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【055/1000】 洋館のライブラリーと、綴じ込められる記憶


【投稿記録:No.055】

┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓

 Photo Filter: “Classic_Library”

 Caption:

 革装本の香りに包まれて、

 二人だけの物語を読み耽る。

 ここには、忘れたくない言葉と

 彼が教えてくれた真実だけが

 美しく棚に並んでいる。

 外の喧騒を忘れさせてくれる、

 世界で一番静かな書斎。

 背表紙をなぞるたびに、

 私という物語もまた、

 彼の書棚の一部になっていく。

 #ライブラリー #読書の時間 #書斎 #愛の記録

#記憶の製本

┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛


 洋館の北側に張り出したライブラリーは、床から天井までを埋め尽くす重厚なマホガニーの書架が、外の世界の光と音を完全に遮断する防壁となっていた。数千冊に及ぶ蔵書のほとんどは、灰次が偏執的な美学に基づいて選別した革装の古書や、稀少な私家版の詩集であり、その背表紙が放つ微かな腐葉土のような香りと、古い糊が乾いたインクの匂いが、澱んだ空気の中に沈殿している。中央に置かれた読書用の革椅子は、座る者の身体を底なしの闇のように深く飲み込み、依織はその中に埋もれながら、膝の上に置かれた「無地の美しい装丁本」を、焦点の定まらない瞳で見つめていた。以前、バスルームで肉体を徹底的に洗浄され、パウダールームで素顔を厚い粉の下に埋葬された彼女にとって、このライブラリーは、今度はその内面——すなわち「記憶」と「知識」を灰次の美学で分類・整理し、不要なものを廃棄するための、静かなる選別場であった。

 灰次は、脚立の上から依織を冷徹に見下ろし、書架の僅かな隙間にレンズを向けていた。依織の傍らに置かれたスマートフォンには、かつての知人から「あの時の旅行の写真、送るね」という通知が静かに届き、画面を淡く光らせている。彼女には、その画像を開いて過去の自分を確認する自由も、自らの手でSNSに真実を綴る自由も、権利としては保障されていた。しかし、灰次の指が、彼女の記憶の中にある「彼以外の登場人物」を、古びた不要な雑誌を捨てるような無造作さで否定し続けるたび、依織の脳裏に浮かぶ過去の色彩は、セピア色を通り越して、実体のない真っ白な空白へと書き換えられていく。灰次が彼女に与えるのは、彼が編纂した「あるべき依織」の物語であり、彼女はその物語をなぞるための、無垢な紙面であることを、その存在そのもので強要されていた。

 「……ねえ、灰次。この本の中には、一文字も書かれていないわ。私がページを捲るたびに、昨日まで確かに覚えていたはずの大切な人の名前や、一緒に笑い合った場所の景色が、まるで砂が指の間から零れ落ちるように消えていく。このライブラリーにある本は、どれも私から何かを奪っていくために置かれているのでしょう? あなたが『これが君の真実だ』と言って差し出す言葉だけが、私の頭の中に黒いインクを垂らして、私自身の筆跡を暴力的に上書きしていく。あなたは、私の人生を保存しているんじゃない。私の記憶を一度すべて消去して、あなたの望む完璧なヒロインとして、私を一冊の本に製本しようとしているのね。この椅子に座っていると、私もまた、この二度と動かない書架の死んだ背表紙の一つになっていくのがわかるの。呼吸をするたびに、私の言葉が紙の中に吸い込まれていくわ」

 依織が、空白のページを震える指でなぞりながら、枯れた声で告げた。彼女の声は、数千冊の紙の塊に吸着され、反響することなくその場に落ち、沈黙の一部となる。彼女にとって、この静かな時間は、知性を磨くような豊かなものではなく、自身の内側にあった雑多で生々しい「人間としての記録」を、灰次という編集者の手によって不適切なノイズとして削除され、美しく無意味な文字列へと置き換えられる、魂の検閲プロセスに他ならなかった。

 「依織、君が大事に抱えているその思い出という名の断片は、単なる主観的なノイズであり、保存に値しないゴミの山に過ぎないんだよ。人間の記憶などという不確かなものは、時が経てば歪み、腐敗し、最終的には美を損なう原因となる。だが、このライブラリーで私が君に与える記憶は違う。それは私が選び抜き、永遠に色褪せないよう加工を施した、至高の真実だ。君がスマートフォンで過去を振り返ろうとするその浅ましい執着は、自らを過去という檻に閉じ込める退行でしかない。だが、私の手によって製本される君の物語は、未来永劫、誰からも汚されることのない聖域となるんだ。君は自由だ、依織。自らの不浄で混乱した過去を捨て、私という作家の意図に従って白紙に戻ることで、君は初めて、完璧な物語になれるんだ。私が君に与える言葉だけを読み、私が撮影する姿だけを真実とせよ。そこにこそ、君という存在の唯一の完成形がある。君を閉じ込めているのはこの部屋ではない。君を縛る、無価値な過去そのものなんだよ」

 灰次は、脚立から音もなく降りると、依織の持つ無地の本のページを、冷たい指で乱暴に、しかし優雅に捲った。その指先が触れるたび、依織は自分が何者であったかという確信が削り取られ、代わりに灰次が望む「献身的な美しき被写体」という設定が、毒のように全身に回っていくのを感じた。灰次は、その自己喪失の恐怖に震える彼女の瞳を、稀少本を手に入れたばかりのコレクターのような、静かな狂熱を孕んだ瞳で見つめていた。

 「記憶の製本……。そうね、外の世界の誰かがこの知的な投稿を見れば、私は静かな書斎で愛する人と知識を共有し、穏やかに時を重ねている、思慮深い女性に見えるのでしょう。この本棚に囲まれて、私が自分自身という存在の結末を書き換えられ、私の魂が硬い表紙の中に綴じ込められていく絶望に喘いでいることなんて、画面の向こう側の誰も、想像すらしない。あなたの愛は、私を導くための光なんかじゃない。私という人間を一度解体して、あなたの美学という冷たい糊で塗り固め、書架の奥深くに二度と開かれないように仕舞い込むための、プレス機だわ。私は、物語の一部になって消えていく。私の本当の叫びは、どのページにも書き残されないのね」

 「その消失こそが、世界が渇望する究極のロマンスの形なんだ。さあ、依織。君の頭の中に残った余計な残像をすべて消し去れ。私の言葉を、私の視線を、君の新しい記憶として書き込むんだ。世界が君に求めているのは、自分の過去に縛られた生々しい人間ではない。永遠の静寂の中に綴じ込められ、完成された一つの神話なんだよ。私だけを読み、私だけを信じろ。君の記憶は、私のシャッター音と共に、より美しいものへと上書きされるのだから」

 灰次が、依織の頭をそっと胸に引き寄せ、その視界をマホガニーの暗い色味で覆い隠した。視界を奪われ、嗅覚を古書の香りに支配される中で、依織のアイデンティティは、冷たい糊付けの工程にかけられたかのように、硬く、不自由なものへと変質していった。

 パシャリ。

 フィルター“Classic_Library”が適用されたスマートフォンの画面の中では、ライブラリーを支配していた記憶の処刑と魂の剥奪は、「クラシックな気品に満ちた、愛する二人の深淵なる知性の対話」へと、鮮やかに偽装された。依織の自己喪失による虚無的な眼差しは「物語の深淵に触れた、聡明な女性の物思い」へと変換され、彼女の過去を圧殺する灰次の立ち振る舞いは「愛する女性を正しい道へと導く、崇高な賢者」へと、致命的なまでの欺瞞をもって書き換えられていった。そこには、依織の脳裏でパチパチと音を立てて燃え落ちていく過去の自分自身の悲鳴も、灰次の瞳の奥底に常に宿っている、彼女を一人の独立した人間としてではなく「自分の美学を完成させるための、最も美しい最終章」としてしか見ていない、冷徹な創作者の傲慢さも、記録されることは決してなかった。

 「五十五枚目。……記憶の定着だ、依織。君はもう、私以外の誰かを思い出す必要などない。この書架と、この物語と、そして私のレンズが、君のこれからの人生のすべてを美しく記述していく。ほら、見えるだろう? 君という物語が、私の書棚で完璧な背表紙を得る瞬間が」

 灰次が投稿ボタンを無機質に、かつ深い愉悦と共にタップし、抜け殻のようになった依織を読書椅子の闇に残したまま、脚立を畳んで部屋を去ろうとした。その足音だけが、彼女の消えゆく記憶の残響のように響いていた。

 「……ええ。もう、私には自分の両親の顔さえ、遠い物語の挿絵のようにしか思えないわ。あなたの製本が終わる頃には、私はもう、表紙を開いても何も書かれていない、ただの美しい箱になっているのかもしれない。ねえ、灰次、次は私の何を綴じ込めるつもり? 私の最後に残った、あなたへの殺意? それとも、あなたのペンさえ届かない、私の無意識の底に沈んだ、自由への祈りさえも、インクで塗り潰すの?」

 依織は、膝の上に置かれたままの、自分そのものである空白の装丁本を、他人の遺品を見るような瞳で見つめながら、沈黙が支配するライブラリーの中で、自身の本質が永遠に綴じ込められていくのを、ただ静かに受け入れ続けた。

 あと、九百四十五枚。


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