ、染めるという行為が、続くだけだった。
夜が来た。灰次は、部屋で辞書を読んでいた。依織は、工房で布を干していた。
二人は、それぞれの場所で、それぞれの時間を過ごしていた。交わることはなかった。交わる必要がなかった。ただ、同じ家に住んでいるだけだった。同じ家に住み、同じ食事を摂り、同じ目的に向かって進む。それだけの関係だった。それ以上でも、それ以下でもなかった。
冷蔵庫の中では、賞味期限を過ぎた食材が、静かに腐敗を続けていた。豆腐の表面に、薄い膜が張り始めていた。ヨーグルトは、分離していた。ハムは、変色していた。それらは、誰にも見られることなく、暗闇の中で変質していく。
変質は、止まらない。止める方法はない。ただ、時間が経過するだけだった。時間が経過すれば、いつか限界が来る。限界が来れば、臭いが出る。臭いが出れば、認識される。認識されれば、廃棄される。廃棄されるまで、それらは存在し続ける。存在し続けることが、唯一の役割だった。
灰次は、眠りについた。依織も、眠りについた。
二人の部屋の間には、壁がある。壁の厚さは、十二センチ。音は、通らない。呼吸音も、通らない。ただ、二人とも、呼吸をしていた。同じリズムではなかった。同期することもなかった。ただ、それぞれが、それぞれの速度で、空気を吸い、吐いていた。
冷蔵庫の中では、腐敗が進んでいた。誰も、それを知らなかった。知る必要がなかった。知らないまま、時間が過ぎる。過ぎた時間は、戻らない。戻らない時間の中で、腐敗は加速する。
加速した腐敗は、いつか臨界を迎える。臨界を迎えたとき、何が起きるのか。それは、まだ誰も知らない。知らないまま、あと九百九十四枚。




